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「星灯」4号(東京都)① 英訳「日本プロレタリア文学全集」出版のシカゴ大学の研究者の仕事の意義 訳者まつきたかこ氏の労作に感銘受ける

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2017年 3月13日(月)02時53分30秒
返信・引用 編集済
  ・特集を組んでいる。この二月、シカゴ大学の出版局刊行で、ヘザー・ボウエン、ノーマ・フィールド編集の英訳「日本プロレタリア文学選集」が出版されたその背景と内容紹介とともに、全序文の邦訳を一挙掲載。訳者は、まつきたかこ。この刊行は、日本文学の政治と文学の係り合いを理解する上で貴重な資料を世界に提示し、抵抗文学がいかなる形で日本に定着したかの特殊な日本の精神風土を解き明かす大きな遺産になりそうだ。政治的な主義、主張は別にしても、日本の近代文学に興味ある者には一読の価値が大いにあろう。

・プロレタリア政治運動をしていた戦前の日本人が、政治活動だけに努力を傾注せず、プロレタリア文学活動になぜ重きを置いていたかの謎に迫るものとして編集されている意図も興味深い。全文120枚に及ぶ序文の全訳を一挙掲載した編集方針には感嘆した。これを読んで、日本の文学関係者は、日本文学の中の抵抗文学の在り方を再認識するだろう。国内で論じている「抵抗文学」の観方とは別の視野からの照射を見出し、刺激的であった。なお、この序文の翻訳者の まつきたかこ氏は札幌市在住で、訳者の後書きで「当時の過酷な状況の中で、プロレタリア文学運動にとりくんだ人々の苦闘と遺された業績には、敬服する思いです」と語り「シカゴ大学の研究者の方々の、この徹底的な、緻密な、奥深い労作に、心から敬意を表します」としている。

   ・星灯の影ほのかに灯る町坂道くだれば運河に続く   石塚 邦男

  郵便ー182-0035 東京都調布市上石原3-54-3-210 北村隆志方

               星灯編集委員会
 
 

“一月二日” 間島康子/『鵠』№60

 投稿者:荻野央  投稿日:2017年 3月 8日(水)09時29分29秒
返信・引用 編集済
  老いたる人も若い人も、それぞれ難問を抱えていて(そのなかには一生つきまとうものもあるであろう)、それがどういうメカニズムかわからないが、溶解するときは至福の刻である。至福の刻を詩にするのは容易なことではないが、この作品は違う。

“三日月が浮かび
横に金星が
並ぶ夜を
歩いていた

真冬ではあったが
寒くはなかった

暮れから
何かが
思いの外
片付き収まり
心が晴れていた

空も晴れていた
夜は夜の色をして
月も星も輝き
曖昧がなかった

見上げたこと
眺めたこと





静かな遠さで
結ばれた一瞬が
幸いなしるべのごとく
こころを歩ませてゆく“

この作品の核は「夜は夜の色をして/月も星も輝き/曖昧がなかった」という三つの行にある。心に難問を抱えて思考の軸が不安なとき、誰にしろ何がどうなっているのか判っているのに、どうも判っていない気がしてならない場合のことを知っている。この「不安」というのか「不安定」というのか、態度の揺れるとき、この三行はそのことを明確な暗喩として示す。
一月二日、元旦の翌日・・・もの憂い慶賀の日が過って終わった日の夜に、ひとつふたつ、三つめの月が浮かび、あまり気にしなかった宵の明星の明るさに目が惹きつけられる。もの憂いが“いち、に、さん”と三つの数字が結ばれたとき、何かが溶解したのであろう。この作品で気になるのはその「何か」の内容よりむしろ、その溶解の事実と安定のことなのだが、ほっとした気分とこの“いち、に、さん”の連続的なリズムとその点の結ぼれが言語としてすっきりと表現を為していることだ。

不安定から安定へ。未解決から解決へ。

でも間島氏はそのままで詩を終わらせることはない。「幸せのしるべ」であるから、そうした「ほっとした」とか「安堵」にいるのではない。標とは久しぶりに聞く言葉だ。木の匂いのする方向性だ。
わたしの空想では、表示する標の香りとは幸福ではなくて幸福の予感である。その予兆は、「夜は夜としての色」、「月と星々の輝き」は、不安定な世界で輪郭が曖昧であったが、いまや曖昧のないときであることを知っていることだ。
たぶん幸福に至るであろう。でもその期待を支えるのは、間島氏という詩人の“視線の確かさ“以外に無いし、モノ見る確かさは、幸福と幸福の予感をきちんと分ける確かさに現れていると思うのだ。だからこの詩は謳歌することに終始する詩ではないことを付け加えておく。
 

井本元義第三詩集「回帰」論①

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2017年 2月28日(火)00時15分11秒
返信・引用 編集済
  ・最初に前置きを。約一月の間、この「関東」の場で書き込みしていなかったのは、特別の仕事があったからだったが、ぼつぼつ旧に復してリズムを取り戻そうと思っている。

・手元に井本元義の第三詩集「回帰」がある。この詩集を贈呈されてから半年以上になるだろうか・・・。この作者は小説もエッセイも一流だが詩作品も一流である。特に詩集となれば、うかつな寸評で済ますわけにはいかないと思いながら、時が経ってしまったことをまずお詫びして感想に入りたい。この作者の作品は何によらず私の波長に合っていて、良否を裁定する目線以前に、個人的にもっとも好きな作者であることを告白することに躊躇はないことをまず申し述べておきたい。おそらく、あまたの同人雑誌作家のなかでは数少ない一級の作品を書いている作家のひとりであると私は思っている。井本氏は福岡市在住の詩人で作家としても第一線で活躍している方である。

・その資質を余すところなく定着した作品の一つが、この詩集の巻頭に置かれた五十行にも及ぶ力作作品「森」である。この作品には筋書きめいたドラマが付随しているのが珍しい特徴になっている。全行紹介するといいのだが、かいつまんで詩のドラマを紹介すると、<ぼく>は一面の白い花に導かれて森に入って行く。深い森の奥からなつかしいあこがれのようなものがある気がして、誘なわれて行くのだが、「子羊のように黙って導かれ/誰に看取られることもなく抹殺されることさえ/安らぎと見紛うように」という章句で第一連は終わるのだが、ここには永遠の逃亡者と運命つけられた<ぼく>の心象イメージが影絵のように章句を彩り、読者にあたかも長編推理小説のドラマめいた暗喩の厚みを提示してくるのである。

・こうした喩法の手法を重層的に取り込んで章句を紡ぐ作者は、何者かに狙われて逃亡する<ぼく>の置かれた環境、存在を次第に明らかに意識して行く方法を選択、章句が進むにつれて読者にスリラーめいたヒントをひとつずつ与えて連を重ねて行く。

・第二連で森の情景を描写し、第三連で道を失って不安に駆られる<ぼく>の逃亡者としての不安な心理を描き
第四連で、渓谷の果てに千年を隠れ住む集落の意味合いを暗示し、恐怖と共に平穏な生活の場に戻ろうと希求する<ぼく>。そして、ついに高いつり橋の上に出る・・・。

  何者かが森のどこからか ぼくを狙う銃口か

  なつかしい きらめき

  ぼくは恍惚として立ち尽くす

  さあ 撃て

・この最終章句は見事というほかない暗喩である。読み返すごとに読者に別の色合いの読みを提示する<優れた現代詩>たりえている作品であった。なお、この作品は平成二十一年7月号の「現代詩手帳」に掲載されていた作品である。

・私ごとを言うと、二十六年前、北海道詩人協会とNHkラジオの朗読詩作品として、百数十行に及ぶ長編詩を書き、放送された「眠りの伝説・あるいは悪夢への招待」と題するものをまとめたものだが、奇しくもそのテーマに類似したイメージを井本氏のこの作品が紡いでいたことに、同世代共通の時代認識を感じとったものであった。その意味でも詩語の選び方やイメージの紡ぎ方や感受性に共感を覚えるところが多いのではないか、という気がする。

・最近の現代詩が時代が進むにつれ退行している現実を慨嘆していた私にとって、井本氏の作品は、日本の現代詩が頂点を極めた時代のイメージと喩法を駆使できていることを確認して、嬉しく思ったものである。

  ・言霊のささやく声を耳に聴く吾も恍惚に立ち尽くしけり  石塚 邦男


 

「群系」37号(東京都)② 力作の島原の乱を描いた柿崎一の「士道無残」は完結、萩野央「桜の木が倒れた日」の掌編の象徴性、稲垣輝美の注目の沖縄物「戦世を超えて」は後編に期待

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2017年 1月31日(火)06時22分58秒
返信・引用 編集済
  ・稲垣輝美「戦世を超えてー父と母の記」前編は、沖縄出身の作者が父母への鎮魂をこめて書き始めたらしき私小説風の作品。前にもこの作者の沖縄物を読んだ記憶があるが、沖縄戦の過酷な状況下で幼い作者が命からがら生きた作品として鮮烈な印象であったのを記憶していただけに、今回は父母の出生から説き起こす回想風の静かな船出といった書き出しである。この前編は40数枚のボリュウムで、掲載費もかなりの負担だろうが、書き残したい執念が滲む作風だけに、後編は注目される。

・荻野央「桜の木が倒れた日」は、昨年妻に先立たれた「わたし」は、慣れぬ一人暮らしに追い立てられながら、妻との思い出に押しつぶされそうな毎日を送って来た。息子は外資系の会社で海外を飛び回っていていつ孫の顔を見られるのかも分からない。一人暮らしで一気に老け込んでしまったことを自覚している「わたし」の日常・・・。そんな生活のわたしの息抜きの話し相手は、わたしのマンションの向かいに住んでいる木村老人・・・というような15枚ほどの短編なのだが、桜の木の小道具が亡き妻への哀惜とともに象徴的に描かれていて小説になっている。

・柿崎一「士道無残」下は、前号からの連載。島原の乱に焦点をしぼった歴史もので読ませる四十数枚。なかなかの作者である。行を詰めて書かずに、もうすこしゆったりした筋書きで書くと、持ち味がさらにでたろうと惜しまれた。話は余談になるが、この島原の乱以降、幕府のキリシタン弾圧は過酷をきわめ、宗徒の相当数が北海道に逃げてきて、鉱山の労務者として隠れ住む者が多かったことである。また、宗徒はアイヌの民の中に交じって住み、キリスト教をアイヌの民に広げる役割も担ったことが言い伝えられていることを申し添えておく。

  ・追はれ住む北辺の地の荒涼に生きし者たち墓標もなくて   石塚 邦男
 

相模文芸33号

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2017年 1月20日(金)17時59分4秒
返信・引用 編集済
  冬になってから、今まで書けなかった分を一気に書こうとして長編に取り組んでいる今日このごろです。相模文芸を送っていただいてかなりたつのですが、今日、目次に目を走らせ、印象的な題名のものから読もうと思いました。
矢来あさ子さんの「手を離したら」という掌編小説はよく書けています。文体を変えたら児童文学としても優れたものになる可能性があります。私自身が母子家庭で育ったものですから、この物語に出てくる男の子の気持は本当によくわかります。孤独とやるせなさ、生き別れた父への複雑な想いをかかえながらも、母親を愛し、慕い、守ってあげたいという気持ちを捨てない。見えざる神というものも考える。少年が自立していく過程をわかりやすい文体で書いています。登場人物をひとりかふたり加えて、母親が絡む人間関係に問題を起こさせ、少年の葛藤を描き込めばさらに優れた小説になるのはまちがいない。

外狩さんの「工場と時計と細胞」は原稿用紙になおせば70枚くらいの作品だろうか。往年のプロレタリア文学の現代版かと思って読み始めたがそうではないようだ。視点を次々に変える実験的な手法で書いている。導入部から廃屋的な雰囲気が漂ったが、どうやら千人以上も働く外資の工場ということだ。知らない専門用語も多いが工場の躍動感は伝わってくる。導入部の「鳥の目」で砂をさす言葉が10回も出てくるのはよろしくない。何人もが入れ替わって巨大工場の中に生きる人々が描かれる。今日は半ばまで読んだが、果たして後半は盛り上がるかどうか・・・
最後まで一貫して工場に勤める人たちの群像が描かれている。次々と登場人物が変わっていく。それぞれのセリフがあって、どこかレーゼシナリオ的な作品だが、やはり小説としては少し無理があるような気がするがどうか・・・
 

ありがとうございました

 投稿者:秋乃みか  投稿日:2017年 1月15日(日)14時33分33秒
返信・引用
  根保様
じゅん文学89号「ひそむもの」を読んでいただいてありがとうございました。
自分の欠点を克服しつつ書き続けていこうとおもいます。
これからもよろしくお願いします。
 

「ザイン」20号② 掌編ながら精神性が際立つ青木円香「雷鴫」鳥の羽の象徴的着眼が優れている

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2017年 1月14日(土)02時47分11秒
返信・引用 編集済
  ・青木円香「雷鴫」は、妻子ある八歳年上で塾の経営者の一人直司と二年前知り合った美紗。美紗が塾を手伝っていたとき知り合ったのだが、直司に家庭があると知っていながら彼をアパートに泊めて以来一週間に一度くらい付き合って二年になっている。彼とある日、鴫を見に行き、拾った羽を美紗にくれた彼。そんな彼が過労のあげく吐血し入院、胃癌と判明しあっという間に亡くなってしまう。葬儀は身内だけで済ませたので、せめて遺影にでも会いたいと訪ねたマンションはすでに知らない若い夫婦が住んでいるだけだった・・。彼が生前「鳥になったら迎えにいけるかな」と言っていた言葉を思い出し、鳥かごと粟粒を買って帰り、鳥かごに彼からもらった鳥の羽をいれる美紗・・。毎日、鳥かごを見るのだが、当然粟粒のエサは減らない。その鳥の羽におーちゃんと名つけ、毎朝出勤するときに「おーちゃん、行ってきま^す」と表面上は明るく声をかけて出かける美紗は「きっと彼は、先に鳥になって待っているんだ」と信じ始めていた。この「鳥の羽」の小道具が生きていて、象徴的意味を持つ。ここに着眼したところが才能なのである。

そんな美紗もやがて次第にやせ細って、ある日、道で突然倒れ帰らぬ人になってしまう・・・。そんな十数枚の掌編なのだが、全編に流れる抒情は淡々と描かれながら胸を打つ話にまとまっており、この作者の精神性が際立っている資質を証している作品。苫小牧市民文芸などに発表した作品を読んできたが、抒情的でありながら抒情に溺れない構成とバランスある今時珍しい才筆と注目していた作家である。

・ここで助言すると、苫小牧市民文芸の鳥の作品とこの作品を合体させて、五十枚から七十枚の作品に仕上げ、「北海道新聞文学賞」(賞金五十万円)、クオリティーの「北海道文学賞」(賞金十万円)に応募するといい。当確は確約できないが、有力候補にはいくだろう才筆だ。二十代、三十代でなくては、選者は取らない。若い作者は、将来性を見られて有利なのだ。「文学界」「群像」など純文学分野の新人賞などは、年配者の作品なら、たとえいい作品でも無視されがちなのである。

・勝負は若いうちにやることだ。無駄に同人雑誌などに所属して貴重な時間を浪費しないことだ。特に、仕事を持っている者は、無駄な時間を浪費せず、効率的に時間を使うこと。私なんかは二十代、三十代の過酷な第一線記者時代、常に原稿用紙を持ち歩いて、食事時間前後の喫茶店、取材と取材の合間の待ち時間を利用して長編小説を書き継いでいたものだ。

・パソコン時代の現代でも、勤め人なら、会社の退社時間後、喫茶や居酒屋で一休止してコーヒーかビールでも飲みながら、パソコンで書き継ぐくらいの器用さがないと、あっという間に一年が過ぎるものだ。若さは貴重である。時間を惜しんで効率よく利用することだろう。私なんかは喫茶店でデートしているときも、愛を語りながら原稿用紙を広げて書いていたものである。ただし、相手がそんな無作法を許してくれるなら、の話である。今なら相手が許してくれるなら、パソコンを打ちながらデートしたっていい。この多忙な時代に小説を書いて行こうとするなら、時間の使い方が鍵になるだろう。

  ・相変わらず書いてますねと八頭身ウエートレス嬢声をかけ来る  石塚 邦男
 

「中部ぺん」23号(名古屋市)②

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2017年 1月12日(木)11時54分7秒
返信・引用 編集済
  ・詩作品を読んだ感想を。


・尾関忠雄「天国・地獄逆さ吊り」は、「これはいったい何だ」というようなモノローグのなかに「どひゃあ」「ぎひひ」「どばあ」などの擬音がはいる散文的な作品なのだが、人生や世の中を諧謔的に観る批評詩は面白かった。

・若山紀子「行方不明」は、「あした もうご飯を炊きません/あした 味噌汁を作りません/あした 洗濯しません/わたしは居ません」こんな一連で始まる作品は、主婦が決まりきった日常が嫌になって、どこかへ行ってしまった、という話の皮肉な作品なのだが、定年退職したご主人を抱えた大方の主婦の願望かもしれない社会批評詩とも読み取れる。

・エッセイはいずれも健筆が光った。
 

アピ紹介御礼

 投稿者:田中 修  投稿日:2017年 1月10日(火)20時24分13秒
返信・引用
  アビ7号を初めて送りましたがご批評に感謝です。一人でも読んで戴ける読者がいることが書き手の励みになります。  

「中部ペン」23号(名古屋市)① 久野治の連載「黎明期の中部地方詩人」

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2017年 1月10日(火)19時01分1秒
返信・引用 編集済
  ・中部ペンクラブ主催で年二回発刊されている。中部地区の同人雑誌間の興隆と親睦を目的として、年二回発刊、同人雑誌に発表された作品を対象にした「ペンクラブ文学賞」を公募、文芸セミナーやシンポジュウムを開催して地区の同人雑誌活動を盛り上げている。

・今号には第二十九回文学賞決定の発表のほか、会員の掌編小説、文学賞選考経過、文学講演会、エッセイ、詩、短歌作品など盛り沢山の百九十頁で商業誌並みの水準高い内容で名古屋地区の層の厚さを裏付けている。

・注目したのは、久野治の連載「黎明期の中部地方詩人」の連載。この中で北園克衛を取り上げてますが、十代から詩を書いてきた私ですが、北園はもっとも影響を受けた詩人でした。昭和三十年代に学生だったのですが、そのころのわれわれのグループはアヴァンギャルド、ダダの洗礼を受けてポール・エリュアールなどの影響、西脇順三郎の影響など濃くありましたね。

・文学講演会の清水義範「名古屋の生活と文化」は、名古屋人の気質を愉快に指摘していて面白いものでした。ケチ、貯蓄第一、もらえるものならなんでももらう気質など・・。名古屋場所の土俵の砂を持って行っても途中で捨てている・・・なんて面白いですね。大阪でもなく東京でもない名古屋文化、名古屋人の気質・・参考になりました。

・受賞作の安倍千絵「犬が鳴く」は、結婚した主婦の私は、その家にいる老犬にいつまでも馴れず「野犬」とあだ名したというところが象徴的で効いている。こういうところが小説になっている。

・猿渡由美子の短編小説「窓を越えたさきに」は、この地方の優れた書き手ということで掲載されたのだろうが、初老の夫婦の話ながら、人生の機微に何気なく触れていくところに味がある。既成作家に劣らない境地を拓いている作家である。

・掌編小説特集も、作家が力を込めて競作しているようで、津之谷季「可愛い男たち」、臼田慶子「イケスの中で母は」、合田盛光「空蝉の記」、あきのしんこ「大伯皇女姉弟最後の再会」、水上浩「歓喜の第三楽章」、名村和実「街角にて」も一流の筆筋。


   掌編に収めて並べし特集の妙なる調べ久に読みたり   石塚 邦男

   郵便ー464-0067  名古屋市千種区池下1-4-17 オクト王子ビル六階

                           中部ペンクラブ事務局

     電話ー052-752-3033
 

長期旅行でご無沙汰してました

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2017年 1月10日(火)02時46分47秒
返信・引用
  ・長期旅行でご無沙汰してました。手元に二十冊ほど溜まってしまいましたので、気合を入れて書き込むつもりです。  

「じゅん文学」89号のご批評について

 投稿者:有芳 凛  投稿日:2016年12月31日(土)11時22分54秒
返信・引用
  根保孝栄さま
「3.5センチの隙間」を読んでいただき、ありがとうございました。とても励みになりました。
今後ともよろしくお願いいたします。
 

御礼

 投稿者:北原深雪  投稿日:2016年12月30日(金)23時49分35秒
返信・引用
  根保孝栄さま
「向日葵の蔭」へのご批評ありがとうございました。
自分の作品を同人仲間以外の方に読んでいただき、感想をお聞かせいただけることはとても貴重でありがたいことだと思います。大変参考になり、次作を書きたい気持ちが湧いてきました。
今後ともよろしくお願いいたします。
 

ありがとうございます。

 投稿者:猿渡由美子  投稿日:2016年12月27日(火)11時11分39秒
返信・引用
  根保様
いつも読んで頂きありがとうございます。
ご意見、励みになります。
これからもよろしくお願いします。
 

「じゅん文学」(名古屋市)88、89、90号 猿渡由美子の「ミスター・ヒビキ」「駅に立つ」の軽妙な小説作り、読ませる有芳凛「3・5センチの隙間」

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年12月26日(月)00時57分37秒
返信・引用 編集済
  ・この雑誌は季刊なので、もたもたしているとあっという間に二、三冊手元にたまってしまう。今回もぐずぐずしているうちに、三冊溜まってしまった。

・88号では猿渡由美子「ミスター・ヒビキ」が軽妙な作品。導入部からしてしたたかな作品だと判別できる。「ここはひとつ、どうでも承諾を得ないといけない。/私は眼の前の男を眺めた。その男、神崎響はウエートレスの尻に眼をやりながら、コーヒーをずっ、ずっ、と音をたてながら飲んでいる。白いものがまばらに混ざった無精髭と、落ち着かなく泳ぐ目玉。これが結衣子の夫なのか。意が削がれる。結衣子はこの男のどこに惚れて、一緒になったのだろう」・・・このイントロからしてなかなかの作者であることが判る。私と同じ歳の結衣子に別れ話を依頼されて神崎を説得しに来たのだが・・という話。深刻な話をコケティッシュにえがいているところが持ち味で、この作者は言わずと知れた同人雑誌では有名な書き手だ。この作者としては、アミューズメント的に軽く書いた類の作品で、巧いが勝負を意識した作品ではないだろう。

・89号では秋乃みか「ひそむもの」が印象に残った。結婚、夫の浮気、姑、ジェラシイといった女の事柄なのだが、話の筋書きがごたごたしてるにしても、100枚近くの作品には題名にある「ひそむもの」の女の情念のようなものが漂っていて気になる作品であった。

・89号の作品でもう一作印象に残った作品があった。有芳凛「3・5センチの隙間」は、実家の母を訪ねると家出していた・・・。母は、父が蜘蛛膜下出血で亡くなった後、昼夜とわずに働き14歳の私を育ててくれたが、時には男の臭いをまとって帰って来る母を嫌悪していた私は、都心の大学に入学すると実家を離れて独立生活を始めた。3年前に70歳になった母と自分の独り身を考え勤務先に近いところにマンションを買った私。なのに母を久しぶりに尋ねると家を出ていた・・。そのようなイントロで始まる作品に思わず引き込まれた。そして・・と先を読まされる作品。地味な内容ながら、登場人物の陰影が立体的に彫り込まれているのがいい。

・90号では猿渡由美子「駅に立つ」がやはり読ませた。上司から休めと半ば強制的に言い渡されて休むことにした私は、子育てと両立させて課長になった妻の時子と高校2年の娘の背中を見送って、誰もいない家で新聞を見ながら朝食をとる47歳の男が主人公・・という話。そしてやがて男は会社に出る決意をするのだが・・。何気ない日常の一齣を切り取るセンスのある作家だ。

・北原深雪「向日葵の蔭」は、卒寿で逝った母の一周忌が過ぎて、実家の整理をした主人公の夫は横浜に単身赴任、一人息子は北海道で働いている。整理した荷物を車で名古屋の自宅に持ち帰った<私>は中学校時代のアルバムを開いた。その中学生時代の思い出・・というよくある話なのだが、文章がきちんとしていて読ませる。この作者の作品は、過去に何作か読んだ記憶があるが、巧みさはないにしても周辺の描写を平面的ではなく立体的にとらえるリアルな描写力はなかなかである。筆が流れずしっかり物事を描写できているところは買えるだろう。

・大倉克己「存疑の崖」は、安政四年、出川村と松本村の境の崖の入会地で起きた転落事故の話・・なのだが、ごたごた騒ぎの果ての事故にまつわる人間模様である。もう少し要領良く書くと引き締まった佳作になったかもしれない。

  ・郵便ー463-0003 名古屋市守山区下志段味字西の原897  「じゅん文学の会」

          電話ー052-718-1493  「じゅん文学掲示板」参考のこと。
 

「カプリチオ」45号② 貴重な「ニキ美術の特集」、エッセイに見る会員の豊かで特異な分野への興味

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年12月26日(月)00時40分29秒
返信・引用 編集済
  ・この雑誌は、小説も面白いが、エッセイが充実していて味がある。

・特集は「ニキ美術館の神話-新しいルネッサンスに向けて」と題するもの。
・同美術館の元館長の黒岩有希「ニキ美術館の閉館から」は、閉館して五年経った今、閉館に至った経緯を書いたものだが、同氏は「カプリチオ」の創刊よりイラストを描いてきた画家。亡くなった最初の館長のヨーコさんより引き継いだもの、伝記作り、ニキ展開催の次第など詳しく書いた貴重なもの。塚田吉昭が「ニキ・ド・サンファル・空想展覧会」として、ニキの作品に触れたときの精神性について述べている。草原克芳が「白い魔女の予言的想像力」として、ニキ作品が問いかけている内面性について草原らしい解説をしている。

・石井利秋「ル・クレジオ[発熱]を読む」は、アパートで幻覚に翻弄され尽くして行き付いたロクの感覚こそ物質的恍惚の世界だろう」として、「凄まじいまでに強烈な表現に充ちている」と結論している。

・そのほか、水野肇「江戸名所図会で観る狛江」、石田三千枝「ハラールとは・・」など特異なエッセイはこのグループの一人一人が特殊な分野に興味を持っていることを示していて奥深く印象つけられた。
 

「文芸多摩」9号(町田市)

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年12月22日(木)16時01分10秒
返信・引用 編集済
  初めての雑誌は、内容にかかわらず一応紹介することにしてます。この場合、作品の良し悪しや好みなどは別にして、内容を紹介しております。


・木原信義「四十七年前の決断」は、七十年安保時代の極左学生と民青運動の中で青春を苦悩しながら生きる青年群像の話はよくある話ながら学生の青春は書けている。


・原秋子「メイコの選択」は、小学校四年のメイコは先妻の子。パパは舞台美術の仕事をしている。新しいママは劇団の女優兼ピアニスト。住んでいるのはママの両親の敷地内。そんな少女の心境を童話的タッチで描いているのだが、子供の純粋な目線がいじらしく可愛く描けている。

・大川口好道「転機」は、不思議な絵を高校の展覧会に出品した志田に興味を覚え訪ねて行った英治。その絵は「坑道」と題した黒い作品。高校を卒業した1951年。酒におぼれている魚屋の父。幼い妹もいる一家7人。何とかしなくてはと志田を頼って上京したが・・・という絵描きを志した青年の波乱の青春話はある程度書けている文章。

  ・町田市中町2-18-10 木原信義方
 

「アピ」7号(茨城県笠間市) 面白い今は昔の赤鬼の話は西田信博「鬼草紙」

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年12月21日(水)15時21分21秒
返信・引用 編集済
  ・初めて目にする同人誌。エッセイ、詩歌も載っていて文芸全般の同人誌のようである。創作は四編。書き手の水準は高い。


・宇高光夫「空に星があるように」は、妻がボランテイアで出かけ、留守番していると、高校時代の友人の内海が亡くなったと電話があった。共に悩み、遊び、歓び、必死にもがいた時代を共にした友人。その時代を大切に回顧した作品。

・西田信博「鬼草紙」は、「今は昔のことである」という書き出しで始まる。諍いばかり起こす悪僧が破門されたが、老僧に「お前は優しい男だが」と言われたことが気になる。托鉢中に腹がへって座り込んでいると、赤鬼が大根を差し出して食えという。その赤鬼の身の上話・・・という内容は、なかなか愉快で面白い。書き慣れた筆筋。

・さらみずえ「花傷み」は、第一次世界大戦中、シベリアに出兵した日本軍。出征兵と残された家族の話はなかなかできているベテランの筆筋。

・短歌の林坊晴「里に住まえば」の三十数首は力作。
  ・テーブルに君が手織りし布ありて吾は手彫りの器を置きぬ

・山口明美「講習小梅」の四十数首もなかなかの作品群。
  ・ふんわりとしあわせを手に包むごとまっ白ご飯をぎゅっと結ぶ

  郵便ー309-1722  茨城県笠間市平町1884-190

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「カプリチオ」45号① 異色のシュールな物語は関谷雄孝「白く長い橋」、意味深い加藤京子の編集後記 

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年12月13日(火)13時00分42秒
返信・引用 編集済
  ・新しい文学に挑戦する集団である。作品に入る前に編集後記の一部を紹介する。

・多忙になればなるほど、身に付けた別キャラ・マニュアル通りに動くようになり、そこに感情の入る隙はない。だからこそ小説を書くことで慰められた。小説の中では思いきり自分を出せる。自分が変態で愚かで気まぐれな人間だと大っぴらにしていいなんて、こんな有難いことはない。それで細々ながらも書き続けることができた。現在はすでに仕事から解放され子も独立しており、書く時間は充分にある。好きなだけ小説に没頭できるはずなのだが、これが遅々として筆が進まない。言葉遣いに迷う。表現に悩む。どうにも閃きがやってこない。行き詰まったあげく嫌になってしばらくパソコンから離れたり、そしてようやく書き終えても、かってのような喜びや充実感が蘇ってこない。気持ちが乗ったときに泉のように湧き出てきたあの感覚を記憶の中にまさぐるたび、虚しくなる。いくら否定してみたところで、やはり、という思いは拭えない。日常生活に埋没するうちに感性が枯れたのだ・・(略)今や感性の力を借りることができなくなった分、これまでの人生で何を考えどう生きてきたかが自ずと抽出されるだろう。そういう年齢になったのだということを、粛々と受け入れるとしよう(加藤京子)

・関谷雄孝「白く長い橋」は、82歳の外科医が医院を廃業して自由の身になった話なのだが、昭和22年17歳の私が、占領軍の市道で開校した医科大学の予科に入学、アルバイト生活を始める。リュックに薬品を詰め込んで運ぶアルバイトなのだが、途中バスで渡った橋のことが今でも鮮明に蘇るのだ。その先である日不思議な人物に出会う話。敗戦後の日本の生活事情やお稲荷様の薬を運ぶ学生の私の奇妙で怪奇な体験という設定は、時代背景とともに奇妙でシュールな物語として小説のリアリティを盛り上げている。

・玉置伸在「八月の放物線」は、暴力団関係の死体を引き取って、密かに焼き、処分するシステムという奇態な話・・景雲寺は祭壇下の冷蔵装置付き引き出しに死体を保管、この死体は銭湯の定休日にボイラーで焼却されるというシステム。つまり、寺と銭湯が死体処理に関わっているのである。寺の隠坊が銭湯の釜焚きを兼ねているのだが、この役をひきうけているロクさんにまつわるエピソード話は面白かった。ありえない話をそれらしく読者を納得させていく筆筋は、リアリズム手法ながらシュールに飛躍するエピソードを盛り込んで作者の小説哲学が垣間見られて奥が深い。

・加藤京子「あの夏の、サキ」は、貧しい家庭の中学生のサキの交友と家庭事情の話なのだが、苛めと貧乏とのはざまで、けなげに生きる少女の姿はいじらしい。思春期の女の子の微妙な心理を描いたところに価値がある作品。

・塚田吉昭「となり家のばか娘」は、藤原孝標の隣に住んでいる語り手が、孝標の娘が三十にもなって和歌とか物語が得意で祐子内親王のもとに上がることになった事柄を噂話に語る、という構成は面白い着想と試みだろう。なかなか芸達者で幅広い視界を持つ作者だ。この作家の創作集も手元に送ってきている。近く紹介したい。

・郵便ー156-0044
     東京都世田谷区赤堤1-17-15 二都文学の会 草原克芳










 

「群系」37号(東京都)① 圧巻は草原克芳の「車谷長吉論」、右派の論客らしからぬ大堀敏靖「西村賢太論」に注目

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年12月13日(火)07時49分50秒
返信・引用 編集済
  ・今や文芸評論の同人誌としてすっかり有名になった。三好市が行っている全国の同人雑誌対象の同人雑誌賞を今年受賞したのも、ユニークな活動ゆえのことだろう。

・今号は二つの特集を企画している。一つは「私小説について」もう一つは同人の一人であった野口存弥氏の死去に伴う特集「野口存弥著作解題」である。「私小説特集」という打ち出し方はよくあるもので、特別目新しいものではないが、問題は、日本の短歌的、俳句的精神風土が私小説を育む結果になったことを深く指摘する論者がほとんどいないことを常日頃感じていて、その点を掘り下げる論考がないか期待したのだが、皆無だったことにいささか失望した・・・というのが個人的な好みから観た一つの感想であった。私小説という性格付けを既成のものとして捉える研究論考の数々があるのだが、なぜ私小説が日本の精神風土にはびこったかの根源探査の論考は、わずかに草原克芳の論考だけであったことは少し寂しかった。

・草原克芳「逃亡奴隷という仮面ー車谷長吉」は、私小説作家と言われ、また自認している彼の作品は、普通の私小説作家とは違う得体のしれないものがあり、そう感じる理由について突き詰めている論考・・いつものことながら、草原克芳という作家にして評論家は、作家を語っても作品を語っても、思わぬ切口を見せる論者なので楽しみにして読み始めたが、期待に違わぬ論点であった。これについては、後ほど詳細に解説したい。

・大堀敏靖「のめりこむ私小説ー西村賢太・苦役列車」は、右派の論客として、「群系掲示板」で草原克芳と渡り合うさまを時折楽しみに読んでいるが、その文芸批評の筆筋は右派の論客らしからぬ人間味あふれるもので、不思議な人物である。普通の芥川賞受賞作品は退屈で読了するのに一苦労するが、西村賢太の作品に限れば、のめりこんでしまう魅力に満ちている、として、その理由を連綿と述べている内容は、なかなか説得力があった。
 

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