teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ]

スレッド一覧

他のスレッドを探す  スレッド作成


「境」28号(東京都) 宮野孝「二つの日本論」の意味するもの

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 8月18日(木)00時16分28秒
返信・引用 編集済
  「境」の編集後記に宮野孝が、日本の漫才の世界にあるボケとツッコミの文化について触れているのが面白かった。日本の漫才にあって、ほかにはない役割分担・・そのように受け止めて編集子は「世界共通ではない気がする」として日本独特の文化ではないか・・と見ているところが面白かった。ボケとは、話を別のレベルにズラシしていく、異次元にもっていくことだろうと分析する。そして、結論として「ただ、ボケが過剰になり、ズラシがズラシ過ぎになるのはよくない。ボケの過剰がこの国の話し方の基本スタイルになることはないだろうか」としているところは含蓄がある。米国では二人組みの喜劇俳優に、このボケとツッコミに似た役割分担で人気のあったコンビがいたが、日本の漫才の世界とはやや違うもののようだ。

・宮野孝「二つの日本論」は、外国の知識人が日本をどう見ているかを論ずるもので、例に挙げているのがサミエル・P・ハンチントンの有名な著書「文明の衝突」とカレル・ヴァン・ウオルフレンの著「日本/権力構造の謎」の二つ。ハンチントンの著書は現在でも日本ではあまりにも有名で、政治、経済学者が例証として取り上げているので一般にも知れ渡っているが、ウォルフレンについては、意外にもあまり知られていないようだ。宮野氏はこれを重点的に取り上げて、「日本の権力構造の解明を試みている点では示唆的だ」として詳しく紹介している。つまり、日本の権力構造のシステムは<責任を持たない>という特異な構造を持っている、と看破する点が彼の卓越した指摘であるとしている。そして、日本の文化はイデオロギーだとまで極言するウォルフレンの指摘は、日本の政治、経済のシステムと日本人の振る舞いが欧米人にどのように観られているか、を鋭く解明するものとして参考になる。こうした指摘は日本人同士には気づかない日本人社会の振る舞いであって、指摘されてなるほどと改めて日本と日本人を見つめ直す者も多いだろう。結論として、ウォルフレンの著書は、日本の近現代史を見直すよすがになるものだとしているところが新鮮である。

・益田恒彦「ハの風景⑧」は、日本語の用法の推移、つまり文法的に分析してどのような変遷と推移をたどって今にいたるのか・・の論考である。今号も五、六十枚の力作分析は価値ある内容である。

・岩谷征捷の「待つこと・忘れることーモーリス・ブランショに」と思わせぶりな題名の<私>と恋人が主人公の恋愛小説的心境告白的小説60数枚。内容が若書きの文章であることからして、若い頃に原型があって、それを発表したい衝動にかられて発表した、というような性格の作品であるようだ。連綿として<私>が彼女の思い出を綴る構成の文章・・・果たして作者は小説の新しい表現として何を意図して発表したのか・・・モーリス・ブランショの小説作法を引用しているところを見れば、実験小説的意味合いを込めているかのようにも読めるのだが。

・とは言え、作者とは色々な意図で作品を書き、発表するもので、創作はこうでなければならないという公式はないわけで、そう考えれば、この作品とて作者には思い入れがあっての発表だろう。一首献上。

  ・さ迷へばあの世とこの世の境界に佇ちてまたもや迷ふふたたび   石塚 邦男

   ・郵便 187-0032 東京都小平市小川町1-755-2-409  境文化研究所

        電話ー042-332-1160
 
 

ローマ帝国と幕藩政治の平和とリオ五輪のナショナリズム高揚を考える

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 8月12日(金)18時19分0秒
返信・引用
  ・リオ五輪の日本人の活躍・・・ナショナリズムがメいっぱい爆発するときである。
このナショナリズムが単純に中国憎し韓国憎しへと流れることを怖れる。

・「文学界」の7月号に哲学者の柄谷行人のインタビュー「改憲を許さない日本人の無意識」が掲載されていた。ここで柄谷は徳川幕府は、天皇象徴性を守り、平和を列島に普遍化した政治体制として、もっと再認識すべきだ、というようなことを語っているが、ここは同感であった。

・徳川政治は幕藩体制によって日本国の平和を保持することを眼目にした点では、ローマ帝国の政治体制に似ている。これはアウグスチヌスが指摘したローマ帝国の「神の国」統治に似ているだろう。現実の世界がローマ帝国のように一元統治されたなら、庶民の平和は保たれるに違いない。ローマ帝国時代の庶民とは奴隷のことだが、もし奴隷同士に差別がないとするなら、庶民は平等ということになる。

・ギリシャ時代のポリス国家は、ポリス同士が争うことが多く、それは二十世紀の多国間同士の闘争と同じ弊害を生む。しかし、ローマ帝国時代は、ローマ一国支配の平和は保たれていたわけで、これは日本列島の幕藩政治による平和に比較できる安定したものだった。

・リオ五輪によって、世界各国のナショナリズムは高揚しているが、これは世界平和にとっては、考えものの行事かもしれないとも言えそうだ。
 

批評とは、マトリューシカ的に・・  ロシア文学の風土性は北海道に通じていて親近感があるが・・・一方で・・・

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 8月 1日(月)17時41分40秒
返信・引用 編集済
  ・ロシア文学の魅力は何といってもその風土性にある。
北海道に住んでいると、ロシア文学の風土性がよく理解できるし、ロシア人の比喩や人生観も大いに理解できる。ただ、だらだらと長いのは、ややうんざりする面も。

・ロシア人の喩え話は、東北人や北海道人の喩え話に通じるものがある。
一例を挙げてみよう。

・「シベリアの真実は雪の中にあり、アメリカ人の真実は書物のなかにある」
これなんかは、帝政ロシア、共産主義ソ連邦のシベリア強制収容所の存在を茶化したものだが、北海道開拓も、囚人たちの労力によって切り拓かれてきたもので通じるものがある。

・「ロシアには二種類の人間がいる。飛行機で旅立つ者と棺桶で旅立つ者だ」
この諺めいた格言?もなかなか言いえて妙だ。北海道もかつてはそうであった。

・日本の東北名産のコケシをヒントにしたロシアの有名な人形「マトリューシカ」は、コケシ的人形の中にまたひとつ小さな人形があり、その人形の中にまた小さな人形があり、その人形の中に・・・という構造・・なかなか真実がつかめないのがロシア社会・・というわけだ。こいつは北海道人にはないが。

・庶民感覚では、心に真実を隠してないと生きていけないのがロシアだ、という意味では、この人形は象徴的なドストエフスキー的ロシア人気質を示しているようにも思える。批評の神様と言われた小林秀雄の批評は、マトリューシカ的であった。最近は、そんな評をする批評家はめっきり少なくなったのは寂しい限りである。

・このマトリューシカをロシア旅行の友人にこのほどいただきました。今回の東京都知事選挙もマトリューシカ的な玉ねぎ選挙ではありました。おあとはよろしいようで・・・。

  ・ロシアより愛をこめたるマトリューシカ人形の中に真実ありや   石塚 邦男
 

“いのちの溶解” 土倉ヒロ子/『木偶』100号

 投稿者:荻野央  投稿日:2016年 8月 1日(月)10時30分43秒
返信・引用 編集済
  「永い眠りにつく前に」と書き出されると、死が想起される。そして死を、戦争死とか老衰死とか孤独死などのそれぞれの位置で語られるとき、悲惨である。

“永い眠りにつく前に
日々の眠りが長くなる
食べては眠り 起きては眠り 横になる

うつらうつら舟をこぎ
少女は跳びハネル
碧空を突き抜けて ここは何処?
見知らぬ人の顔を見て
あ~らお久しぶりねと ご挨拶
お花見お重を貪って 隣の寿司にも橋が伸びそうな勢い
この生命の変容を笑わないで
あなたにも訪れてくる この時間
かっこつけてもダメ
もう 忍び寄ってる この時間

歩幅も狭くなっている
背中も丸くなっている
額のメガネを探してる

あらら 駅に私を忘れてきてしまった
放浪する わ た し
黄金色のアルバムを広げ
あの人この人の息を吸う
発車のベルが鳴っている

蒼い氷を食べたい
闇夜の桜に登りたい

うふふふふ 目の前に特大のオムレツが
これは最後の晩餐なのかしら
夢・現・の紗幕のなかで
一人の童女が
オムレツにかぶりついている”

悲惨から遠く離れた作者の位置は軽妙洒脱な「戯れの精神」と言っても良さそうだが、それだけでもない。実感として肉体の精神の老いが横にすり寄ってくるときの恐怖の浅薄さとでもいうべきものである。それは「不連続」と「連続性」を論じた、フランスの「総合思索家」G・バタイユの説明にもある、それによく似ている。晩年の大著『エロティシズム』において彼は死と生の、個体における不連続と類的な存在における連続を上げて「死は世界の青春である」と歌うように讃美した。土倉氏においては、その接点は「紗幕」という幕の開閉によって表象されている。
幕が開き「わたし」は舞台に上がり背後の幕引きの音を聞くとき、「お浄土」の人々の舞い(森敦)に酔いしれて、「わたし」は「わたし」になるのであろう。ふたたびの「わたし」であるかは知らない。「連続」という抽象的な言葉に逃げるほかはない。ひとりの命が溶け出してその言葉に流れこんでいく。そしてその先は「お浄土」から舞い上がる別の「わたし」という命に結晶していくのか。(どちらかというと筆者はそちらの方に期待している。)

土倉氏は軽やかに、らくらくとシュウカツを語っているように見えるが、巨大なオムレツをほおばる童女と見立てるとき、氏の変わらぬ詩精神の確かさを感じるのである。かぶりついている、らくらくでもなさそうだ。

http://

 

「カプリチオ」44号③ 異界を見ている作家群 

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 7月27日(水)03時05分47秒
返信・引用 編集済
  ・この雑誌の作者たちに共通したものがある。それは、現実の生活の中に、常に異界を凝視していることである。単純に言えば、シュールリアリズムの作風、または、日常の生活の中の時間的、空間的裂け目を見ている作家群とても言えようか。ちょうど網野善彦的、あるいは赤坂憲雄的人間洞察のもとに掘り下げられた生活意識が登場人物の生活空間を彩っているかに読めるのである。

・仲間同士が良い意味で影響しあうと、同じ価値観を共有するようになって、いつの間にか作風がひとつの流れになって行くことは良くあることだ。日常のなかのひずみ、ゆがみ、それは人間関係にも行動にも精神の波動にも空間的、時間的にも現れる・・・というような・・・そのような色合いが、この雑誌の作家群にはあるように思う。

・陳明芳「ジキタリス」は、亡くなった夫の骨を粉砕してお茶のように飲んでいる女が、ある時、薬剤師の真美子に「私、人を殺したことがあるの」と言う。こんな非日常的な女性が主役で出演する短編。

・門倉実「歪んだ痕跡」は、母の弟の叔父が残した日記帳が、叔父に特別可愛がられた新聞記者の私に何かの役にたつかもしれないと遺品として渡された。叔父の遺品の中には千人針の腹巻が大事に残されていた。その叔父の戦後の生き方とは・・という話。

・芦野信二「朝日の当たる部屋」は、1965年の山形県。母は、大きな家で一人住まいしている祖父に朝食を運ぶのが日課になっていた。その朝、孝一は母と一緒に祖父の家に向かった。ところが、途中で祖父が亡くなったことを聞かされる。

・冬野良「蜘蛛の話」は、妻が妹夫婦のやっている蕎麦屋の手伝いにでかけたので、時間つぶしに散歩に出た伊能は、図書館前の椅子に座って髪を梳いている若い女を見かける。椅子に座ってぼんやり見ているうちに眠くなった伊能は・・

・ここから、主人公は伊能ではなく男>という固有名詞になって登壇する・・・。少年の頃に蝶をからめとろうとしていた蜘蛛をいじめて殺したことがあった伊能・・。<男>は女に蜘蛛はお嫌いですか、と問いかけられる。あなたは誰ですか、と訊くと、女は「クモです」と応える。前半と後半は独立しているようで、比喩的につながっているかに読める作品である。

・谷口葉子「まぼろしに遊ぶ」は、手術の朦朧意識の中での精神のたゆたいを描いたショート・ショート。

 青い猫が飛んだ。沖縄の海だと思った。人の声がした。・・・こんなイントロで、エンディンクは・・姪が
ふたりのお子たちの話を始めた。これが生きているということに違いなかった。自分の病状の話より、この世の事情の肌触りにほっとす る。
 この13、4枚の掌小説には、やはり異界が横たわっていた。


 

「カプリチオ」44号(東京都)② 塚田吉昭「向こう側のわたし」は洒落た実験小説

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 7月24日(日)06時39分33秒
返信・引用 編集済
  ・いずれ紹介しようと思いながら、余所見に気を奪われて紹介が遅れていた異色の作品を、遅ればせながら簡単に紹介する。

・塚田吉昭の「向こう側のわたし」は、読者の一人として深読みして感じたのは、面白い洒落た実験小説だということである。

・<わたし>の日常をもうひとりの<わたし>が登壇して観察するという不思議な構成。三人称の他者のように<わたし>が<わたし>を見つめる小説らしいが、<わたし>が二人現実に居るわけだから、当然怪奇小説のようになる。

・しかも、<わたし>は別の<わたし>を<わたし>と認識せず、他人のように想っているために、家の中で行動する別の<わたし>にイラつき、侵入者のように思えて、防御の姿勢をとる・・・というわけだ。

・いや、ひょっとして、この小説は異次元の<わたし>と現実の四次元の<わたし>とが三次元の部屋でに暮らす物語なのかもしれない。ブラックホールから抜け出るホワイトホールの<わたし>とこちら側の<わたし>とが隣り合わせに共存している物語なのかもしれない。

・シャミッソーの短編小説に「影のない男」というのがある。ある日、自分の影がなくなっているのに気づき、他人に悟られないように生活せざるを得なくなる男の喜悲劇・・ま、このシャミッソーの逆の立場になって、自分が二人居ることによる喜悲劇のスリラーとサスペンスの物語というところか。

・「いったいこれは何だろう」というスリラー小説めいた導入部から、「はて、家に侵入者か」という緊迫感・・・そんな雰囲気で進む謎の人物・・なかなか面白い短編であった。この塚田氏より立派なカバー付き「迷宮肖像」と題した創作集がこのほど送られてきた。異色の作家だけに楽しみにして読もうと思っている。読み込み次第、この場で紹介するつもりだ。

  郵便ー 142ー0042  東京都品川区豊町6-6-17  塚田 吉昭方
 

「椽」18号(札幌市) 倉田優「青い鳥」の巧みな抒情の色合い、本間素登「渡れぬ橋」の切ない子供の目線

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 7月22日(金)05時16分47秒
返信・引用 編集済
  ・倉田優「青い鳥」。妻が五歳の娘を連れて家を出て行ったあと、一人暮らしの山路は38年のサラリーマン生活を終えて自由の身になって初めての夜、なじみの居酒屋で飲んで深夜に帰宅した山路は、窓の外でで囀るインコの声で目覚めた。手をのばすと、指に乗ってきた人なれしたインコだった。独り暮らしに迷い込んだインコは、山路には大いなる慰めになっていた。
・インコは「シニタイ」という言葉と「シロタツバサ」という言葉を時折口にした。退職した日に出合った鳥とは何かの巡り会わせかと思いながら飼っているうちに、インコは隣に住む高樹という女性が飼っていたツバサと名づけたインコと判明する。「シロタ」というのは、以前に飼っていた飼い主の苗字だった。
・インコがいなくなった山路は、五歳の娘は今では21歳になっているはずだ、と気にするようになっていた。長い間、養育費を送っていたところ、ある日、「養育費はもういりません」という元妻からの連絡の手紙があったので、「嗚呼、再婚したんだな」と想ったものだが、すでに21歳になっている娘はどんな子に成長したろうか、と想像すると会いたい思いがつのったが・・・何と、妻の再婚相手は友人の一人であったことが判明し、唖然とする・・。そして・・・という話はなかなか出来ていて、じんわりと読者の胸に迫るものがある。

・本間素登「渡れぬ橋」は、橋の向こうに工場地帯が見える長屋に母と住んでいる有は、母と二人同じ布団で寝ているこの長屋が好きだ。テレビが壊れて映らなくなった。母は給料が出るまで辛抱してね、と言う。母は歳の若いトシオと温泉町で暮らしていたことがあった。トシオは旅館の外回りの仕事をし、母は内職をしていた。その後流れ流れてこの長屋にやってきたのだが、トシオはある日、帰ってこなくなった。母は無口になり食事の支度もしなくなった。ある日、本当の父だという男が窓からのぞきこんできた。父は死んだと聞かされていた有は驚く・・・そんな話は、子供の目線から自然体で切なく描かれる前半の筆筋がいい。

・小林俊彦「進駐軍」は、戦中、戦後の体験話。作者は旧満州に6、7歳まで居て、戦後札幌に。ちょうど私の年齢の体験話で身につまされて読んだ。

・悠希マイコ「幾千世」は、戦前の北海道の十勝平野の町で家族十一人、小作人農家の話。長編になるテーマである。

・津坂格「ライラックの花の咲く頃」は、ゴルフ愛好者のゴルフ談義をまじえた短編というのは珍しいか。

    ・なお、筆者の身辺雑記の事柄については「凶区・壁新聞」、
    「群系・掲示板」に時折書き込んでおりますので、のぞいてください。

  札幌市東区北30条12-4-17   渡邉護方 「椽編集部」
 

「星灯」3号(東京都)① たいらい さとし「サクラサクサク」中東で亡くなった自衛隊員の兄を持つ青年の日常

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 7月20日(水)16時42分16秒
返信・引用 編集済
  ・評論分野では、なかなかの書き手が集まっている同人誌である。編集後記に「本屋の閉店が続いている。書籍取次ぎの中堅太洋社がこの春、破産宣告、地方書店への配本を手掛ける業者だったので、影響が大きい。もう紙媒体の本は死んでしまうのか?」と嘆いている。さて創作・小説はどうか。

・たいらい さとし「サクラサクサク」は、自衛隊の兄が中東のどこかで死んでしまったが、どこでどうなったのかは自衛隊の特定秘密になっていて教えてくれない。兄の遺体も返って来ず、後にクロネコヤマトから小包が届き、中には石ころが一つあって、走り書きのメモには「現地の石」と記されていた・・というエピソードから始まる。駐屯地の広がる地区に住んでいる僕の高校の卒ぎようせいの半数は自衛隊に入る。僕は、母と同居していて、兄の死を嘆く母の収入では生活できないので引きこもりしてばかりいられずバイト生活・・・というような若者の話。今風の若者の姿がリアルに描かれている背景に死んだ自衛隊の兄の姿がオーバーラップされる構成は、力を入れて書きたいテーマを内包しているかに見える。

・渥美二郎「人間の探求」は、エッセイ的題名の通り、回顧を交えたエッセイ的身辺小説か。小説にするという明白な目的意識を持つと、作品の性格ももっと明らかになりそう。

・三浦協子「じんましん」は、ある日、突然じんましん・・発疹に悩まされた「わたし」は、原発に関連して大間にかかわる出版を目指し、現地取材に行こうと計画していた。離婚暦のある中年女性が、この発疹に悩まされるようになって、自信がなくなった。そんな精神の葛藤を描く心理小説。

・この雑誌の目玉は夏目漱石没後100年を記念した漱石特集。次回に触れたい。一首献上。


    ・サクラサクサク春うらら思ひ出す校庭前の大樹枝ぶり  石塚 邦男
 

“表示板” 菱田ゑつ子/『鵠』58号

 投稿者:荻野央  投稿日:2016年 7月18日(月)15時02分41秒
返信・引用 編集済
  風景を見つめる詩は静かであるし、場合によっては思索に耽ることがある。その風景のなかで旅人は慌ただしい。追われる日程に歩行と観光の快楽に忙しいのだが、「ただそこに生きて」見つめる人たちにとって、ただの風景ではない。まして見つめる人以外に誰もいないところ、つまり風物だけが構成している詩は、確かさの無い手触りを届けてくれるみたいだ。菱田さんの詩はそんな風に感じられる。

“小さな橋の欄干を背に
派手な縁取りを施された案内表示が
やや右肩下がりに傾いたまま
往路専用を指示している
誰が取り付けたか
如何にも雑な括り方ながら
荒削りの板木は
まだ確かな扁平を保ちつつ
なくてはならない風景のように
すっかりなじんではいるのだけれど
ひとの目にさらすことで持ちこたえた歳月は
苦くて切ない逸脱の道程ではなかったか
一木片として
どんなにひたむきで
ひたすらであった意志の筈だとしても
とうとうと流れる川の水音を
細大もらさず受け止めるだけではなかったか
むしろ
流れのはげしさにたじろぐばかりで
橋とは何か
と問うひまもなければ
ただくりかえす日々と言うしかなかった筈
旧知のような遠い日を
一本の
木とも眺め
柔らかな陽を浴びてさえ
うすれゆく文字に気づかず
何も感じることはなかったと
苦しい弁明を重ねるほかなかったか”

◇詩の中で「逸脱」と言う言葉がある。表示板はかなり古びていながらも読む者に指示を与える存在だが、それが逸脱していると語られると、何から逸脱しているのだろうと不思議に思うことだ。「読まれること」「川の音を背に受けていること」その轟音に驚きながら「橋とはどういうものなのか」を問うこともない存在の表示板は、ただ単に日々を送り、なぜ自分が表示するのかの、その原因たる橋についてなんらの質問をしない。これはいかにも苦い経験であるし切ない記憶を毎日つくっているだけだ。そうこうしているうちに自らを消しこむ危難がやがてやってくるであろう。その気配に気が付くこともない日常には弁明の工夫しか残されていないということになってしまう。

◇この詩のスタイルは「問いの」かたちではじまり終わっている。つまり苦く切ない体験から、危難を回避する弁明という行為は何の意味があるのだと、と告発しているのである。それが逸脱の本当の意味なのではないかと思う。
「この風景」のみを扱った詩は、表示する板のその役割の永続を反省することを告発しているのだが、背後の川の水音にかき消されるように、橋を渡る旅人には関係のないところでされているので、この問いすらも実は意味をなさぬよう受け取られかねない、うわべからは。
実のところ「この風景」は或る意味を放げかけているが、それは読む側の責任のようである。責任が大げさであるならば、読む側の自省録になんらかの言葉を書き込む必要のようである。必要が大げさであるならば、迂回のようである。迂回が大げさであるならば、読む側の・・・。

止まらない、連続する定義の言葉。

◇迷宮の入り口に立っているこの作品の読者は風景の文法を各自、自分で工夫して編み出すことで理解し得るのだ。(ぼやぼやしていると表示板の文字が読めなくなってしまう)
 

「群系」36号③ 新鮮な読みの感受性と男女の恋愛感情分析は、星野光徳「村上春樹 再読⑤ ノルウェイの森」

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 7月10日(日)08時17分15秒
返信・引用 編集済
  ・星野光徳「村上春樹 再読⑤ーノルウェイの森」は面白い分析と展開だった。100パーセン恋愛小説と銘打った春樹作品の恋愛の秘密に迫ろうとする星野の恋愛というものの本質探査が展開されるところが圧巻であった。恋愛というものをサルトル流に言えば、「存在は本質に先立つ」ものとして考えるのだが、春樹文学の恋愛は、どう解釈されているのか、が星野の執拗な分析によって、ある程度思想的に浮かび上がる<深読み>の面白さがあった。恋愛を男と女の単なる関係として捉えるのではなく、世界の事象の典型例として考えていこうという、まさに深読みのさらに深読みをしているところが興味津々であった。

・時間があったら、ここをそれこそ春樹文学をかりて深読みしたいのは、世の若い人々の想いではないだろうか。恋愛の色々な体験者が、あえて解を明快にすることなく読者に投げ出される春樹文学の恋愛の持つ意味を、ああでもない、こうでもないと推理めいた深読みをしていく面白さ、これが春樹文学の秘密でもあろうが、星野は、あえて春樹の罠にはまりつつ、その春樹文学のブラックホールの魅力を語ろうとする徒労を、性懲りも無く続けているところがユニークにして新鮮でいいのである。

・図式的に強いて言えば、恋愛のブラックホールから抜け出るホワイトホールのあり方を描こうとしている春樹文学は、その意味では世界文学の上で新しい試みとも読み取れるものだが、そこを掘り下げる試みをしているかに読める星野の作品分析は、特化した照射とも言えるユニークなものだ。

・この星野のように春樹文学が読まれているなら、まさに世界の若者が春樹文学に共感するのは当然だろう。若者にとって恋愛は常に第一義の関心事でいくら回り道しても無駄とは思えないものだからだ。どのような恋愛にも徒労がないところが、若者の生命力というものだろう。それを心得た作家は若い読者の共感を得ることができるものだ。男にとって女は不可解であり、女にとっても男は不可解な存在であるため、男女の愛は互いに永遠のテーマであるからだろう。それを知り尽くした春樹は、執拗に男女の愛を永遠のテーマと心得て書き続けているのだが。

 ・愛を描く春樹文学の分析を深める文芸批評見事なり  石塚 邦男
 

弦99号 

 投稿者:市川 しのぶ  投稿日:2016年 7月 8日(金)10時41分13秒
返信・引用
  ご批評有難うございました。 このように載せて頂くことで、同人一同励みになります。
弦も次号は100号となりますので、現在全員で力を合わせて発行に向けて書いております。
 

第二期「海」16号(大宰府市) ① 知的な比喩、暗喩の仕掛けが優れた井本元義「星と花 R共和国奇譚」

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 7月 8日(金)00時46分30秒
返信・引用 編集済
  ・博多の山笠を初めて見たのはいつだったか・・学生時代の旅行のときか、また記者時代、何かの調査のため現地に入った時のことだったか・・二度ほど見た記憶がある。

・博多港は外国貿易港として最も旧い歴史を持っていたはずだ。博多の山笠は800年近い歴史を持つ。福岡・博多は日本で一番旧い外国との玄関口だったのだ。祭りの<のぼせもん>のごとく、文学でも北九州大宰府は藤原道真以来の先駆であった。

・いや、歴史を遡れば朝鮮の三国時代に百済に援軍を出そうとした斉明天皇以来の伝統を持つ文化の地であった。そんなところの同人雑誌「海」は、文学の熱い<のぼせもん>の意気軒昂が読み取れるまでに成長して来た雑誌と言えるだろう。

・さて、本題に入る。井本元義の小説「星と花 R共和国奇譚」は注目の作品であった。冒頭の書き出しが先ず良い。晩春の頃になると、主人公は理由もなく憂鬱の極みに陥る。主人公の精神のたゆたいが象徴的に描かれた章節なのだが、それが散文詩の趣きで記されている文章の色合いが楽曲のように素敵なのだ。そんな主人公のところへ、R共和国の大使館からの案内状が届く。巨大食虫花を見る一週間のツアーへの参加呼びかけだった。巨大食虫花と読んで、主人公は少年の頃にウツボカズラの食虫植物を育てていたお手伝いさんとの隠微ながら新鮮な記憶が蘇る。ここの描写は小説としてなかなかサマになっている。この場面は一つの伏線として小説全編を支配するからくりになっているところが巧みだ。

・ここから主人公の学生時代の回想になる。専門にしていた文化史を学ぶうちにヒマラヤ周辺の少数民族の風習に関心を深め、R共和国のこともある程度知っていた。そこでツアーに応募する主人公・・・という話なのだが、旅行の最中に悪寒と吐き気に襲われて病院に行く。その病院で意識朦朧となった主人公は、その病院が巨大食虫花であるかのような妄想に陥ってしまう。それは現実なのか、単なる熱に魘された妄想に過ぎないのか・・という奇譚めいた起承転結は、ボードレールの詩を読むごとき悪夢の世界でもあり・・という50数枚
は、まさに世紀末の「悪の華」の再見のごとき作品・・という趣向は楽しめた。

・この重い哲学的でありながら情感に満ちた文体が読者を魅了する60枚ほどの作品には成熟した文学理念が通底していた。小説ディレッタントを唸らせる細やかな仕掛けの網を張りめぐらせており、一気に読了できる文体の緊迫感がある。主人公の若い頃の性の体験の心配りのある過不足ない描写と、女性を食虫花に喩える比喩と暗喩の立体感盛り上げもサマになっている点、作者の成熟した小説作りの体験が見て取れる。また、R共和国にある巨大食虫花を求めていく旅行、その旅先の現地人の鳥葬の風習などのエピソード的イメージを配する知的な小説作法を心得たバランス感覚も評価されよう。

・評価の結論を言えば、主人公の潜在意識を止揚していく純文学的手法が優れている秀作ということになる。単なる旅行記にしていないところが作者の手腕と言えようか。私の好みからすれば、枚数的にも「文芸思潮」の同人雑誌賞の有力候補作品だろう。この作者、これまで三作ほど読んでいるが、いずれも知的なニヒリズムの横溢した秀作ばかりで、最近では一頭抜きん出た作家である。

・一言注文を言うと、「奇譚」とだめ押ししなくても、読者は読むと理解できるわけだから、それははぶいて、ずばり「食虫花」またはボードレールをひっかけて「悪の華」みたいなひねった逆説的題名も一案だと想うがどうだろう。一首献上。

  ・食虫花に食はるる幻視たるのち恍惚に居る小説読みき  石塚 邦男

  ・悪の華にはあらずやも恍惚の没我に横たふヒマラヤの花

ひまらや

 

「弦」の評文について

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 7月 7日(木)18時43分40秒
返信・引用
  ・パソコン不調により「弦」の評文中途半端になってましたが、回復しましたので、つづきを書き足しておきました。数日ご迷惑おかけしました。  

「弦」99号の評

 投稿者:合田 盛文  投稿日:2016年 7月 7日(木)06時33分30秒
返信・引用
  ・"合田盛文「パークアベニュー399番地」は、海外研修制度のある" とあるが、その後はどうなっているのか、メールにて教えて下さい。
 M/A:  gohdamr@ sf.starcat.ne.jp


 

Re: 「札幌文学」84号(札幌市) 若い自衛隊員の幻覚を描いた海邦智子の「誰何」、小南武朗の私小説的読書ノート公開の演出の妙味「多岐亡羊」

 投稿者:札幌文学会 海邦智子  投稿日:2016年 7月 4日(月)22時36分28秒
返信・引用
  根保孝栄・石塚邦男さんへのお返事です。

「札幌文学」第84号掲載作品「誰何」についての評を頂き、ありがとうございます。
今後も伝統ある「札幌文学会」の同人として精進いたします。
 

「弦」99号(名古屋市) 木戸順子「ディスタンス」の女心の異常を描いた佳作、下八十五「京都祇園小路祇園館」の芝居興行の世界を描くユニークな作品に注目

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 7月 2日(土)16時09分38秒
返信・引用 編集済
  ・木戸順子「ディスタンス」は、40になって心の病、躁と鬱に悩まされるようになった亮子は日常にセクシーな感覚に悩まされるようになる。そんな中年女の日常の感覚を描いた同人雑誌では珍しい異色の作品。地下鉄の電車の中で男に挟まれて座っていると、若い男と水飴のように合体して行く感覚になったり、電話工事の若い男が工事にやって来ると、男の作業服の下を妄想したりするようになる。そんなところの生理的描写が出来ている作品。この作家は、いつも冒険心を持って新しい心理分野に挑戦している作家で70枚の力作。

・白井康「金城埠頭」は、カーフェーリーに新車を積み込むドライバーの話。運搬会社の組織や積み込み作業の珍しい次第を背景にした珍しい分野の職場小説は読ませた。

・山田實「去りゆくもの」は、退職すると妻から価値のない男で始末に負えないお荷物と思われている男はそのことを自覚しているものの、自分から外出する気力もなく日々を過ごしている。そんな男のだらしない惨めな周辺は書けている。ただ、周辺の人間模様に深入りしているため、60枚を超える筋書きが煩雑。ここは夫婦を主軸にふがいない夫と何かというと不平不満を言う妻の二人にしぼりこんで3、40枚にまとめた方が良かったのではないかという気がしたがどうか。

・合田盛文「パークアベニュー399番地」は、銀行に勤める主人公が、苦労した末に海外研修制度の試験にようやく受かって、研修先のニューヨークに行き生活を始める。その生活体験記は、小説体裁にしたい素材。

・市川しのぶ「海鳴りの町」は、寂れた港町の風情が緻密に描写されているにしても、主人公の行動に起承転結をつけたドラマに仕立て上げたかった。

・下八十五「京都祇園花見小路祇園館」は、関東では興行師であるが関西では仕打という仕事を手掛ける男の話・・という珍しい作品。京都の呉服屋の次男坊だった安田彦三郎は、芝居が好きだった。明治二十二年に縁あって芝居の権利を買わないか、と持ちかけられ、というドラマチックな話が時代背景と共に語られる特殊な世界の内容に注目した。

・空田広志「チャンプルー苑」は、基地問題で揺れる沖縄旅行で目の見えない子を連れたミレという女に出会う。子供の父親は・・という話は作り方によってはいい作品に仕上がりそう。

・長沼宏之「秋の間奏曲」は、子供たちも大きくなって家を出たあと老夫婦は・・・という話は良くある話であるが、この作品は地味だがしみじみとした余韻ある作品に仕上がっている。

 ・中村賢三の「同人雑誌の周辺」は送られて来た同人雑誌の目立つ作品を取り上げて的確に論評しているので毎回有名。

 ・郵便ー463-0013   名古屋市守山区小幡中3丁目=4-27   中村賢三方
        電話ー052-794-3430

 

「札幌文学」84号(札幌市) 若い自衛隊員の幻覚を描いた海邦智子の「誰何」、小南武朗の私小説的読書ノート公開の演出の妙味「多岐亡羊」

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 6月21日(火)13時00分11秒
返信・引用 編集済
  「札幌文学」は、北海道の同人雑誌活動の中心になって60年の伝統を誇るが、最近は主要同人が高齢化、または逝去して活気が乏しいのは残念である。だが、その中でも若い新人がわずかながらも芽を出して来たのはうれしい。

・海邦智子「誰何」。主人公は三等陸曹になったばかりの青年<俺>という同人雑誌では珍しい自衛隊員の話。家族の縁の薄い環境で育ち、一度死にかけた体験があるせいか、俺はこの世には居ないはずの人間の姿を時折見る。一人は若い女のマドカ、もう一人は般若心経を唱える婆さん、そして恩のある大将と仇名されるおっさん。友だちは、死にかけたことがあるので、そんな奇妙なものを見るのだ、というが・・そんな話を主人公の俺の自衛隊生活をバックに語られる10数枚は、登場人物の魅力とともに優れた掌小説に出来上がっている。

・須崎隆志「花宴のため息」は、花見の席で隣り合わせになった見知らぬ二人の男のそこに至った人生模様を達者に描いているベテランの10数枚の掌小説。昭和二桁生まれの作者だが、今も精力的に新人賞に挑戦している優れた意志の持ち主。

・木宮節子「婚姻届」は、突然入院した男を見舞いに行くと、ベッドの上からプロポーズされ、婚姻届に署名捺印せよと迫られる。まんざら嫌いでもない相手だったので・・・という女の微妙に揺れる心理を描いた20数枚は話はできているにしても、描写がやや平凡なのが気になった。

・曽根すみれ「銀杏」は、長い出張から父が帰ってくるので、父の好きな銀杏飯を炊く母・・・というような家庭のことを少女の目線から描写する。地味な作品の数枚の掌作品なのだが、起承転結味がある。

・鍋岡至「増毛まで」は、札幌から増毛に住む婆さんに会いに行く男の行動・・という話だが、テーマが見えない。旅行記でもなく・・という10数枚の作品は一考を要するだろう。

・さわだなおこ「至福の一杯」は、毎週水曜日の休みの日に三時間ほど過ごす喫茶店の模様を中心に主人公の日常をさわやかに描いた筆筋に好感した。

・小南武朗「多岐亡羊」は、古希を迎えた作者の読書ノートの公開・・身のめぐりを描写する筆筋が堅物の私小説的に演出されているのが妙味である。


    郵便ー006-0034  ・札幌市手稲区稲穂4-4-18  田中和夫方

                   電話ー011-681-5480

 

「海峡派」135号 清水啓介「居る」の詩作品に観る存在の意味・・はたけいすけの連載小説「あしたは 晴れているか」は先行き楽しみな練れた文章

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 6月13日(月)23時19分48秒
返信・引用 編集済
  ・清水啓介「居る」・・ふと自分が「居る」ことに、気が付いてしまったのだ・・こんな書き出しから始まる散文の実存的エスプリ詩作品。・・自分は、一番手近な扉のノブをつかみ、回して、引いた。//呆気にとられた顔の女性が一人、ドアの開いた厳寒の内側に立って、つぶやいている。/「変ねえ?何でドアが勝手に開いたのかしら?誰も、居ないじゃない。それとも、誰か、居た、のかしら?」・・・

・上の清水の作品は、コント風のドラマを語りながら、人間の存在のあり方を問いかけたコミック批評詩として成立する作品。前号の作品から継続するドラマを盛り上げているところが愉快。

・はたけいすけの連載小説「あしたは 晴れている」は、支那事変のころの大阪を背景にした少年正太と紡績工場で働く十六歳の少女ヌイとの淡い心の交流・・・という場面。先行きが楽しみな練れた作品である。
 

「海峡派」134号(北九州市) 清水啓介「バナナ」エスプリの効いた現代詩

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 6月13日(月)13時34分54秒
返信・引用 編集済
  ・短歌、俳句もそうだが、現代詩の描写の方法は一つではない。その方法を区別するのは、一言で言えば当然ながら文体の差異によるものである。そのことをよく知っている者は実作者以外にはいない。それは小説の解析でも同様に言えることだろう。野球の解説でも、投手経験者と打者経験者の解説では大きな差異があるように、実作現場にない者が解説できるのは、作品の傾向と作者の事跡を探査した研究に根ざした作者の振る舞いについてのみに限定されるものだ。それはともかく、作品の鑑賞に入る。

・今号の「海峡派」は散文はやや低調だが、詩作品に良いのがあった。差異や上手下手は別にして、観賞してみたい。

・山口淑枝「柿の花」 桃栗三年柿八年/ここ貫に居を構えて/裏庭にすぐさま植えた・・・こんなイントロで作者の日常が描写された後・・・消毒などこまめにやってきたが/それももうきつくなった//足腰がめっきり弱り/すぐには立ち上がれない/近頃はランホーだ・・・こんな作者の体調と日常の生活動作を描写する。

・横山令子「ニオイバンマツリ」 皮革に似た葉が繁ると/小さな花びら・・・こんなイントロで始まり、題名の植物の独特の香りに酔う作者・・終章は・・ 別名 イエスタデーと呼ばれる/南米産の低木/一年に一瞬/おんなの盛り 立ち上がる ・・・老女にしてなお花失せない気持を秘かに主張するのである。

・清水啓介「バナナ」  朝、起きてリビングに行くと、毎朝そこで新聞を見ている筈の夫の姿が無かった・・こんな書き出しの散文詩・・というよりも、ちょっとしたショート・ショートづくり。・・夫がいないかわりにテーブルにバナナ一本と手紙が置かれていた。その手紙には「このバナナは自分だ。どう処分しようが君の自由だ。人間としての啓介はもう現れない。さようなら」と書いてある。それを読んだ妻の葉子は「今度はこんな手できたか。あの人らしい。いつも逃げることばかり考えている」と嘆く・・エスプリの効いた見事な現代詩である。

 

「群系」36号② 相川良彦「昨今の私小説見直し論議へのコメント」は何を言いたかったのか・・・文学論のあり方への不満を切々と述べる内容

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 6月12日(日)06時21分51秒
返信・引用 編集済
  ・相川良彦「昨今の私小説見直し論議へのコメント」は、文学的な方法論を哲学的なあるいは数学的用語を用いた証明論述で「群系」35号掲載の草原克芳の「地下室人」の文学論を解析、批判している50枚の力作内容である。つまり、「好評のようだが、オリジナリティーがない」と結論する内容。だが、巧妙にも一方では、「比喩の的確さ、歯切れの良さで論述の技法に優れてはいるが」と官僚的教育用語で救いの言葉を忘れない、という論旨。

・つまり、相川氏は、「文学論と言えども、哲学や数学の世界と同様に精緻に論を積み重ねて証明するべきもの」であって、感情的、情緒的に分析、証明する粗雑さは<文学論>の体裁をなしていないと言いたいのだろう。もちろん、枝葉では草原論文や永野論文を評価してはいるものの、「論旨を詰めていない詰めの甘い文学論」と結論している姿勢で一貫していることが読み取れる。

・だが、と私は思わざるを得ない。文学作品は哲学や数学の論法の枠の外にある生きた人間の振る舞いの舞台であって、本来情緒的で行動も心理も不確実な人間の存在を相手にするもので、数学的、哲学的な論法の物差しでは規定できない<不確定ゆらぎ理論>の範疇にあるものだという認識が私にはあって、相川論法のように、堅苦しい杓子定規の哲学的、数学的物差しで計る類のものではない、という意見に組する。

・そもそも、文学の世界の用語は、哲学や数学の世界の用語と異なる色合いを持ったものであって、詩論ても小説論でも、哲学用語や数学用語で表現されるものではない。文学論は、文学の世界に普遍的な用語で語られるものでなくてはならないものであろう。哲学の世界では哲学用語はけっこうなことだし、数学の世界では数学用語結構なことだろうが、文学論は文学の世界で通じる用語を主体にして語られるべきものであろう。

・事実、この相川論文の言葉は、一貫して鉄骨組みのビルの建築物のような哲学用語または官僚の世界で定着してきた公文書用語で語られているもので、文学論の言葉遣いとしては文学的香りには縁遠い魅力に欠けた用語の多用で成り立っていることは否めない。

・とは言え、この相川論文は、文学論のあり方について、「論を詰めよ」と警鐘を鳴らしているものであることには違いはない。結局、相川論文は「文学論は精緻に詰めなければダメだ」と一言言いたかったために延々と語った内容なのだろう。私流に言えば、論に溺れた論の展開の緻密さはあったが、文学的香りに乏しい官僚的用語に終始したものであったと言うほかはない。しかし、緻密な分析、探査であることにはかわりがない力作文芸評論。私の感想は、そう認めた上での無いものねだりなのだが、このような高いレベルになると、褒めてばかりでは面白くないわけで、あえて注文を述べさせていただいたわけである。初歩的な感想程度の文芸評論には、私はこのような注文は言わない。

・注文をもう少し厳しく語ると、多くを語りすぎると結局は何も語らないことと同じだということだろう。小説でもそうだが、緻密な描写が延々つづくと読み飽きるもの。学術論文と文芸論文の違いを心得ていたのは、小林秀雄だった。平野謙の文学論は緻密だったが、小林秀雄ほどの魅力がなかった事例は象徴的である。

  ・論をつめよ論をつめよと言はれしが論をつめれば回りくどくなる  石塚邦男
 

レンタル掲示板
/86