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結愛ちゃんの伝えてくれたこと

 投稿者:管理人 iPad 6854  投稿日:2018年 6月14日(木)02時10分45秒
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     結愛(ゆあ)ちゃんの事件から一週間が過ぎるというのに、マスコミでは未だに彼女のことが取り上げられている。昨日になるが、NHKのニュースでも、目黒の住まい跡に花や菓子を添えて祈りに訪れる人が絶えないということを伝えていた。結愛ちゃんの「ゆるして」というメッセージは、その文を読むたびに胸が締め付けられる、自分たち大人が何もしてあげられなかった、という悔悟の念が生じると人々は言う。たしかに、あのノートに書いたメモはそれを読む捜査員さえ涙したということだ。ニュースで読み上げた女性キャスターも途中でむせんで最後まで読めなかった。それほどに、五歳の女の子の“反省文”は人々の心をうった。まず、このことに留意したい。

    父の暴力を母はどうして止められなかったのか、なぜ実の子をかばうことができなかったか、という疑問に、いや母親も夫の暴力が怖かったのだろうという意見を聞いた。そんなものか、と驚いた。実は父の暴力も、その弱さがなせるわざだ、という意見もあった。香川から上京しても、彼に仕事はなかった。社会的な弱者がそのしわ寄せを、その最も弱いものに向けた、という見解であった。たしかに、事件を単に父がわるい、母も悪い、と言っているだけでは、こうした虐待死はこれからも避けられないだろう。もっと根本的なこと、弱い弱者が、追い詰められないような、地域の連帯、協力関係を作っていくことが、この問題を防止する、まず最初の一歩であるべきだろう。
   それにしても、その地域の連帯の一つとなるべき児童相談所はきちんと機能していたか、という問いに対しては、いや人員も少ない中で、ほとんど自主的には動いていなかったのではないか、という見方もある。香川から東京への転出についても、児相の引き継ぎが有効に機能していなかったということだ。しかし、それでは、幼稚園はどうだったのか。結愛ちゃんの通っていた幼稚園での写真もある(下参照)。幼稚園で、彼女の異変に気づかなかったのか、という問いも生ずる。

    まあ、これから捜査も進んでいくだろうが、いたいけな彼女がわれわれ大人を感動させたこと、かわいそうと涙させたことは、このある面無機的な社会、世間において大事なこと、人間っていうもののありようを気づかせてくれたことは事実のようだ。
 
 

女児の虐待死

 投稿者:管理人 iPad 6780  投稿日:2018年 6月10日(日)20時15分20秒
返信・引用 編集済
      最近、小さな幼児への虐待、殺害のニュースがよくきかれる。新潟では線路上で女児が置かれていたという。犯人の若者はクルマの中で女児が大声をあげたので、首を締めたという。あるいはベトナムの女児を殺害したとされているのは、学校のPTAの会長だという。自分の立場を守るためか、事実無根、検察のでっち上げ、と叫んでいる。さらに今回ひじょうに悲しい事件になったのは、目黒の女児虐待死である。食事もろくに与えず、冬の寒い中、部屋には暖房もなく、時にはベランダに裸足で出され、あしうらには霜焼けが出来ていたという。日頃から殴る、水をかけるだの、信じられない暴行がいたいけな子供に加えられた。特に耳目を嘱されたのは、この女児のノートに書いたという、両親に許しを乞うメモ書きだ。もうこういうことはしないから、ぜったいにしないから、ゆるしてください、という読むのもつらくなる文面だ。iPadで、女児の名、結愛ちゃんで検索して、テレビのワイドショーの報道を何度も見たことだ。
    いったいに、虐待している親などは、愛情どころか、自分の感情、あるいは自己の立場中心に動いていよう。だから女児の、切なる訴えも感じ入ることがない。気に入らないとすぐ手が出るのだろう。それにしても、この子の立場で考えると、胸がつまる。許しを得ないとますます辛くなると追い詰められて考えたのだろう。彼女の孤独、未熟、を考えると余計にせつなくなる。相手は大人であり、こっちは誰も味方がいないという、閉じ込められた環境だ。死ぬ、というのも時間の問題だったかもしれない。

   以下は、大学ノートに記したとかいう、結愛ちゃんのメモである。これは多くの人が全部を読みきれないというほど、哀切極まるものだ。文学を言う前の、人間の原点があるように思う。

       ママ もうパパとママにいわれなくても しっかりとじぶんから
      きょうよりかもっと あしたはできるようにするから
      もうおねがいゆるして ゆるしてください おねがいします
      ほんとうにもうおなじことはしません ゆるして
      きのうぜんぜんできなかったこと
      これまでまいにちやってきたことをなおす
      これまでどんだけあほみたいにあそんだか
      あそぶってあほみたいだからやめる
      もうぜったいぜったいやらないからね
      ぜったいやくそくします
      もう あしたはぜったいやるんだぞとおもって
      いっしょうけんめいやる やるぞ

     5歳といえば、翌年小学校に上がる、これからいろいろなことをやって楽しんで、遊んで、学んでいくその途上にある子だ。ものごころが付きつつあり、うれしいこと、たのしいこと、またかなしいことがわかってくる年頃。幼児から子供になる時期、でもまだまだ保護が必要とされる時期だ。わたしたち大人はそういうことがわかるから、それらの必要を満足されず、ひもじい思いをしつつ懸命に生きようとしていたこの子に、つよく共感する。ほんとに生きていて欲しかった。どんなに痩せても、最後は保護されて、適切な医療を受けて、再生して欲しかった…。
     子どもが子どもらしい、適切な環境にいること、それを満足させられない国々が世界にはたくさんある。しかし、とびきりの先進国のこの国で、それも東京の真ん中でこんな悲劇が起ころうとは…。
     結愛ちゃん、美味しいものを食べて、楽しいことをいっぱいやって、ね。

https://mainichi.jp/articles/20180609/k00/00e/040/258000c

 

銀華文学賞復活

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2018年 6月 5日(火)00時01分29秒
返信・引用
  かねてから願っていたことですが、そうした動きになっているとのこと、大へん喜ばしいことと思っています。この賞の復帰とともに、文芸思潮の人気は再び盛り上がるであろうことを確信しております。  

デスクトップpcとiPadの違い

 投稿者:管理人 iPad 6287  投稿日:2018年 5月 7日(月)01時25分53秒
返信・引用 編集済
     デスクトップパソコンが使えなくなって、一ヶ月近くが過ぎただろうか。雑誌の原稿の受容、印刷所への転送、また出来た初校ゲラのPDF などの返送などは現在全てこのiPadで行なっている。iPadはapple社の製品だが、Windowsの、すなわちMicrosoftのwordなども添付できる。小さなこのiPadで、写真も送れるし、サイズの限界はあるが動画も送ることが出来る。大きなサイズで、かつ公的な内容の動画はこのiPadで撮ったものも、他で撮ったものもファイル共有すれば、ともにこのiPadからYou tubeへアップ出来る(これまでパーティーや合評会の動画をいくつアップしたことか)。またこのiPadでは同人誌への投稿原稿も書ける。ノートパソコンのようなキーボードは付いていないが、文字を打つときは、画面下にキーボードが映し出される。一つ一つの文字に凸部分はないが、タイピングするのに支障は全くない。原稿はメモのアプリにも書けるが、最近はpagesという固有のワープロソフトを発見してそこに書いて(打って)いる。

    さてそれではデスクトップpcは不要か、というと当方の場合、そうはいかない。編集責任者ということもあるが、なにより当該の同人雑誌の固有のホームページを作成途中のままだから、である。さすが、ホームページ作成はパソコンなしでは出来ない。まず、作成ソフトをpcにインストールするには光学ドライブが必要なのである。iPadにはそのドライブがない。
    最近のノートパソコンにもそのドライブが付いてないのもだいぶ出てきているようだ。パソコンメーカーの担当者にある時電話で話した時、ついでに聞いたのだが、今時のパソコンも、そうした光学ドライブがないのも出ているそうだ。そうなれば、たとえばofficeなどのアプリをインストールするにはどうするの、以前はそうしDVDなどがあって、それをドライブに入れたものだが。すると、担当者が言うには、いまは基本的にそれらもすべてネット経由でインストールするのだという。officeつきのpcの仕様に、「officeイメージ」とあるのは、インターネットで受信・ダウンロード、それからそれらwordやExcelをインストール出来る、という意味だそうだ。
    当方のiPadの文書はそのままでは印刷出来ない。デスクトップのインターネットが復活すれば、ワード文書などをメール転送して、デスクトップpcからプリンターにデータを転送、印刷が出来る。プリンターにブルーツースの受信装置があれば(すなわちiPadの無線が受信出来れば)、iPadのデータも直接送って、印刷は出来るが、それは新しいプリンター購入後の話である。逆に言えば、周辺の便宜が整えば、iPadで印刷も、アプリのダウンロード、インストールも全て出来るということだが、当方としてはそうまで一極集中させることを好まない。すべてがiPad、仕事も余暇も、そして印刷もHP作成もiPadとなると、さすが機能不全になる(小生自身も)と思うからである。

    となると、ではどんなデスクトップパソコンがいいのか、その選択に迷うことになる。
 

新規のデスクトップ

 投稿者:管理人 iPad 6157  投稿日:2018年 4月29日(日)22時02分6秒
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     デスクトップパソコンのインターネットが出来なくなって、原稿の授受はこのiPadが頼りである。今回ダメになったのはdell製のパソコン、Windows10がos で、まだ導入して2年もたたないのに、マシンのネットを司る心臓部がやられた。復旧するには、os を工場出荷時に戻す必要がある、と派遣のパソコン専門家は言う。当然、データは全部、他のHDやUSBメモリに保持しておかねばならない。料金も45,000円かかると聞いて、これは新規購入にしかないと思い、時間があれば、パソコン購入サイトを覗いている。購入するには、ひょっとしてこれが人生で最後のデスクトップと思って(大げさ)、なるべく安くていいのと思って、hp製のslimlineか、dell製のNew Inspiron、か二択に絞っている。ともに同じシリーズでも、価格が下から上まであるが、せっかくだから、プロセッサーは第7世代 インテル® Core™ i3-7100以上、メモリは4GB以上、が欲しい。HDDは画像や動画はそうたくさん保存しないので、500GBでいいのに、いまは大抵1TBもある。クラウドもあるのにねえ。

    http://jp.ext.hp.com/desktops/personal/hp_slimline_270/

   http://www.dell.com/ja-jp

    しかし、最近は、原稿の授受(印刷元への転送も含め)、全てがiPad一つで出来ているので(原稿執筆もiPadだ。pagesという、Windowsのwordに似たものがある)。それでも、デスクトップにこだわるのは、ホームページ作成ゆえか。ま、少しは彼の(パソコンの)領分を残しておかなければ、ね。
   しかし、何度も小職は言っているが、iPadの手軽さは、Windowspcの比ではありません。思った通りに検索、操作性が見た目通りなのです。この点は、マイキロソフトのビル・ゲイツよりも、マックのスティーブ・ジョブスの方がエライです。
 

iPadのword、pagesは便利!

 投稿者:管理人 iPad 6057  投稿日:2018年 4月25日(水)15時33分45秒
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     下の芥川論解題については、iPadのアプリに、Windowsのwordに相当するものを発見して(!)、そこで用を足すことが出来たので、下のものはまだ中途ですが、これで終わりにします。関心を持っていただいた方にはすみません、「群系」40号に掲出しますので、ご覧ください。なおワードに相当するiPadのアプリは、pages といい、驚くことはこれをさらに、wordやPDFにー発変換出来ることです。ま、それでwordに変換、印刷元に添付で送って、初校ゲラを得たところです。  

文学批評の成り立つ基盤は何か。

 投稿者:管理人 iPad 5791  投稿日:2018年 4月13日(金)18時55分31秒
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     次号(40号)の原稿が早くもいくつか入ってきている。それも力作だ。「群系」は、昭和63年創刊で、今年は三〇周年になる。その祝詞を外部の先生方に依頼しているが、こちらも早くもご寄稿の承諾を得つつある。

    小説はともかく、近代文学研究、批評はいま流行りではないと言われる。娯楽やエンターテインメントをおいて、研究分野にしても、アカデミックでない、という感じがされているのであろう。だが、人文・社会科学において、真にアカデミック・知的とはなにであるのか。いまマスコミでしょっちゅう報じられる政治スキャンダルが知的であるのか。そも政治学や社会学、はどんな知的な評価基準、スタンダードがあるのであるか。ましてやマスコミにどんな報道規準があるのか。
    法学は、とりあえず法律は人為であるにしろ、基準・規範があるとはいえよう。だがその法的体系の基盤自体はほんとに覚束ないものでもある。前代の王権神授説にしろ、近代専制国家のよる基盤にしろ、そのよって立つ政治思想や哲学は、しかるべき知性が論じきたってきたものである。人間の思惟・知恵のしからしむるところといえよう。
    さすれば、統治における思惟がそれなり有効なものがあるとすれば、人間の個々の私的生活、あるいは社会生活を表現した文学にも相応の知的思惟があることであろう。

    この国の文学批評の原理は、江藤淳に言わせれば、戦前はほとんど無きに近いものだったという。こう断言する江藤の『作家は行動する』と、吉本隆明の『言語にとって美とは何か』が、初めて文体論や、<自己表出><指示表出>という言語の属性から、本格的文学論を論じたものであろう。
     江藤は、フローベル由来の時代論・社会論を徹底的に批判する。作家論をそうした外部に由来する決定論からは、作品批評も作家論も生まれないという。江藤の筆は当然この国の自然主義批判に向かう。「人生の真実を描く」などは空念仏、何ら本質的なものはない。「こんな自分でも生きていきたい」という藤村にすら、彼には根本的な文学論がないとする。ましてや花袋、私小説作家にはなにもないという。自ら隘路に入っていったこれら作家には愚かさしかないという筆致だ。
    では江藤は何を文学、その表現に求めるのか、というと、タイトルにある通り、〈行動〉、だという。作家〈主体」の熱意、行動が文脈に現れるものそれが大事で、批評家はそれを掘り起こすべきなのだという。明治大正期の作家でそれがあるのは二葉亭、鴎外、漱石くらいだと言って、江藤の論は戦後作家に及ぶ。戦後作家において、それらの行動・主体性が見られるとして、彼の眼は大江健三郎や石原慎太郎の作品に及ぶ。
    確かに大江の初期作品には、江藤の言う〈文体)があろう。「芽むしり仔撃ち」などの村人や少年、そして黒人兵の汗や、緑の自然や青い空、の新鮮な文体は躍動している。戦後の閉鎖空間から確かに脱け出ようとする、戦後の状況がそこには展開される。人物を描く作家主体の躍動さえも感じられる。文学は表現に過ぎないはずなのに、読む読者に新たな方向も与え得る、と言うものか。論じる江藤の筆致にも元気が感じられる。
    この江藤の主張で驚いたのは、藤村どころか、折口信夫、そして小林秀雄にまで批判が及んでいることだ。折口の「死者の書」には主体がない、という。いわゆる民話・伝説の語りに偏して、主体の行動が見られない、とする。あの小林に対しても、自意識の停滞であって、行動がないとする。だがさすがこれらはともに、筆の滑り、若気の至りとも言うべきで、江藤と雖も誤読(誤受容)と思われるが、じっさい、後者については、徹底した読み直しが直後の『小林秀雄論』で見られる(これも本当に直後で、江藤三〇歳の作品である)。

    私は何を目途にこんなことを書くのか。それは言えば簡単なことで、自分をしるため、自分の関心を知るため、と言い切ろう。江藤淳や小林秀雄になぜ関心があるのか、というと彼らの問題意識に共鳴するからだ。政治や社会もいい、しかし彼らの当面の課題はもてあます自意識だった言えよう。これは単に自我だけではない。親や友人、異性のありようも関わっている。小林は(驚くほどに)普通の感受性を持った社会人・家庭人であった。だから父の死、母の病気、同棲した女の動向に感じ入っているのだ。戦後の述懐として、母が戦後亡くなったが、そのことは自分にとって一大事で、戦争の成り行きなんてどうでもよかっったー。およそ知識人らしからぬ言葉だが、だが真率な謂いであろう  。そうしたふつうの感受性に映った日本近代文学はどのようであったか。

   だが小林は江藤と違って、私小説を認めている。志賀直哉を師と仰いでいる。そもフランス象徴詩を学んでいた小林がどうして私小説か。それは「様々なる意匠」で評論デヴューから数年を経た『私小説論』に待つべきであろう。
 

ヤフオクで落札しました!

 投稿者:管理人 iPad 5471  投稿日:2018年 3月25日(日)19時45分2秒
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     小林秀雄全集第六次版(『小林秀雄全作品』)をヤフーオークションで、2万2千円で落札した。全28巻(+別巻4冊)、ふつうに買えば6万円以上はするものだ。当職は、第四次版全集(13巻)は持っていたが、これは小林生前の刊行のもので、ここには案外掲出されいない著作がある。処女作品の「蛸の自殺」(大正12)などがそれだ(一般には「一ツの脳髄」とされているが、一年も前にもう一つあったのだ)。
    小林は批評家としてその名が確立しているが、初期作品は小説がほとんどである。「女とポンキン」(大正14)、「からくり」(昭和5)、「眠られぬ夜」(昭和6)、「おふえりや遺文」(昭和6)、「Xへの手紙」(昭和6)、など、それらは小説といえるか異論もあるが、小林の自意識を描いたという点では、当節流行りだった私小説とはいえたであろう。
    批評家として小林が自らを批評家として意識したのは、ある作家の自殺について書いた「芥川龍之介の美神と宿命」(昭和2年)だったかもしれない。だが、知性というよりほとんど神経しかなかった、と芥川を批評した小林も案外(知性は無論あっても)神経もかなり敏感だったのには違いなかろう。
    むろん、小林がこの時代的に喧しい文壇に躍り出たのは、「様々なる意匠」(昭和4年)であった。芥川の自殺を論じた「敗北の文学」(宮本顕治)が、「改造」の懸賞論文一席入選で、小林のは二席に甘んじたのは有名な話だが、このことは、先に言った「喧しい文壇」の事情があろう。小林も相当な意気込みで、この文壇に「絡め手」から挑んだのであった。
    当職は小林を論じないでは、大正・昭和の文学はわからないとまでおもう。小林がいかに志賀直哉に首ったけだったか、多分それは芥川の比ではない(奈良の志賀の居宅まで学生時代から転がりんこんでいるのだ)。
    小林も実は人の子、青春の悩みはつきないもので、父の死、母の病気、そして自身の将来、そして何より転がり込んできた女に、心底参っているのだ。小林を、文壇でどでんと構えている偉そうなヤツと見るなら、それは全くのお門違いだ。それらに心底参っている、だからこそ、文芸評論が正しく書けるのだ。ただ、あまりにも皮肉屋で負けず嫌いだから素直な文章が書けないだけだ。
    小林嫌いも結構。だが、作品を、文学を深くただしく読むには、何に感動すべきかは、小林秀雄に教わるところが大きいのだ。ボオドレエルの憂愁に気が塞いでいた彼を、その憂鬱の穹窿を打ち壊してくれた、いわゆるランボー体験は、文学を志す者には、神話的なエピソードではある。
    当職は、先の全作品第1巻を読み終えて、昔からの課題だった「様々なる意匠」について書きたいと思う。そして出来るなら、難題「Xへの手紙」論もものしたい。

http://gunnkei2.sakura.ne.jp/index.html

 

モーツアルトについて

 投稿者:管理人 iPad 5007  投稿日:2018年 3月 1日(木)14時17分11秒
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     旧稿から、モーツアルト論の一節と、その楽曲をご披露しますね。
                                                                                (「群系」第19号  「モーツアルトの協奏曲について」)

                                    ◯

 弦楽五重奏曲第四番ト短調 第一楽章(K516)を聴く。初めて聴く。切なさをすぐに感じた。ああ、これなんだな、とやっと了解した。実は同じト短調の曲といっても、いわゆるト短調のシンフォニィー(K550)と混同していたのである(こちらは小林秀雄が道頓堀でふらついたとき、急に頭の中をこのメロディーが流れた、というエピソードのあるやつである)。弦楽器の方なんだ。小林秀雄が弦楽器が好きだ、というのを高橋英夫もどこかで言っていたなということを思う。
    何をぶつぶつとお思いかもしれないが、このト短調のクィンテット(弦楽五重奏曲)の発見はまったく別のモーツアルトを見つけた感じだったのだ。スタンダールが有名なモーツアルト研究者であるのはよく知られているが、彼がモーツアルトの音楽の根底にはtristesse(かなしさ)があるといって、以下小林秀雄は次のように言っている。

 ゲオンがこれをtristesse allante と呼んでいるのを読んだ時、僕は自分の感じを一言で言われた様に思い驚いた。確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する、涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法を知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの先にも後にもない。まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駈け抜ける。  (『モオツァルト』9より)

     筆者は改めて、音楽の鑑賞法を教わる。このト短調のクィンテットのtristesse allante(疾走するかなしみ)は、たとえば、〝空の青さや海の匂いの様に〟〝万葉の歌人が、その使用法を知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい〟のだ。このような時間空間をまったく隔てた比喩も許されるのだ、と。
 だが、モーツアルトに〝かなしみ〟などあるのか。小林秀雄はいまの文に続いて、微妙な表現を使っている。

  彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な荷物を引き摺っていないだけだ。彼は悲しんでいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当たり前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない。(同)

 「彼は悲しんでいない」とある。いわば、「透明な感じ」(高橋英夫)なのであろうか。
モーツアルトに言及した文章として小林秀雄『モオツァルト』の意味は非常に大きい。右のようなそ
の本質について書かれた若干のエスプリを引用しておこう。

(先の大阪・道頓堀での事件の叙述のあと)思い出しているのではない。モオツァルトの音楽を思い
出すという様な事は出来ない。それは、いつも生れたばかりの姿で現れ、その時々の僕の思想や感情
には全く無頓着に、何というか、絶対的な新鮮性とでもいうべきもので、僕を驚かす。(同2)

 成る程、モオツァルトには、心の底を吐露する様な友は一人もいなかったのは確かだろうが、しかし、心の底などというものが、そもそもモオツァルトにはなかったとしたら、どういう事になるか。…モオツァルトの孤独は、彼の深い無邪気さが、その上に坐るある充実した確かな物であった。彼は両親の留守に遊んでいる子供の様に孤独であった。(同9)

  彼に必要だったのは主題という様な曖昧なものではなく、寧ろ最初の楽音だ。或る女の肉声でもいいし、偶然鳴らされたクラヴサンの音でもいい。これらの声帯や金属の振動を内容とする或る美しい形式が鳴り響くと、モオツァルトの異常な耳は、そのあらゆる共鳴を聞き分ける。凡庸な耳には沈黙しかない空間は、彼にはあらゆる自由な和音で満たされるであろう。(同10)

  独創家たらんとする空虚で陥穽に充ちた企図などに、彼は悩まされたことはなかった。模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引き離してしまったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣できぬものに出会えようか。(同11)

  モオツァルトは目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外な処に連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたということだった。(同11)

     これらを一瞥しただけでも、まさしく臨機応変の天才の面貌が思い浮かべられる。モーツアルトは、孤独・無邪気、その音楽の新鮮さ・透明さ、さらに「目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した」のであった。

https://m.youtube.com/watch?v=hEFu9iV0Zxw

http://gunnkei.sakura.ne.jp/99_blank074.html

 

文学の危機

 投稿者:管理人 iPad 994  投稿日:2018年 2月28日(水)20時40分16秒
返信・引用 編集済
  「季刊文科」の依頼原稿を済ませて、以下は余滴として書くものである。寄稿文には書かなかったことだが、一つのデータとしても開陳の意味はあろうものなので。

         〇

 ここで批評とは何か、を問い直すことは、日本の近代文学にとって、いや現代文学にとっても、大事なことではないかと訴えたい。つまり、作品の評価、作家との関係、などは小説を読んだ後に(あるいは最中でも)気にかかることではないか。それが少なくとも自己や社会などを問う、いわゆる「純文学」的なものである以上は、「批評」は、小説などの創作と裏腹にあるものとして重要なものではないか。
 ところが、巷間、いろいろ書かれている文芸同人誌や、いわゆる商業誌の新人賞の応募状況を見ても、小説の多数に比べれば、批評というジャンルの数の少なさが例証される。例として、「群像」の新人賞の応募状況をあげてみよう。
 この文芸月刊誌はいわゆる、「五大文芸雑誌」の一角を占めるものだが、中でも「群像」は新人賞に、「小説部門」と「評論部門」を双璧として掲げてきた雑誌であった。その雑誌の直近の両部門の応募状況をあげてみたい。

 例えば、平成26年度・第57回は、「小説部門」の応募総数が1746篇であったのに対し、「評論部門」は132篇、平成25年度・第56回は、「小説部門」が1851篇、「評論部門」が153篇、平成24年度・第55回は、「小説部門」が1618篇、「評論部門」が116篇、平成23年度・第54回は、「小説部門」が1721篇、「評論部門」が129篇、平成22年度・第53回は、「小説部門」が1884篇、「評論部門」が152篇であった。要するに、批評・評論は、小説の一割にも満たない応募状況なのだ。
 そして、こうした「評論部門」の応募数の少なさからか、「群像」新人賞は、平成27年度・第58回以降は、小説部門だけになってしまった(この年の応募総数は1762篇、翌年・第59回は1864篇、翌々年・第60回は2016篇、であった。入賞やその候補のタイトルからみて、すべて小説であって、評論はないとみられる)。

 文学の危機、はこのことではないか。

 巷間、創作はそれなりに作られている。SFやミステリー、をはじめ、エンタテインメント、はひきもきらない。また携帯小説などという分野もある。これらは今や大きな芸術ジャンルになったアニメ、同様、21世紀の大きな分野ではあろう。だが、これらに比べ、人間の生の意味を問う、昔ながらの小説、あるいはそうした文学や社会・時代を論ずる文芸批評は少なくなっている。

 評論家、というと、テレビに出ている評論家はいろいろいるではないか、という声が聞こえそうだが、これらの人は文芸評論家ではない。多くは国際政治学者とか、社会学者とか、あるいはタレントだとか、である。夏目漱石だとか、森鴎外、小林秀雄の名前をあげようとは到底思われない。太宰治の名前も出ようか。
 いや、お門違い、だとの意見もきこえようが、小生らが知りたいのは、そうした作家の作品についてなのである。やはりテレビはお門違いなので、せめてiPadに向かうのである。

http://prizesworld.com/prizes/novel/gznw.htm

 

同人誌の運営

 投稿者:管理人 iPad 402  投稿日:2018年 2月17日(土)00時52分4秒
返信・引用 編集済
     同人誌の運営には難しい面もある。気心の知れた二、三人の小さな同人誌の場合は、口角泡を飛ばす激論があっても、それなりに発行・運営はされるだろう(休刊になっても、また機がくれば、新しい同人誌も創刊されるだろう)。
   また逆に、同人数が百人を超える大きな雑誌の場合は、規約もあって、編集委員体制もしっかり機能しているものだろう。
    問題がありそうなのは、同人数が五十人前後の文芸同人誌であるかもしれない。編集方針はなんとかいっていても、経理問題が出来すると、いろいろな意見が出てくる。編集部としてこちらをたてれば、逆の立場の方から異論が出てきたりする。文芸同人誌という小さなものでも、印刷製本費には、しっかり消費税もかかってくる。
    なんとかこういう局面を乗り切って、頑張っていきたいと思うのだが。
 

柿本人麻呂:泣血哀慟の歌(万葉集を読む)

 投稿者:管理人 iPad 374  投稿日:2018年 1月28日(日)11時26分17秒
返信・引用 編集済
     文学のこころとは、人を思う心だと言っても過言ではなかろう。その意味では近代・現代のみならず、むしろ往昔にこそ、その心はいやましであろう。万葉集、柿本人麿の歌こそはそうした心を最大限に詠んだものであった。当職は学生時代から、彼の歌に親しんでその長歌を暗誦・愛唱してきた。以下はその一つ、その頂点のものである。ネットにある資料を抄出させていただきながら、近代文学の掲示板であるが、あえてあげさせていただきます。

                                ◯

    万葉集巻二挽歌の部に、「柿本朝臣人麻呂妻死し後泣血哀慟して作る歌二首」が収められている。その最初の歌は、人麻呂が若い頃に、通い妻として通った女人の死を悼んだものとされている。この歌には、愛する人を失った悲しみが、飾り気なく歌われており、その悲しみの情は、21世紀に生きる我々日本人にも、ひしひしと伝わってくる。
    彼が宮廷歌人として作った儀礼的挽歌とは、まったく異なった感情の世界が、そこにはある。
    まず、歌そのものを読んでいただきたい。一人の男が一人の女に寄せる、切なくも濃密な愛を読み取っていただけると思う。

       柿本朝臣人麿妻の死にし後、泣血哀慟してよめる歌二首、また短歌
  天飛ぶや 輕の路は 我妹子(わぎもこ)が 里にしあれば
  ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み
  数多(まね)く行かば 人知りぬべみ 狭根葛(さねかづら)   後も逢はむと
  大船の 思ひ頼みて かぎろひの 磐垣淵(いはがきふち)の
  隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに
  渡る日の 暮れゆくがごと 照る月の 雲隠るごと
  沖つ藻の 靡きし妹は もみち葉の 過ぎて去(い)にしと
     玉梓(たまづさ)の 使の言へば 梓弓 音のみ聞きて
  言はむすべ 為むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば
  吾が恋ふる 千重の一重も 慰むる 心もありやと
  我妹子が 止まず出で見し 輕の市に 吾が立ち聞けば
  玉たすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず
  玉ほこの 道行く人も 一人だに 似てし行かねば
  すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる
短歌二首
     秋山の黄葉を茂み惑はせる妹を求めむ山道(やまぢ)知らずも
    もちみ葉の散りぬるなべに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ

■大意
 軽の路は吾妹子の里であるから、よくよく見たいと思うけれど、いつも行ったら、人目が多いので人目につくし、しばしば行ったらきっと人が知るだろうからうるさいし、まあまあ後になってでも逢おうと、大船のように頼みにして、心の中でのみ恋しく思いつづけていたのに、空を渡る日が暮れて行くように、照る月が雲隠れてしまうように、靡き寄った妹は、亡くなってしまったと、使いの者が来て言うので、それを聞いて何と言ってよいやら、どうしてよいやら分らず、報せだけを聞いてじっとしてはいられないので、自分の恋しく思う心の千分の一でも、なぐさめられるだろうかと、吾妹子がいつも出て見ていた軽の市に、たたずんで耳をすましてみると、なつかしい人の声も聞こえず、道行く人も、一人も似た人が通らないので、何とも仕方がなく、妹の名を呼んで、袖を振ったことである。

短歌二首
秋の山の黄葉があまりに茂っているので、迷い入ってしまった恋しい妹を探し求める山道が分らないことだ。

黄葉の散って行くとともに使の者の来るのを見ると、ああこのようにして、懐しい便りが来たのだと、妹に逢った日が思い出される。(209)


「輕の路は 我妹子が 里にしあれば」とあるところから、この女人は大和の軽の里に住んでいたのであろう。その女人を、人麻呂は人目を偲んで通っていた。「ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み 数多く行かば 人知りぬべみ」とあるところから、そのように推察されるのである。
     何故、人麻呂が人目を忍ばなければならなかったか、それはわからない。この当時の結婚の形態は、通い婚が一般的であった。男は女と同居することなく、女の家に通うのである。男の中には複数の女のもとに通う者もあっただろう。逆に、複数の男に通われた女もあったことだろう。
    人麻呂がこの女のもとに通うのに人目を偲ばなければならなかったのは、この結婚が祝福されるものではなかったことを物語っているのかもしれない。もしかしたら、女には別に、正式の夫がいたのかもしれない。
   そんな推測は脇へおいて、この歌を虚心に詠むと、一人の男としての人麻呂が、最愛の女を失った悲しみが、ひしひしと伝わってくる。人麻呂は、女の面影を求めて、かつて女が足を運んだ軽の市を訪ねる。「吾が恋ふる 千重の一重も 慰むる 心もありやと 我妹子が 止まず出で見し 輕の市に 吾が立ち聞けば」と、人麻呂は、ただただ亡き人の面影を求めてさすらい歩くのである。
    誰しも思い当たることであろう。失った者の面影を求めて、その人の匂いのする所をさ迷い歩くのは、我々現代人も同じである。
    だが、そこには亡き人の面影を呼び覚ますものはなかった。かくて人麻呂は、「玉ほこの 道行く人も 一人だに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる」と絶叫する。
    女に先立たれた一人の男としての人麻呂の、痛ましいような、情けないような、何とも不思議な魂の叫びが伝わってくる。

http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/56.htm

http://www5e.biglobe.ne.jp/~narara/newpage%202-207.html

http://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.aido.html
 

古典と近代文学、似ているところ

 投稿者:管理人 デスクトップ 689  投稿日:2018年 1月19日(金)13時03分15秒
返信・引用 編集済
   やはり以前に投稿したもので恐縮ですが、再度ご披露させていただきますね。

       〇

『源氏物語』と近代文学、似てるところ 投稿者:管理人  投稿日:2009年 5月 5日(火)14時04分

 『源氏物語』の巻々、あるいは登場人物をみていると、ふっと、近代文学のそれに似ているなあ、と感じることがあります。もちろん、『源氏』の方がはるか先にできているのだから、〝真似〟や影響は、近代作品の方に決まっているのですが。以下は、ほんとに勝手な当方の見立てではあるが、いかがでしょうか。


 最初にふっとそんなことを思ったのは、30巻での「藤袴」の巻で、あんなに美しかった玉鬘が、夕霧など相応の男性の言い寄りものけて、また宮中への入内をも断って、いちばんありえない髭黒の大将と結婚してしまったことだ。玉鬘も当初は好きでなかったというのに。
 玉鬘といえば、源氏の友人・頭の中将の遺児、それもあの不幸な死に方をした夕顔と間の遺児であった。なぜ、北九州の方ですごしていたんだか理由・委細は忘れたが、いずれにしても多少の不幸な境遇は否めない。しかしこの玉鬘の美貌は多くの人を魅了するほどであった。父探しに都に来たのであったが、ある日行列なんかで見た実際の父親は、養い親の光源氏にだいぶ劣ったみえたのでがっかりしたこともあった。またあろうことか、彼女の美貌はその養いの父親になっていた光源氏も彼女に一方ならぬ想いを寄せることにもなった(有名なのは「蛍」の巻きで、たくさんの蛍が舞う中で玉鬘の顔が一入、美しく照らし出されたシーンであろう。
 でこの女主人公、とそれをめぐる人物の顛末が、当方には堀辰雄の『菜穂子』に似ている感じがする。不幸なおいたちゆえか、母との確執から逃れるせいか、一番その結婚相手にふさわしい都築明とではなく、東京のずっと年上の資産家と結婚してしまう(この段、初めて読んだときに、ああこういう道行が近代小説なのだ、なと妙に合点したことがある)。ファザーコンプレックス、と一言では言い切れないが、結婚という一段落をめぐる不思議な結末である。

 次に思うのは、結婚どころか、異性にたいして臆するところあのある男性の話で、これは《宇治十帖》の薫がそれにあたる。友人の匂宮の行動的なのに対して、マジメな勉強家であるとともに、どこか生存の影をしょっている(ま、自らの出生の秘密も抱えていたのであるが、それはともかく仏道で敬慕していた宇治の八の宮の處についに相談しに行く)。宇治の八の宮は、桐壺帝の八番目の宮で、由緒正しいのに皇統から離れ、仏道にいそしんでいたその姿が、求道の薫にぴったりだったのだろう。出生の秘密とは、源氏の実子とされるがそうではなく、光源氏の後妻・女三の宮と柏木との密通によって生れた宿命の子である。光源氏自身もそのことを知って、若い時代の藤壺との過ちを想起し、叱るどころか、苦悩している(ま、そのうぶな薫が、八の宮の娘たちを見初めて、劇を織り成しているところに、また『宇治十帖』のおもしろさはあるのであるが。
 自らの過去を思い、悩んでいる主人公がでてくる近代作品ですぐ思いつくのは漱石『彼岸過ぎ迄』であろう。そこに出てくる須永市蔵がぴったりである。97年のセンター試験にも出題された作品だが、須永にはまず出生をめぐって、子供心に陰をさすところがある。父の死ぬ直前、「市蔵、おれが死んでも、お母さんを困らせるんじゃないぞ」といわれたが、もっと不審な気持ちをそそる言葉は葬式の時の母の言葉だ。「ね、お父さんがいなくなったって、今までどおりお母さんが良くしてあげますからね」。こんな、わざわざ言わないくてよいことをいわれたために、却って、少年時代から、「僕は自分の親にたいする疑念が生れた」という須永市蔵。実際に、暗くなるべく生い育つ市蔵は異性との付き合いにも躊躇があった。親戚(いとこ筋)にあたる格好のフィアンセになりうる千代子を前にしても、愛しているのにそのことをいえない。のみならず、とてもじゃない独白(告白ではない)をするのだ。「僕は、物事に畏れを知っている。そんなんでことにあたって、どんなに二の足を踏んできたか。が、千代子はそういうことを知らない。屈託のないお嬢さんだ。僕の苦労を彼女にかけてあげたくはない」(具体的な会話内容は当方の思い出し・作成なので、関心の或る方は原文(=青空文庫)で確認されたい。
 要するに、薫も市蔵も、人生の裏面に敏感すぎる男であるだがその陰影が漱石先品に、どんなに知的な奥行きを与えたか、『源氏物語』がただの〝栄華物語〟に終わってないか、を証左するものである。

 こういうことを書いていくときりが無いが、この薫の形象、あるいはかれが後の面倒をみる柏木(恋心の不義の罪障で死んでしまう)、このふたりの暗い人物に対して、健康的で好男子で、かつ思慮深い常識家であるのが、夕霧であろう。かれは柏木の死んだ後、その後始末をし、未亡人(落葉の宮)を弔問している。また、一周忌を迎え、いまだに悲嘆にくれる父・光源氏をも慰めても居る(41巻の「幻」の巻)。もちろん、夕霧も普通の人情を持った男、父の後妻・紫の上を人目見ただけで魅了され、玉鬘が好きになり、友人の未亡人の落葉の宮を慕うようになっていく(そのことで、恋人の雲居の雁はたいへん立腹、里へ帰るなどしている)。でも、社会人として、人情のあるまっとうな青年として、夕霧の行動・心理はごくまっとうなのではないか。常に、周囲を冷静な目でみているし。
 この夕霧に相当するのは、漱石『行人』の出てくる、長井一郎の弟・二郎が似ているのではないか。兄さんの大学教授は知的だが物事にすべて懐疑的で、実は妻の愛情をも疑っている、〝幸薄い〟男だ。なんでも自分の思うようにいかないとすまない彼は時に妻をなぐる。しかし、「弱い子羊を打つ」ような自分の卑怯さも知っている。あるジレンマにはさまれた知識人のありのままを描いた傑作といえよう。貞操を疑われた奥さんと〝探偵〟を仰せつかった、弟・二郎は或る暴風雨の和歌山の温泉の寝間で、彼女(兄嫁)に告白されてしまうのある(「私はかまわなくってよ」)-。嵐の晩の一夜のこのせりふほど、兄弟の懸隔をしめした處でもあるだろう(漱石嫌いで、有名な正宗白鳥も、このシーンを「女の描けない漱石が始めて描けた」ところであるそうだ。

 この夕霧が義母である紫の上を始めてみてあこがれるシーンは、場合によっては大岡昇平『武蔵野夫人』の戦争からの帰還兵・勉に擬せられるし、あのおとなしい美貌の夫人・道子は紫の上になぞらえていいのかもしれない(勉に野性味をみるとすれば、匂宮をここにもってきてもいい)。

 また、柏木(36巻)・横笛(37巻)・鈴虫(38巻)・夕霧(39巻)あたりの、柏木の道ならぬ恋、それを見る夕霧の構図は、少し違うが、漱石「それから」の三千代を想うあまりになんども人の家のあたり(これはむろん三千代の夫である平岡の家)をへめぐるあたりに似ている。このシーンはまさしく〝恋〟だなあと最初に読んだ時想ったものだが、気になる人のことは寝てもさめても想い募るもので、明治のあの〝姦通罪〟のあった時代に、代助はついに、彼女を〝奪婚〟するのであろう(自然の情をとおしたばかりに、二人は、世間からの罰として、次の作品で宗助とお米は〝崖下〟の家に住み、奪婚された友人の影におびえて暮らすのである(柏木の場合、は、いわば中宮にあたるような女性を、たまたま横顔を見ただけで、重症の恋の病に陥り、世話になった源氏様にすまない、気持ちで、なんと死んでしまいます。ま、物語の展開上、そうしなくてはならないかったにせよ、ちょっと強引?)

 さらに、以下はほんの印象ですが、源氏が5巻「若紫」の巻きで、わらわやみに病んで北山の大徳に診てもらういわば、入院の後半、かわいらしい少女にあいますね。祖母らしき人と一緒に、雀の子をともだちが逃がしたと行って、泣いているシーン。教科書にもよく載っていた可憐なシーンですが、これは、〝垣間見(かいまみ)という、垣根から家の中、庭などを見る場面ですが、これと似た近代の小説では、室生犀星の『性に目覚める頃』、その〝お賽銭泥棒〟をのぞき見するシーンに、似ていますね。両方とも、今日では軽犯罪法違反ですが(無粋な名前だこと)、美しいものをのぞこうとするのは、『古事記』や、民話「鶴の恩返し」にしろ、普遍的な物語の行いです。
 あと、源氏が須磨で配流されて暴風雨に遭ったときあがありましたね、そのとき父王(亡き桐壺院)の亡霊が出て道案内して、無事、明石の土地だかに漂着しましたね。あの導きも、「ハムレット」にあるシーンにそっくりですね。
 また、前後しますが、柏木が自分の実の妹と知らず、玉鬘を慕うところは、三浦綾子『氷点』に少し設定が似ていますね(こっちは、ほんとの兄妹ではないのだから、恋愛はできるはずなのだけれど)。また、薫の出生の秘密ということだけでいえば、志賀直哉『暗夜行路』にもモチーフが似てないこともない。

 ま、『源氏物語』の直接の影響は、あの頃の、源氏亜流物語群や、中世王朝物語などに、むしろ色濃い影響はあるのですが、断続しているはズの、近代・現代にも通じるところをエッセイしてみました。(^^;)(>_<)(^o^)^^;<(_ _)>(-_-;)
 

〈かなしみ〉と日本人

 投稿者:管理人 デスクトップ 674  投稿日:2018年 1月19日(金)09時43分5秒
返信・引用 編集済
   今年は、「赤い鳥」が大正7年に創刊されてから100年、いわば〈童謡百年〉だそうである。それにちなんで。やはり旧稿からですが、子供の歌が冒頭にある小文を紹介しますね。



〈かなしみ〉と日本人 投稿者:管理人  投稿日:2007年 4月26日(木)02時47分35秒

  あかりをつけましょぼんぼりに  お花をあげましょ桃の花
  五人ばやしの笛太鼓       今日はたのしいひな祭り

 「うれしいひな祭り」の冒頭部分であるが、この童謡をいかにも〈かなしげ〉な歌と批評する人がいる。「うれしいひな祭り」という題であり、「今日はたのしいひな祭り」と歌っているのに、歌ってみればわかるように、実に〈かなしげ〉に響く、という―。 こんな「序文」ではじまるテキストを書店で手にした。タイトルは『〈かなしみ〉と日本人』、NHKのラジオ講座テキストで、著者(講師)は、竹内整一という倫理学専攻の東大教授である。
 この「うれしいひな祭り」の歌自体(サトウハチロー作詞・河村光陽作曲)にはさほど〈かなしみ〉は感じなくても、童謡や唱歌、あるいは日本の詩歌に(あるいは広く日本文化全般に)〈かなしげ〉なトーンがあるという主張には実に共感できるし、現代の日本で〈悲しみ〉の復権を唱える論には我が意を得た。

 人間には〝喜怒哀楽〟を初め、さまざまな感情・情緒があるが、例えばこの熟語に代表されている四種類に限っても、〝哀〟ほど、深くあわれなるものはあるか。例えば〝喜〟〝楽〟は、確かに、前向きな感情であり、文字通り喜ばしく、楽しいものである。しかし、例えば他人が〝喜び〟〝楽しん〟でいるのを見て、われわれは心を打たれるか。「よかったな」程度であり、場合によっては「何であいつが」と、とその〝喜ん〟でいる相手を〝憎む〟場合もある。また、〝怒〟りの感情は(〝憎む〟も同類)、確かにエネルギーがあり、実際の行動力にも結びつくような強い感情であるが、それは何か「分析以前の」原始的な感情であり、その瞬発力の前にもう少し思弁があれば、という後悔があとに立つ感情ではある(〝自爆テロ〟はどうにかならないか)。
 そういう点に鑑みれば、〝哀〟の感情ほど、情緒深く、人間精神の深奥に徹した感情はないように思われる。〝かなしみ〟とか〝あはれ〟という感情は、人間の奥深くに発せられる、自発的な、理性的・内省的な、どうにもやるせのない情緒であって、この感情のたゆたいこそは、その様態・動向からも、〝喜怒哀楽〟の四つの中でも、他に抜きん出ている。
 この四つの感情を人間以外の他の動物に置き換えてみると、このことははっきりする。例えば、猫に〝喜怒哀楽〟はあるか―。〝喜〟〝楽〟があるのは、えさでもやって食べているのをみれば、あるだろうと推測できる(おいしい魚などだと〝喜〟んで食べているように見えるし、猫じゃらしで遊んでやると〝楽しん〟でいるように見える)。〝怒〟になると、これはもう動物の本能と思えるほど、われわれは普段に眼にする。ところが、〝哀〟はどうか。私見であるが、当方には猫にはそれを感じることは出来ない。確かに犬には、なんとなく〝哀しげ〟な顔をするときがあって、やはり猫よりは〝高級〟なんだろう、と思われる。
 そう、〝哀〟はやはり、〝高級〟な情趣なのである。〝怒〟のような旧皮質そのものが露出するのではなくして、新皮質と旧皮質を相互に往来した上での(これは比喩である)、ある情趣なのだ。

 「かなしい」を語源的に分析すると、「~しかねる」からきたそうだ。親しい者との死別など、どうにも処理しかねる感情がわいてくる。「かなしみ」は、それをどうにもできないからかなしいのであって、これは怒りのように対象を見つけて、ぶちかますというわけにもいかない。〝喜〟〝楽〟などのように、互いの肩を叩いて、感情を共有するといわけにもいかない(よく、涙にくれて互いに抱擁するなど子女の場合にみかけるが、それはそれよりしかたがないという消極的な理由によるのであり、〝喜〟〝楽〟の積極的な行為とは違うことは、ぜひ留意したいところである)。
 「かなしく、やるせない」などという。この「やるせない」も、同根の語であって、「遣る」「瀬」がない、すなわち、(悲しい感情などを)「遣る」(どこかに流し出す・排出する)、そうした「瀬」(水の流れ口)がないのである。くぐもった感情は、どこにも排出できず、内部に纏綿するのである。本居宣長は、そうした情趣(「あはれ」)をそのまま纏綿させるのがよい、といったそうだが、たしかに、それこそが心身のために、わが民族の美学に添っている。

 近来、「かなしい」というのは〝クライ〟だとか、〝めめしい〟とかいわれ、否定的な感情とされてきたが、それはそうではない。「かなしみ」があるからこそ、人間は人生の奥深さ、人間精神の深奥、文化の奥深い豊かさを知れるのである。欧米、なかんずくアメリカ文明のその場限りの楽しさ・豊かさ、に酔い痴れていては、この奥深い情趣をしることはできない(〝ディズニー〟もいいが、常に愉しく陽気に、愛嬌ふるまいて、とはいかないのが人間ではないか)。
 この感情こそは、人間のみが保持できる〝人間らしい〟感情である。

 本テキストでは、宮澤賢治のかなしみ(特に妹トシとの死別に際する)や、国木田独歩や西田幾多郎のいわば生存の根本のかなしみ、などを紹介しているが、当方も感じていた古典に取材した〝かなしみ〟の例を最後に紹介しておこう。


 「源氏物語」に〝柏木〟という男が登場する。この男がひょんなきっかけで、ある女を死ぬほど恋してしまう。女は〝女三宮〟といって、じつは光源氏の後妻にあたる人である。その〝人妻〟を恋してしまった。ほんのちょっとしたきっかけであった。親友である〝夕霧〟(源氏と故葵上との息子)たちと蹴鞠に興じていたある夕べ、鞠を追いかけて偶然、女三宮の姿を御簾の隙間から垣間見てしまった。一目惚れ。以来、柏木の懊悩が始まる(「源氏物語」における、こうした〝垣間見〟は、印象深い。初めのほうの光源氏による紫の上の垣間見も有名だが、この女三宮の場合は西日を背にして、実に神々しいほどのまぶしさだったようだ)。
 女三宮というのは、実は源氏の兄、朱雀天皇の愛娘で、どうにも嫁ぎ先が見つからぬ際に、あえて権勢ある弟、後見役ともなる光源氏に降嫁させたのであった(その際、最愛の妻、紫の上の懊悩は人知れず深いものであった)。中年の源氏も、新妻に興味はなくはないものの、そのあまりにも内面の幼さに興がそがれた、ということもあったようだ。
 だが、ドラマは本物語の核心に関わるところへまで展開する。すなわち、柏木はついに女三宮と不義を犯すのである。源氏が病に臥せった紫の上を看病している隙をぬった行動であった(のちに、生まれる子こそが、〝宇治十帖〟の主人公・〝薫〟であった)。あとでそれが露見し、柏木は光源氏からそれとなくそれを指弾される(源氏としても、自身の藤壺とのあやまちがあったのだ)。柏木にとって、それはかなり手痛いことであった。光源氏といえば当時もう栄耀栄華を極めた人であり、そのひとの指呼を受けたということで、懊悩は深まり、ついに死の床に伏す。そして、愛したその人(女三宮)に向けて、最後の一言を頼むのある。「あはれとだにのたまはせよ」。しかし、女三宮はそれには応えない。これほどの〝かなしさ〟〝やるせなさ〟はあるだろうか。柏木は、間際に(せめて、いとしいよだけでもおっしゃってください)と乞うたのだった。

 「かなしみ」は、個体としての感情であるが、民族の、あるいは共同体の情趣、である。日本古典、あるいは近代文学には、それらを感じさせる名場面が多く見受けられる。どのように、かなしいのか、その美学は、などいろいろ考えてみたいところである。
 

「更級日記」のことなど

 投稿者:管理人 デスクトップ 315  投稿日:2018年 1月17日(水)12時39分47秒
返信・引用 編集済
   井口文学についてはまた改めて紹介したいところですが、旧PCのデータを調べていたら、きょうのように雨もよいの寒い日、同じ情緒を綴っていた投稿の元原稿がありましたので、披露しておきますね。
                             2009年 1月 9日(金)16時59分 群系掲示板

 きょうはひさしぶりに雪が降って、寒さがいちだんと厳しい。ちょうど締切の仕事があって家に閉じこもらねばならないから、出かける気持ちが抑えられてよい。仕事がなくて天気がいい日など、気持ちがうきうき(あるいはうずうずして)外へ行かないではすまないときがある。こんな気持ちは人皆に普遍的なようであって、「死の家の記録」の〝囚人〟たちでも、天気の悪い日は却って外界への憧れを持たずにすんだようだと作者ドストエフスキーはその気持ちをいっている(捕囚の人ほど、外への、自由への憧れは強かろう)。囚人たちは、風呂へはいっているとき、〝娑婆〟のことをいろいろ云々していたようだ(こんなシベリアの流刑地に、風呂なんてあったのかな。読後の記憶としてあのシーンは印象的だった)。

 我が古典でも、晴れの日は時にお出掛けがあったようだ。「女車」に乗って、平安の女房たちも郊外へピクニックへ出かけたようである。牛車に木漏れ陽のする木の枝がかかる様をみずみずしく清少納言も書いていたようだった。逆に風雨や雪に降り込められた塞いだ気分の女房たちのようすも「枕草子」にはあったようだ。宮中で、同僚たちも相応にいたなかで、そうした自然界の〝大荒れ〟はいかにもさびしく、またこわいような気持ちであったろう(特に雷がおどろおどろしく鳴り響くときなど、気が気でないようであったろう)。

 近代ならともかく、まだ迷信や未知がたくさんあった頃、人々はどんなに心淋しいときを送ったことだろう。「枕」や「源氏」はむろん、「更級日記」などは、人事もないあわせでそうした気持ちを叙していて、いまの文章など以上に、その心象は印象けざやかである。たった原稿用紙100枚も足らないこの「押し花の匂いのする」(堀辰雄)日記には、かの時代のそんなに身分は高くはない(受領階級)に生い育ったからこその様々な感慨があって、気持ちをそそる。都へ向かう旅日記で目にしたものは少女時代の思い出を追想したからこそもあって(また筆を持った晩年の今の悲愁の気持ちもあわさって)なんともいえない、人生の万華鏡ともいえる。

 十歳前後で、上総(千葉・市原)のこの土地を去ろうとする頃に、手作りの木彫りの丈六の仏を見捨てていく気持ちのいじらしさ、この土地の何もかも目にとどめたいとする気持ちなどは、通信・交通の発達し今日では感じえぬ、心の髄まで染みとおった感慨であったろう(人間の本来の原初的感情とも思える)。途中松里(今の松戸)で長年面倒を看てくれた乳母との別れ、一面の茅の生えた武蔵野を行く茫々の感覚(竹芝の昔語りを挿入しないではいられぬほどの茫漠なさまーそれが今日の東京である)、あるいは丹沢の山の暗がり、そこで野宿するのもなんともそら恐ろしいものだったろう(少女の身では、またとんでもない原初的体験の日々であった)。そんな中、暗がりから現れた遊女たち、その澄んだ声に、少女ら一行はなんともいえぬ癒しを覚えたことだろう(少女だからこその、そうした歌舞を演ずる人への目の覚めるほどの感慨は、最近でも韓国ドラマ「ファン・ジニ」NHK土曜深夜、でキーセンたちの舞いに瞠目した主人公少女の初々しい感動に見られたことだった)。旅の一行も命がけだったろうが、当時の遊女たちも、それこそ命がけで、その生業を生きていたであろう。情報のあまりない中古という地平は、それこそ毎日毎日が「生きる」そのものであったと思われる。
 やっと都の邸宅へ着いたが、都といっても、木々がうっそうと茂り、夜中でもあったでもあったし、少女の落胆は相応なものであったろう(物語のある都はどんなに華やかなものかという幻想もあった)。その都での生活もまた、少女の夢と幻想を少しずつ破っていく現実ばかりであった。でもそうした中でもささやか日々の暮らしを点綴するその筆致にも、もはや懐かしい、とも言表できるような日常があった。

 時に姉との生活は今日にも通じる、ある纏綿とした情緒を読む者の気持ちにひたさないではいられない。ある晩、夜空にながれ星をみる二人。ふっと、姉は「ねえ、いま急に私がいなくなったらどう思う」。妹は(何を言うの)となま恐ろしい気持ちになる。「冗談よ」と紛らわしげに姉はいうが、それを受け止める妹(作者)の気持ちは真にいかばかりであったろうか。姉の「急にいなくなったら」という言葉は現代でもありそうだ。そしてこの言葉は姉妹の、特に姉に特有の属性かもしれない。妹をかばい、保護してきた、特に母親が常時身近にいるわけではない家族関係にあっては、姉は我が身を犠牲にする母性の象徴でもあったかもしれない。
 その姉妹の会話の中に現れたのが一匹の子猫であった。「かわいらしい。ね、この猫を飼いましょう」。どちらの提案かこの猫を飼うという話が、この日記、特に姉妹の生活にあるけざやかな印象を与えることになる(ちなみに平安の当時、猫は今日ほど多くはなく、もの珍しかったそうである)。すなわち、姉が病気になって、猫が姉妹から遠ざけられて、従者たちの居所に置かれていた頃、姉の夢にその猫が現れたというのである。「猫はどこ?」がばっと起きた姉は言う。実は夢に、その猫が現れて言うには「私は侍従の大納言の娘の生まれ変わりです。久しぶりにご姉妹の近辺にいられて嬉しかったのですが、近頃は遠ざけられて、あやしの者たちの近辺にいるのが憂わしいのです」。この「侍従の大納言の娘」というのは、姉妹が(特に妹が)、〝手〟を習っていた方だったのだ。昔は文字はそれこそ手習いであって、身近に手をとって教えてもらった。だが、「侍従の大納言の娘」はあるときはかなくなって、死んでしまった。その辞世の歌に「私がいなくなってしまったら、鳥部山に立つ煙を私だと思ってほしい」というものだった。当時の仏教的な無常観ならでは(いや、今日にも通じる)死生のむなしさがつたわる歌である(煙となる、は「なくなる」という言表になんともぴったりだ)。

 「更級日記」はその後、その大切な姉の死、宮仕えのこと、それから帰って老残の父へのなんとも切ない思い、そして残った姉の遺児を川の字のように添い寝すること、一家の大黒柱になっていかなねばならない、夢から覚めた現実へ回帰せざるを得ないいきさつが主人公の思い(それは歴史上の多くの女たちの思いであったろう)とともにつづられる。そして、やっと三十歳をかなり経て結婚するが(当時としては破格の晩婚)、けっして悪い夫ではなかったのに、幸福は得られず、夫の任地にくだる際にみた流れ星の不吉な予感が的中して、彼女はやもめとなる。老残の孤独な身の上を吐露してなげく一巻の末に、さらにかきくどいた(告白相手の)尼は、あなたはまだましですよ。訪れてくれる甥ごさんがいるではないですか、私はもっと孤独ですよ、という話を最後につづって日記は終わる。
 だがけっして〝ハッピーエンド〟ではないこの日記には、不幸一辺倒とはいえないあるメッセージがわれわれには伝わるのである。すなわち、あなたは幸せばかりではなかったが、そうしたさまざまな人生の断片を思いのたけ吸い込んだではないか、精一杯生きて哀しみ、歓び、切なさを生きた、ではないか。人生のペストリ(織り込み)を十二分に味わった、その意味では、それを味わえないでその日その日をゲームなどで興じて(楽しい)とした現代の子供たちよりも、何倍か、その人生を味わえたのではないかー。


 古典には(特に日本古典には)、人間の持つそうしたさまざまな哀歓がみられる。最後に最近、目にした「うなゐ松」のある一節を紹介しておきたい(むろん仕事で古文テキストを作成する時に〝発見〟したのであるが)。
 これは近世初期、歌人木下長嘯子の歌文集『挙白集』にある章段なのだが、「うなゐ」とは 「髫/髫髪」と書いて「髪をうなじのあたりで切りそろえ、垂らしておく小児の髪形」をさすが、いっぺんの内容は、我が娘子の死期にあった際を書いたものである。十歳くらいの我が子が、春の桜を待たずに死ぬ運命なのを、健気に、父親が手折ってきた梅の小枝をみながら、後世のことを頼むいじらしさの描写は、「源氏物語」〈御法)の紫の上の逝去の場面に比するほどの筆舌の一節であった(文芸作品の味わいは、単にストーリーの有為転変、だけでなく、ある印象的な場面・情景にこそある、とわが恩師大野茂男先生が仰せであった)。
 確かに、「死」こそ「すべてを打ち切る重大事」(鴎外遺言)であるが、逆にそれこそ、その描写こそ、残ったものにどんなに感銘を与えるか、である。近代作品では、漱石「彼岸過ぎ」までに、小さな者の死(まだ一歳になったかいなかの〝雛子〟の突然死)で看ることが出来るし、有島武郎(「小さき者」)の、その母親(有島の妻)の死に、看ることが出来る。いかなる〝不幸〟が君たち残った小さき者たちにふりかかるものか、愛情に満ちたその父(有島)の筆致は、近代日本散文の最も「美しい文」に数えられるだろう(そして、彼自身の心中と、その発見の悲劇的顛末は、あわれを誘わずにいられない)。

 こんな文章を書いているヒマはなかったのですが、興にのって長く書きました。興味のある方はぜひお読みください(「うなゐ松」の一片は、実はセンター試験2006年に出題本文であります)。
 

井口氏の句集より その3

 投稿者:管理人 iPad 899  投稿日:2018年 1月12日(金)13時44分55秒
返信・引用 編集済
     ひきつづき、井口時男氏の句集『天來の獨樂』より  (p60以降)

     能登半島  七句より
1   同宿は馬の尿(ばり)ども能登の夏

2   奥能登やここにはここの蝉鳴きしきる

3   ひるがほや能登金剛をやさしうす

     追悼・秋山駿
4    ごろた石のぬくみなつかし河原菊

5    蛇にも秋ずるりと冷えた身を運ぶ

6    ポケットに胡桃一顆を尖らせて

7    ぬれぬれと雨後の満月きのこ太る

8    落葉踏んで錆びた殺意を埋め戻す

9    焼鳥の香にそぞろ神いまそかり

10   アルビノの鯉は沈めり寒椿

11   革命の書(ふみ)読む夜や大くさめ

12   をんな病むとか椿の家は小暗くて

13    ころがれ子らよ花の堤で目まひせよ

14    花かげに養(か)ふ不機嫌のこの獣

15    「国歌斉唱」蜆は蜆を生み継げよ

16    波斯菊(ハルシャギク)乱れよ団地解体す

17    蕁麻(イラクサ)や微熱あるわが神経叢

18    敗戦忌夭(わか)き死はみな汗臭く

19     雑踏を突つ切る秋のがらんどう

20     我がはらわたもかくは苦きか秋刀魚啖(く)ふ

21     粗塩にまぶせ言の葉富士冠雪

22   「原子の火」こぼれてセイタカアワダチソウ

23     セシウムをめくれば闇の逆(さか)紅葉

24     還暦や親不知に沁む寒の水

         光部美千代さんを悼む  四句   より
25     添ひ臥しのたましひ濡れて花に雨

26     かなしめばこぼれてゐたる花あせび


     9ページから103ページまで、1ページには平均三句掲載だから、300句近くあるうちの26句、先に掲出した17句を入れても、全体の一割近くにすぎない。まず、こうした抄出であることを了解されたい。ただでさえ短い句世界のほんの一部なのである。
    掲出した基準は、まず面白いこと、そして了解可能なこと(コメントが出来ること)、逆に了解に危惧があっても、何か所以がありそうなこと、掲出したいこと、などが理由となろう。

     句作を他人が注するのは危ういことである。どんな捉え違いがあるかわからない。それでも最大公約数の了解を目途に注解する。なぜするか、一言、面白いからである。

     まず、冒頭の1と2。すぐ連想する人もいようが、芭蕉の句を思う。むろん、『奥の細道』の「蚤虱馬の尿する枕元」と、「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」であるが、1は「同宿は馬の尿ども」とあって、場所も時も異なるが、芭蕉と同様な境地になっていよう。2も、「ここにはここの」「蝉鳴きしきる」のことわりがある。3は、「能登金剛」の題詞があるが、そのほとりにひるがほが咲いて、金剛の地も旅人をなじませる。「やさしうす」は俳句ならでは言表である。
     4は、文芸評論家・秋山駿への追悼句。「ごろた石」は、地面に転がっている石ころ。『内部の人間』以来、秋山氏のキーワードは「石ころの人間」であった。内向の世代一流の自己凝視。それを作者は「ぬくみなつかし」と受けている。(作者、暮れに刊行の講談社文芸文庫の秋山駿『小林秀雄と中原中也』の解説を書いているそうな)。
     5、「蛇」を受けて「ずるりと冷えた」と続ける。こうした擬態語の妙。欧米語ではどう表現するものか。6、「ポケット」と「胡桃」の子供言葉に、「一顆」と「尖らせて」の大人の自我。7、「ぬれぬれと」と「きのこ太る」が妙にあう。
    8、「錆びた殺意」は前にも同工の句があったが、こうした内面こそが作句の必然。「錆びた」「埋め戻す」に躊躇いと時の経過を思わせる。
    9、「焼鳥」にも神がいらっしゃるのだ。そわそわと人を誘惑する神さまが。
   10、「アルビノ」は、メラニンが欠乏する遺伝子疾患だが、「鯉」にもそうした疾患があるようだ。白い鯉は見かけることがある。「寒椿」との対照でけざやか。
   11、題詞に、「北一輝『日本改造法案大綱』を読みつつ」とあるが、作者ならではのことである。俳人には医者や政治家、等インテリも多いが、北一輝を読む俳句作者がどれほどいようか。「大くさめ」がきいている。
   12、めずらしく女人のすがた。25、26の人と関連するか。「椿の家」がポイントか。「小暗くて」と言いさしするのが、韻文の妙。
   13、これはまた一種明るい句。「ころがれ子らよ」と呼びかけ、「目まひせよ」と結ぶ。「花の堤で」が中にあるのがいい。14、これも微笑ましい一句。「不機嫌のこの獣」のいいさしがいい。こいつは、作者お気に入りの猫、かどうか。
   15、「国歌斉唱」にカギカッコがある。また、以下の「蜆は蜆を生み継げよ」の受けもわかるようで、今ひとつ分からない。「蜆」は民草、すなわち国民を意味するか。「蜆」の語には、梅崎春生の同名小説を思わせる。
   16、「波斯」は、ペルシャと打つと出てくる。波斯菊は、キク科の一年草。空き地や道端に咲く。解体された団地のそばに何気なくその黄色い花が咲いている。「乱れよ」に作者の感慨があろうか。
   17、作者の句には思いのほか、植物がおおい。「蕁麻(イラクサ)」もその一つだが、これは「蕁麻疹(ジンマシン)」にも使われるように、薬草でもある。「微熱ある」は、近頃の「微熱少年」の先発形か。
   18、終戦日といわれるこの日、「敗戦忌」と捉えるところに、作者の立ち位置はうかがえよう(がこれはこの板などの読者には多かろう)。案外に、先の大戦のこと、その悲惨を吟ずる俳句は多い。多くを語らぬ短詩だから、the rest. Is  Silenceで、余白の沈黙は読み手のそうぞうりょくに委ねるか。
   19、「がらんどう」の語には、思い出がある。皆とやっている文芸同人誌で、川端康成の特集をしたとき、同人の一人が、川端の文学を一言、「がらんどう」と題して、一論文を草した。何もないからっぽうのことだが、欧米ではただの空無だが、この国の言葉ではもう少しの余韻がある。この句もこの一種か。
   20、秋刀魚のはらわたは苦い。わがはらわたも同様か。微笑と苦笑の一句。この国ならではの句。
   21、この句には、やや長い題詞がある。いまここにそれをしめす。
         十月十六日、「群像」が新人文学賞の評論部門を廃止したことを知る。同賞を受賞して仕事を始め、十五年前に『批評の誕生/批評の死』を書いた身として、感慨無きにしも非ず。折しも富士山初冠雪。
       評論部門の廃止ー。なんとも切なく、義憤も感じる。いや、悲憤慷慨ただならずだ。批評があってこそ、この世のひみつ、秘儀を知れる、というもののはずだ。やはりアニメ全盛、目だけで感動せよとか。もはや「言の葉」は、「粗塩(あらじお)でまぶ」すしかないのかー。
    22、23は、3・11の震災、原発事故を受けた句。この悲劇をどう御したらいいか、表現者の念頭に爾来あったことだろう。俳句という短詩形で示すのはとりあえずの対処法。「原子の火」とやはりカギカッコ。原発運転の当初は、この永遠のエネルギー(に見えた)にどんな期待をかけたことだろう(私事であるが、荒正人の評論に「火ー原子エネルギー」というのがあった。雑誌『近代文学』の〈未来人〉といわれた俊秀にも期待があった)。だが、実際には、「火は」「こぼれ」てしまった。「セイタカアワダチソウ」だけが、繁茂しているとは嘱目だが、厳しい現実の受け止めがあろう。23も「セシウム」の語彙が全てを物語っていよう。「闇の」「逆紅葉」が吟じ手の認識。
   24、「還暦や」「親不知」にこの句趣はある。この感懐は人様々だろうが、評者も人も、還暦は今や一里塚に過ぎない。
    25、26の二つには、作者の言い知れぬ思いがこもっていよう。悼む対象の人は、そもそも作者に俳句の面白さを伝えた人だった。高校の句会の主宰者だったそうだが、その方は少し前に鬼籍に入っていたそうな(それを作者はインターネットの検索で知ったとか)。過去の追憶の思いとともに、ばんかんの思いで作句した。25、「添ひ臥し」と「濡れて」「花に雨」の言葉に、言い知れぬ色香の姿がただよう。だが、それは「たましひ」なのだ。26、「かなしめば」にこの作者にはめずらしいほどの気持ちが率直に表れていよう。「花あせび」におもいを象徴させるか。
     この対象の女性については、この句集にある七つの随想の最後に、「光部美千代さんを悼む」という文章に委細が書かれている。この15ページに及ぶ文章こそは、この間然するところがない句集の白眉というべきだろう。評者は、何か言いたいが、粛然とした気持ちでこの小文を終わるしかなかろう。ここまでお読みいただいて感謝します。
 

井口氏句集の随想から

 投稿者:管理人 iPad 372  投稿日:2018年 1月 8日(月)15時51分1秒
返信・引用 編集済
      井口時男氏の句集を時折開いては、鉛筆片手に各句をチェックしている。案外に奥深いもので、これは単なる嘱目吟か、それとも深い寓意があるのかといろいろ考え、あぐねている。傍にiPadを置いてわからない語句は直ちに検索して。
    自分も国語教師を務めた身、それなりの語彙の知識、地理も歴史も好きで風物の知識もあると思ったが、もう氏の蘊蓄と、語彙に対する的確に首を下げ下げである。時折詞書があって、吟じられた場所・空気を知ることも出来るが、多くはわからないでそのままやり過ごす句も多い。それでも、いくつか吟行を共にして行くうち、氏の吟じる姿勢、手振りも多少感じられてきた時、ふと目にしたのが句集の後半に折りたたまれた随想であった。これを読んであっと思った。なんだ、ここに作句の機縁が書かれているではないか。それも俳人にはないほどの詳しさ、丁寧さ、さて的確さで(さすが散文の猛者)。そこには、氏の俳句への認識、作句態度も書かれてあって、なるほどと思った(実に明快で共感出来た)。以下に、そのブリフィーングを試みる。もとより、12ページにもなる随想の、ほんの勘所を抄出するのだから、わかりにくい箇所もあるかもしれぬ。それは乞容赦。ぜひ、本句集を手にされたい。
                                        七篇ある随想の巻頭にある「突つ立ち並ぶ葱坊主」(2012年12月記)より

                                           ◯

107p
    近ごろ、時々俳句を作っている。散歩を始めたのがきっかけだった。

【注】
    この散歩のきっかけは、腹部大動脈瘤の切除手術がきっかけだったとある。このことは仄聞はしていたが、この後二十年務めた大学も辞められたとか。惜しまれたことだろうが、正しい選択だったと思う(当方も大病を経験したが、氏のような要職にはなかったので気楽ではあった)。

108p
    以後、努めて毎日歩いている。まったく、自分の生涯に散歩する日々などが来ようとは思ってもみなかった。

【注】
    学生時代の散歩は、「ただのうろつき、不審な徘徊だった」とあるが、内面に何かを抱えた人間はそういうものではなかったか。スポーツマンでもないかぎり、ランニングも散歩もなかった。中年以後、病気などの機縁で、次の人生が始まる。


     散歩を続けられたのは、近くに多摩川が流れていたおかげだ。水は無聊を慰める。
【注】
     「同じ経路を何度でも歩けば、おのずと風景の細部が目に留まる」として、見た光景、出来た「最初の句」が先に引いた、以下の句だ。

         わらわらと抱かれ曳かれて春の犬

111p
    しかし、句作が多少継続したのは一九八四年の二月から翌年にかけてのほぼ一年間だけだ。
【注】
  「古い句帖」とあるように、最近の句作の前の往時のことが書かれる。「当時、勤務していた高校に俳句好きの若い女教師がいて、彼女を中心に同僚が集まって素人句会を開いていた」ー。

          気 疎(けうと)しや木々芽吹く朝咳く男

     三句あるうちの一句をあげる。「すべて嘱目の実景、実際に発した句だが、自意識が棘立ってもいる」として、「木々芽吹く朝に咳いたのはこの私ではなかったか」とあるのは、嘱目吟を是としながら、内の自意識も隠さない作者らしい。

続いて書かれるのは、氏の作句論、いわば俳句(吟)の本質論だ。

111p
    五七五、十七音の俳句は、短歌の七七を捨てた結果、自分の思いを述懐する余地がない。だから俳句は、抒情を削ぎ、内面を切断する。

    さて、その俳句の本質について、井口氏は次のように言う。

112p
    俳句はただ、世界を小さく、鋭角的に切り取るだけだ。その切り取り方の角度が世界と向き合う角度であり、逆にたどれば自己と向き合う角度である。
    俳句に「思想」の表現などというものが可能だとすれば、そしてその「思想」がただの標語でないとすれば、この世界意識=自己意識の構造がかろうじて支えるしかないのだと思う。

【注】
    よくぞ、言ってくれた。俳句にも「思想」があり得る。それも、自己意識が辛くも支えるものとして。これは、後で述べるように、短詩形の世界史的文脈においても、稀有な可能性なのだ。

112p
    三十年前の自意識の棘立ちに比べれば、三十年ぶりの私の自意識はかなり穏やかだ。…日課としての散歩が長年無視し続けてきた自分の肉体という自然との「和解」という試みであるのと同じく、句作もまた、無視しつづけてきた風景という自然との「和解」の試みだからである。

【注】
    ここで氏が頻用する、「和解」ははしなくも、志賀直哉の〈和解〉をおもわせる。対立してきた父との和解、すべてを受け容れる境地になる。氏は、定義して次のように言表する。

112p
     「和解」は、自然にせよ人間にせよ、意のままにならない他者の存在を認知し
対象化することから始まる。この際、ユーモア(俳味)もまた「和解」の一形式である。

【注】
   ここから、氏の嘱目吟が始まる。対象を見たとおり、そのまま吟じる。「十七音の短詩が世界の多様性との接触を保持するにはそれしかない」ー。

113p
    …だが、人よりも犬や猫、ことに猫の方に私の目は行く。出会う犬はみんな紐で繋がれているが、猫どもはみんな野良だ。たぶん、猫の句がいちばん多い。

           春昼や己が尻尾をねぶる猫

微笑ましくもあるが、場所柄、以下数句あるが割愛。

116p
    認識と表現のエコノミーを本質とする俳句が、一種の寓意性、警句性を内蔵しているのは確かである。…俳句をヨーロッパに紹介したチェンバレンは、類似の詩形がないのでしかたなく、俳句を「エピグラム」、つまり詩的警句と訳していた。そこには、詩の小片という古い語義があったのだそうだ。
     なるほど詩の小片かもしれない。しかし、ものもろくに云えないような不自由な小片である。この小片は、言葉というものへの断念をさえ要求する。こんな詩形は他にない。

【注】
    それでも、井口氏がいま、この寡黙な小片に魅かれるのは、「いまの私が、小説だの批評だのといった饒舌なジャンルに飽き足りなくなったせいかもしれない」とー。
    批評というジャンルで、おそらく戦後世代でもっとも大きな達成をなした氏の現在の境地として、関心を持って聞き耳を立てる。しかし、俳句もやる批評家として、これからも活躍してもらいたい、というのが、読者の大方の希望であろう。


    
 

俳句いくつか

 投稿者:管理人 iPad 272  投稿日:2018年 1月 7日(日)20時03分6秒
返信・引用 編集済
     文芸評論家である井口時男氏はこの数年、俳句に嗜んでいるそうだ。
まったく門外漢ではあるが、当方なりに気になった句をいくつかあげさせていただく。

     1  我こそは柑子盗人山の月

      2  火のごとき暴動あれよ雨季近し

      3  秋風や魚につめたきあぎとあり

      4  まなこ病むまなこの底に冬を飼ひ

             祖母の通夜に
      5   短夜を腰の伸びたる仏かな


      6  わらわらと抱かれ曳かれて春の犬

      7  春昼や己が尻尾をねぶる猫

      8   炎天やびつこの犬が土を嗅ぐ

             網走    永山則夫の故郷
      9   晩夏光網走川はとろとろと

     10  網膜を灼く 帽子岩陰画(ネガ)の夏

              恐山
      11  秋地獄ぺらぺらまはる風車

      12  口寄せを了へてイタコは腰を伸(の)し


      13  そは猫攫ひこは柿盗ツ人いづれ白浪

      14  小春日のダチュラしなびてぶら下がり

      15   犬ふぐりまづ花々に先駆けて

      16  連翹や蝶生(あ)るる日の陽のながれ

      17  寝小便ほたるぶくろの朝まぶし

                                                         『天來の獨樂』ー井口時男句集 ー(二〇一五年十月十日  初版)より

    全く任意の抜粋であるが、句集の前半から掲出させていただいた。166ページほどの句集のうち、7pからは「古い句帖」からとあり、25pからは「 新しい句帖」からとある。また、107p以降は「随想」が七つ折り込まれている。ここに上げたのは、冒頭から、59pまでの句であって、全体の三分の一でしかない。
    さて、掲出したからには、コメントの一つでも加えねばなるまい。1は、1979年の作とあって、句集の巻頭にこれが掲出されている。「我こそは柑子盗人」とあるのは、ガキ大将の自恃だろうか、おもしろいことに、13の「新しい句帖」の一句にも通うところがある。3の句の「あぎと」は、アゴのことでここに詠みの焦点がいく。同じく4も「冬を飼ひ」が焦点だろう。
    6、7、8は犬と猫が詠まれるが、6の「わらわらと」とがきいている。多くのもの(ここでは犬)がバラバラに集まること。どういう光景か、犬にとって不幸なことか、あるいはエベントなどのことか。7はまさしく春眠のひととき。8は一転して、なにか宿命のようなものを感じる。梶井の「冬の日」に出てくる、糞まいる犬をおもいうかべた。
   9、10は作者ならではの句。永山の生まれ故郷・網走を詠んだ。ネットで検索すると、網走川があり、海岸には見事な帽子状の岩がある(必見)。むろんこれだけでなく、永山の育った青森・板柳の風景も逸することはできまい(作者は、「板柳訪問」他の散文でその地を綴っている)。
    11と12も連作の部分だが、「ぺらぺらまはる風車」と、「口寄せ」(検索)のイタコがきいている。
    14のダチュラは、チョウセンアサガオのことで、句にある通り「ぶら下がっ」っている。15の犬ふぐりは、イヌのふぐり(陰嚢)に似ているというが、ツユクサに似た青い清純な花である。句作においては星に見立てたのもあった。15の連翹(れんぎょう)はモクセイ科の黄色い花。17のほたるぶくろも、キキョウ科の花で、釣鐘状に咲く。
   かようにiPadで検索しないと、素人には詳らかにしない(おかげでだいぶ勉強になった)。

    俳句は、虚子のいうように、花鳥風月を詠むのが主流だろう。その意味では、短い言表で対象を観照的に読み込むのがポイントだろうが、作者ならではの内面の表出がないとはいえない。2の「火のごとき暴動あれよ」はそうした疼き、あるいは現状への不満が現れているものか。そうした思いは、8~10にもうかがえようが、ここに掲出した以外の句に多く見られたが、またの機会にしたい。

追加
   6の句は、多摩川の散歩で出くわした光景とのこと(後にある随想から)。ま、それで「抱かれ曵かれて」がわかった。微笑ましい情景である。





 

文学とは何かについて

 投稿者:管理人 iPad 282  投稿日:2017年12月24日(日)23時51分10秒
返信・引用 編集済
     このテーマについては、観念的に理屈でああだこうだいうより、具体的な作家を上げるのが最も説得的だろう。文学(者)とは、例えば梶井基次郎、をここではあげよう。かつての論稿から一部を掲出してみる。


  ・・・改めて梶井基次郎の諸作品を読み、感じさせられたのは、文字による表現がいかに人間やその周囲の自然、あるいは宇宙といったことまで巨細に描き分けることができるのか、といった驚きであり、またいかに、たとえばわれわれの幼年期の記憶にまで遡り、あるなつかしさを感じさせたか、であり、総じて文学表現というものが、人間の営みの中でいかに信頼のできる、われわれの生きる内実に即応しているかの、発見であった。

    まずある詩人の梶井讃の言葉を掲出したい。

      本質的な文学者                  萩原朔太郎
   日本の文学に対して、僕は常に或る満たされない不満を持って居た。それは僕の観念する「文学」が、日本の現存してゐる文学とどこか本質に於いて食ひちがつて居り、別種に属して居たからである。然るに梶井君の作品集「檸檬」を読み、始めて僕は、日本に於ける「文学」の実在観念を発見した。(中略)
   僕は考へる。文学の條件すべき要素は、単なる理智でもなく、観照でもなく、またもとより、単なる感覚や趣味でもない。文学の真の本質は、生への動物的な烈しい衝動(意志)に発足して居り、且つその意志が、対象に向って切り込むところの、本質の、比較解剖学的摘出でなければならない。(中略)
    梶井基次郎君は、日本の現文壇に於いては、稀に見る本質的文学者であった。

   この朔太郎の文章は、梶井没後に刊行されることになった全集(六蜂書房版・昭和9年、没後二年)の内容見本に載ったものであるが(新全集では別巻に所収)、こうした梶井文学の〈本質〉におりたった讃仰は、他にも見受けられる(管見では、小林秀雄、井上良雄など、戦後派では、『近代文学』同人であった佐々木基一など)。
                 「梶井基次郎  表現としてのメタファー  ー「ある心の風景」「冬の日」に即してー」
                                               (「群系」第15号 〈特集 梶井基次郎  珠玉の文学世界〉2002年より)

    いかにも朔太郎らしい言喩であるが、この朔太郎と基次郎との共鳴し合う時空間に、一つ文学なるものの表出が見られるのではあるまいか。
 

北朝鮮には、小林秀雄は生まれない。

 投稿者:管理人 iPad 961  投稿日:2017年12月22日(金)18時34分48秒
返信・引用 編集済
    北朝鮮のニュースが今世紀に入って引きも切らない。特にこの数年、金正恩という若造がトップになって以来、この国のマンガのような動向に、メディアも大国も振り回されている。やれ、核だミサイルだ、の核時代ゲームは前世紀で一応収拾がついたのではなかったか。この国のことを、嘲笑いながら、真摯な対応をする政治家やメディアは現れないものかー。
   不思議なのは、こんな小さな国に、アメリカを始め、日本も皆、振り回されていることである。GDPでいうと、日本の東北地方の一つの県の総生産しかない国に、振り回されている。いまの時代に、今さら核、大陸間弾道弾などといわれて、各国が右往左往している。これはどういう事態なのだ。アメリカが本気を出せば、赤子の手をひねるようなものではないか。
   確かに狡猾な北朝鮮は、ICBMだと言って、米国のどこかを核着弾の恐怖でもって、情勢を支配している。しかし、こんな話、危惧は前世紀のことではないか。今さら核の恐怖に怯え、子供じみたわがままをどうして許すのか。ことは、人道上の問題である。   北は、自国の安全を守ること、その手段が核であろうと、固有の権利だ、などとほざいているが、彼らがいう、「自国」とは、金正恩一派だけのことではないか。人道上の問題とは、核を向けられている国民、人びとのことをいうだけでない、北朝鮮内部の、彼の国の人民の人道上、今の金正恩政権は至って害悪だと言いたい。
    この数ヶ月、彼の国の漁船、イカ釣り船の、我が国への漂着がニュースとして流されていた。なんとも見すぼらしい木船で、多くの漁民がそこには乗っていた。皆、栄養状態もよくなく、さらにイカ釣りのノルマがあるという。漂着したからまだいいほうで、下手をすれば遭難・沈没も普通に考えられる。こういう厳しい労働条件のもとの労働、どうしてこれが労働者の国のものいえようか。中には実際遭難して遺体で発見された漁民も一、二の例ではない。彼らの労働条件、栄養状態の劣悪なこと、他国のことながら、義憤、同情の涙を禁じ得ない。
   驚くのはこうした末端の労働者のみならず、精鋭とされる兵士、特権階級とされる北朝鮮へいしにもこうした栄養状態の劣悪が見られたことだ。二、三ヶ月前の、38度線を超えてきた北の兵士、傷ついて南の介護を受けたが、ついに亡くなった彼の体から、なんと寄生虫がわんさと出てきたというではないか。我が国なら終戦直後の話だが、現代の21世紀の今日、精鋭と言われる兵士がこのざまである。
   怒りが湧いてくる。こんなバカな幼児的政権はいますぐにでも、転覆させるしかないではないか。脱北に失敗した人民、思想的に問題のあるもの、これらは皆、収容所送りだという。まるでナチスではないか。

   当方は、この国に自由はあるのか、特に学問や思想の自由は、と考えた。確かに技術的なこと、科学に関する探求・研究の自由はあろう。しかし、人文社会科学の自由はあるか。まったくもって、それは不毛の問いでさえあろうかと思ったのは、北朝鮮の国の内情をWikipediaで調べたときであった。なんと大学の名前に、金日成の名前を冠したものが数多くあるではないか。これでは、思想の自由、文学の営為は計れないと心底思ったことである。
     Wikipediaでの大学例
   金日成放送大学
   金日成軍事総合大学
   金日成政治大学
   金正日政治軍事大学
   金正淑海軍大学
   金日成総合大学
    地獄。知らないものは、そういう感覚もないであろうが、我が国のような国で文学に馴染んできたものにとっては、この国は地獄、でしかない。
 

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