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贈呈されてきた単行本・同人雑誌がたまってきた

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 9月24日(土)03時33分45秒
返信・引用 編集済
  ・またも贈呈されてきた単行本・同人雑誌が手元に十数冊たまってます。
明日。明後日に旭川の「ときわ短歌」15周年記念大会を終えてのち、読破して「関東」掲示板に書評を書き込みます。旅行には数冊持参して列車の中で読破するつもりです。
いい作品に出会うと、旅行も楽しくなりますね。

・「人間像」「ザイン」「「海峡派」「文芸きなり」「中部ペン」「小樽詩話会」「海」「季刊午前」「弦」「じゅん文学」「法螺」「遠近」「山音文学」「コブタン」そのほか新刊本、詩集、歌集・・・20冊近くたまってしまったか・・・。

  ・気がつけば山積みとなる新刊本・同人雑誌読まねばならぬ   石塚 邦男


・雑誌送付は、以下に
      住所ー053-0011 苫小牧市末広町1-12-1-920  石塚方 根保 孝栄
 
 

「私人」(東京都)87、88、89号  根場至「119番」書けている老夫婦の心情、時代の色合いが出た櫻井邦雄「ロックの時代」 

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 9月18日(日)04時38分26秒
返信・引用 編集済
  ・「私人」という同人誌は会員も増えて、いつの間にか季刊発行になっている。指導者の尾高修也氏の指導がいいのと会員の意欲的な取り組みによるものだろう。

・87号では轟五郎「とあるデートレーダーの一日」が珍しい定年退職者の株式にどっぷりの生活ぶりを詳細に赤裸々に描いているところが今風で時代の一つの風俗的風景として印象に残った。特別小説として成功しているとは思えないが、時代を感じさせる批評的作品としても読めて愉快だった。

・88号では、えひらかんじ「ロシアンヒルの記憶」が印象に残っている。高校を中退してシスコに渡り、底辺の生活を体験する少年の話。

・さて89号だが、根場至「119番」は、自分もおぼつかないのに、ボケが進む妻を見守る生活・・という話は現代の世相を反映し、よくある話ながら、老夫婦の痛々しい心情が出ている。

・えひらかんじ「ビッグ・サー」は、留学生としてシスコのロシアンヒルの高台で生活していた頃の1958年、身元引受人のベルキュー氏とその娘さんとの交流の話を中心に、シスコの南にある「ビッグ・サー」という場所に行った時の思い出。人生は自力で切り拓くものと受け止めて懸命に生きるビッグ・サーの住民・・アメリカの実態に触れた体験であるが、味がある。

・松本佐保子「うまくやったわね」は、夫とマンション住まいをしている麻里子はおじの家が気に入っていて、遊びに行くごとにその家が自分のものになればいいな、なんて夢想している。おじの息子は医者で独身。どこかで知り合った超美人と付き合っているらしいが、30過ぎの年上でさして名のない専門学校出だという。おじもそれがやや気になっているらしい。だが麻里子は、美人で仕事ができるその女性が家に入ると自分は太刀打ちできなくなって自由に出入りしていた静かな生活が乱されるのではないかと不安に思い始めた。そして・・珍しい話ではないが女性の作者らしい自然な着想ながら、女心が出ている。

・佐倉六月「クラブ・マノン」は、公然の秘密になっている国際線の飛行機の高級乗客を相手に娼婦業をする女たちの秘密組織。クラブ員の寺澤知奈美は、客の指名を受けて相手をする仕事をしているが年下の恋人はいる。そんな女の内幕的な生活・・・という話。

・櫻井邦雄「ロックの時代」は、県立の進学高校に入ったはいいが、家族は転勤で自分だけが寮生活を始めることになった。その寮というのが、太平洋戦争で焼け残った時代物。安カーテンで仕切られた二人部屋生活。ところが、二年になって寮は廃止となることが決まり・・という話。時代は70年安保時代が終わり・・という頃、今度は下宿生活を始めた主人公・・。時代の雰囲気がよく書けている。

・池坂英子「小さな日常」は、「女はともかく男は下心なくして女とは会わない・・」という哲学や「毒入りの据え膳を食った男」の話などが出てくる別れた別れないという女性らしい視点の作品なのだが、ここを突き抜けた人生訓や文学性があれば、もっと高度に出来上がったろう。惜しい作品。

・以上のような作品が並ぶが、いずれの作品も事柄は器用に書けていて文章力もあるのだが、今ひとつ文学精神とは何かという基本的な姿勢が希薄なのが寂しい。文学性とは何か・・尾高氏の訓育に期待したい。

   ・発行人住所364-0035 埼玉県北本市本市高尾4-133 森由利子方  電話048-591-3940

  ・発行所住所163-0204 冬季用と新宿区西新宿2-6-1 新宿住友ビル 朝日カルチャーセンター
 

「海」16号(大宰府市)③ 事件の次第を克明に再現する客観描写が新鮮な中野薫「機縁因縁」、 高岡啓次郎の長編「月光の影」は松本清張ばり流行作家の盗作・贋作問題に斬り込んだドラマチックな連載物に注目

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 9月16日(金)19時32分57秒
返信・引用 編集済
  ・中野薫「機縁因縁」は、無理心中に見せかけて男女二人を殺したあと、車にガソリンをまいて燃やした犯人・・。新聞記事を参考に逃げる男女の実行犯の男と共犯の女の足取り、それを追う警察、逮捕、裁判、そして判決までの経緯を微細につぶさに70数枚にまとめた手腕は高く評価される。何よりも、検察調書の再現のように冷静な客観描写に徹した筆筋の書き方がユニークで感心した。新しい小説の方法とも言えるだろう。この雑誌ではまた一人注目の作家発見である。

・高岡啓次郎「月光の影」は連載第2回。生物学者で流行作家となった結城慎一郎の作品に不審を抱いた元新聞記者の斉田四郎。結城の作品の文体がここ数年突如大きく変化したことに疑惑をつのらせ、ゴーストライターがいるのではないかと調べ始める。浮かび上がったのが無名の酪農青年・・・。その追跡探査で浮上して来た人間関係とその模様・・という複雑でドラマチックな長編である。さて、どのような形でエンディングを迎えるのか・・・松本清張ばりの人間模様も、もうひとつの読みどころだろう。この人も最近ノリノリで書き込んでいる作家。20代の若い頃は詩を書いていた人物だが、小説は50代で書き始めた作家とは思われない豊かな才能開花である。あちらこちらの小説部門の賞をとっており、まるで流行作家並みの筆力には驚かされる。
 

同人雑誌というアナログ世界②

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 9月11日(日)21時18分56秒
返信・引用 編集済
  ・純文学系統の月刊文芸雑誌は、3000、4000しか売れないようだ。月によっては2000部台ということもあるようだ。同人雑誌とかかわりを持ち始めの方々の参考になるかと思い私の同人雑誌との付き合いをこの場で披露してみよう。

・今現在、北海道で一番の部数を誇ってきた「札幌文学」に所属しているが、印刷部数は500。道内の公立図書館40館に贈呈送付しているので、どこの都市でも「札幌文学」は手に取ることができる。もちろん主な文学館には贈呈しているほか、交流ある同人誌50誌と交流し送付している。その贈呈部数は200部。残る300が書き手や会員に回ってくる。本誌に書くと最低20部は無償でくれるシステム。だから、ページ2・5枚で2500円の負担も安いといえば安い。

・他の同人誌グループはどうやっているのかは知らない。私の所属している「コブタン」というもうひとつの北海道の同人誌は200部印刷で、特別安く印刷してくれるところに依頼し、年2回発刊ごとに執筆者が経費をページ割り負担する。100枚ものの負担は5万5000円ほどになるが、受け取る冊数は70冊ほどもある。付き合いの多い私には大変ありがたい。5万5000円負担で70冊手にすることができるのは魅力だ。

・札幌の刑務所で印刷している「人間像」という北海道最古の同人誌にも入っているが、ここは年会費2万5千円。年2回発刊で原稿30枚までは負担ゼロだが、それ以上の枚数ではベージ2・5枚で1000円負担となっている。100枚ものを書くと4万円の負担。ただし、発刊ごとに2冊くれるものの、後は一冊1000円で買い取らなくてはならない。20冊欲しいなら2万円の負担になる。3〇冊ならプラス3万円だ。

・私は同人雑誌を名刺代わりに贈呈するので、最低50冊はほしいのである。そういう計算で同人誌に参加している。単行本を一冊200部出すと北海道価格でも最低5、60万かかる。名刺代わりなら、同人雑誌の方が不特定多数に読まれる。なぜなら数人以上の書き手と雑誌の上で同席しているから、ついでに読まれることが多い。ただし、単行本にくらべて粗末に扱われることも覚悟の上ではある。

・各月刊の短歌誌「ときわ短歌」には選者の一人になっているが、年間会費は8400円。ここで2ページものの評論2本と選者評を毎号書いているが、選者の特権でこれは無料でありがたい。

・年1回発刊の「苫小牧市民文芸」に地元との付き合いで今年10年ぶりに50枚の創作を書いた。負担金は1万円。編集も手伝うことにしているので、3冊は無料で支給されるが、ほかに欲しければ一冊1000円で買い取らなくてはならない。胆振支庁の肝いりで「文化団体協議会」なるものがあって、年1回「いぶり文芸」が発刊されているが、そこにも10年ぶりに小説50枚を出した。負担金は一冊1,300円の雑誌を一冊以上買えばその他の投稿料はかからないシステム。私は5冊買うことにして作品を出した。

・「苫小牧市民文芸」は文化団体が編集作業をし、市が印刷費を負担する。「いぶり文芸」も、文学振興策として官費プラス投稿者負担の雑誌づくりになっていて、編集は各市町回り持ちである。北海道は文化果つる地域だから、官費で振興しようと40年前発足した。3号に初めて作品を書き、折に触れ付き合い作品を出してきた。作品をためたい者にはありがたい場であろう。そんなこんなで、同人雑誌・文学活動に交通費、交流費こみで年間約50万円は支出していることになる。居酒屋でオダをあげていても、そのくらいは出費するのだから、交際費と見れば安いと言えば安いということか・・。
 

「季刊 午前」五三号(福岡市)① 西田宣子ー「リュックサック」の情感、着想が期待される古木信子「御船手物語」

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 9月11日(日)18時46分2秒
返信・引用 編集済
  ・西田宣子「リュックサック」は、子を持たない頼子と弘道の夫婦。夫の弘道が古希を迎えて仕事をやめ市民農園の土地を借りて畑仕事に生きがいを見出そうとする夫を見守る頼子は、父母を見送って何年、頼るものも居ない今、夫婦二人が漂流しているような孤独感を覚えている。そんな頼子のところに、五十五年ぶりの中学校時代の同窓会が持たれることになった。進学問題で揺れた友だち関係、紆余曲折があった互いの人生・・・そんな旧友との心の軋轢・・。そんなところを描いたこの小説は、とりたてて珍しいものではないが、人生の影絵のような部分を拾い取った情感が読者の心にさざ波を呼ぶ。

・広橋英子「閃光」は、すでに亡くなっている僕が、思い出のある<君>の現実の世界に滑り込もうと隙を狙ってさ迷っている15枚ほどの話なのだが、イントロの仕掛けが現実の主人公の目線から緻密な学園の風景描写があるところが成功しているだろう。どんでん返しで仕掛けの大要が明かされるという趣向は、オー・ヘンリー的で小説技巧としてはあっていいだろう。感覚的に鋭いものを持っている作者だ。まっとうに取り組んだ長いものを読んでみたい気がする。

・もとむら和彦「あすならず」は、公立の幼稚園入園が難しかった60年代、徹夜して受付の行列に並ぶ父兄・・その矛盾を取り上げて訴えていくことになるが、騒動の波紋が広がって・・・という社会派的内容の着眼はいい。ただ、イントロの時代描写が説明的な演説になっているのはいただけない。ここは、話の筋が進行していく中でさりげなく説明するのが小説づくりというものである。

・古木信子「御船手物語ー惣吉の恋」は、主人を見送った主人公の<私>。古文書の勉強をしている私のところに古記録の解読の仕事が持ち込まれた・・・。そういうイントロから、旧い江戸時代の日誌・惣吉の記録の内容を紹介する・・・という小説である。河川港を経済の源にしていた川尻町は肥後五カ町のひとつとして賑わっていた頃の話である。その川尻で生まれた主人公の母・・それだけに関心があった・・という個人的な縁とミックスした話。書き様によっては、秀作に仕上がりそうな素材であるが、この作品はその前段のスケッチ的作品の位置づけか。この素材は大事にしてほしい。

 

「海」16号(大宰府市)② 言葉はハンドルさばき・・・日本語の文学作品の英語訳、英語の文学作品の日本語訳の比較・・興味ある指摘のエッセイ

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 9月10日(土)11時16分12秒
返信・引用 編集済
  ・牧草泉「三冊のロング・グッドバイを読む」は、松原元著の感想である。この本は作家の村上春樹の訳本と映画字幕の翻訳で有名な清水俊二の訳本を比較して原文との対比を行っているもの。これを反面教師にして翻訳の比較対照と課題を考えているところが面白いエッセイ。

・日本文学の傑作のひとつである川端康成の有名な「雪国」の翻訳、さらに「源氏物語」のサンデンステッカーの英語訳とアーサー・ウェイリーの英語訳の違いの比較など、そのさわりを紹介しながら、違いを比較する面白さに言及しているところが愉快だった。

・サンデンステッカーの「雪国」冒頭訳では「The earth lay white under the night sky」となっているのに対して、英国人のジェームス・カーカップは「The bottom of the night became  white」がベストだといっていることを紹介し、日本語の英語訳、英語原本の日本語訳の個性と特徴について論じているところが興味深いものだった。

・特に、時代時代によって、日本人の日本語の感覚はかなりの違いがあるもので、例えばドストエフスキーの翻訳などは、昔の翻訳本の全集の日本語は、すでに古臭くて、若い世代には敬遠される・・ということが現実にあり、牧草氏が指摘するように翻訳は、二、三十年に一度は新しい訳者によってなされるとが望ましいだろう。

・ちなみに川端康成の「雪国」の冒頭英語訳については、私はアーサー・ウェイリー訳に軍配を上げたい。理由は「夜の底」という康成の感受性は、新感覚派としての真骨頂である詩的な捉え方でであり、康成の美意識を理解した上での忠実な英語訳だと思うからである。これについては、また人によって好みもあって侃侃諤諤の論議になろう。それがまた面白いものであろう。

・以下に詩作品について触れたい。

・群青「ひとりの、物の生産の、終わるとき」は、百数十行という長編詩。しがないサラリーマンの男のシニカルなニヒリズムのつぶやき・・といった内容で、なかなか詩語の拾い方に手馴れた書き手。しかし、注文を言えば、長い割にはイメージのドラマに乏しく、社会批評の目線も甘いそしりは免れないだろう。三分の一くらいに圧縮して密度の濃い詩語を構築できなかったか。あるいは、二編か三編にわけて色違いの作品を作れなかったかという感想を持ったのだが、どうか。

・長編詩は相当の厚みのイメージや豊富な詩語を駆使しない限り息切れするもの。イメージとドラマの総量に応じて長さが決まるものである。そこに言葉を紡ぐ作者の読みの甘さがなかったか。アクセルだけはふんだんに踏んでいるものの、言葉のブレーキ、ニュートラルへの切り替えなどハンドルさばきに課題を残す作品になったのは惜しまれる。

・詩に限らず文章というものは、間の取り方、アクセルのふかし方、ブレーキの踏み込みなどハンドルさばきが大事で、やみくもにアクセルだけをふかし先へ進むだけでは成り立たないものだ。とは言え、この作品は水準作であることは言うまでもないのだが・・。それを認めた上での注文であった。以下に最終連紹介。

  さすればまいりましょう 御同輩
  総羆業の いちだいじへと
  海風にのって ざわざわとこえのする
  坂のうえの せいさんするものたちの高みへと
  すべての決着の場所へと
  まいりましょう

・笹原由理は「恐れ」「痛み」の二編。題名と作品内容が響きあい、短詩の思いが圧縮した密度ある言葉の間の取り方、アクセル、ブレーキの踏み方が楽曲になっていた。注文を言えば「痛み」の最終連の収め方が、やや平板だったか。一工夫を。

   「恐れ」           「痛み」

   騒つく波に         「嫌い」と言っても
                 離れない

   足を すくわれながら    溜息を吹き掛けても
                 微笑み返すだけ
   くり返し
   くり返し          指先だけ繋いで
                 生きていこう

                 この呼吸が
                 止まる時まで










 

「星灯」3号②(東京都調布市) ドラマチックな面白さは小森陽一「私を漱石研究者に転換させた(こころ)」

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 9月 9日(金)07時11分33秒
返信・引用 編集済
  ・夏目漱石没後100年特集として銘打っているが、中でも小森陽一「私を漱石研究者に転換させた<こころ>」が出色の面白さだった。大江健三郎の「水死」にはウナイコという女優が出てくるが、ウナイコとは、漱石の「草枕」に兎原処女(うないおとめ)が出てくることを紹介するところから始まる。彼女は二人の男に惚れられて、どちらも選べず入水自殺する伝説の女性・・。「草枕」の絵描きはミレーのオフェリアのような絵を描こうとするのだが、那美さんも水死すると想像する。しかし、那美さんはその伝承を笑い飛ばして「つまらない」と絵描きに言う・・絵描きが露天風呂に入って長恨歌の「水滑らかにして凝脂を洗う」の楊貴妃と玄宗皇帝のいわれを想像して居ると、那美さんが裸になって温泉に入って来るのだが、「オホホ」と嗤って出て行く・・という楊貴妃伝承の逆を行く行動・・というような比喩的場面の漱石の凄さを紹介、日露戦争で那美さんの弟が戦地に行くのを見送りながら「戦争は個性を潰す」と書く漱石の凄さを紹介、「草枕」がイプセンが亡くなった年に発表された意味を考えて行く・・・。漱石を読む目線と着想がすばらしい。単に作品を読み込むのではなく、時代の中の作品、漱石の着想の根源などを探査して行く思考の道筋が並みではない。

・この小森という評論家が只者ではないことが判るのである。そして、高校時代に「こころ」を読んで、漱石は若い人物に託して何を言いたかったのかとあれこれ深読みしていると、国語の教師から「小説に書いてないことは考えなくていいんだよ」と言われて反論できなかったことが、漱石研究者になったきっかけだった、と語る含蓄深い話には感じ入った。また、漱石は若い頃、徴兵を逃れるために北海道の岩内に籍を移したことがある背景など、漱石の明治の精神と作者の戦後の精神との比較対照など含蓄ある分析を平易に語っている筆筋はドラマチックであった。

・神村和美「教室で読む文学ー漱石の(こころ)(坊っちゃん)」、佐藤三郎「夏目漱石の鼻毛と(吾輩)」もなかなか含蓄ある切り込みの着眼。
 

「相模文芸」32号①(相模原市) 堀木東子の力作連載「寧楽の皇女」に注目、宴堂紗也「姫、峠越え」、中村浩巳「お姫畑幻譚」の時代小説も読ませた

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 9月 8日(木)22時48分46秒
返信・引用 編集済
  ・どういう風の吹き回しなのか、今号にはユニークな時代・歴史関係の小説が目立った。

・宴堂紗也「姫、峠越え」は、時代は天正10年(1582年)の春、武蔵国の案下城の改築が終わった頃、新陰流の使い手佐太郎は、武田信玄の六女松姫と幼い姫三人が織田信忠の追手を逃れて武蔵国に来たことを知って惚れて・・・という話。その佐太郎を慕うお銀という人物設定。少々旧い筆筋ながら、講談調の会話体もなかなかの魅力になっている手馴れた作品。70枚ほどの力作ではあった。

・中村浩巳「お姫畑幻譚」は、ある時代に美しい姫がさすらいの果てにこの地にたどりつき余生を送った。それを祀った場所が今も残っている」という伝説を、講談調の小話に再現したものなのだが、手馴れた筆筋で読ませた。

・堀木東子「寧楽の皇女」は連載二回目で100枚の力作。なかなかの書き手。聖武天皇の御世、内親王の位を剥がされた不破は荒れ果て草生した平城京の右京に住んでいる・・。天平十六年(744)の正月、不破は弟宮の安積親王が不審にも身罷ったことを知らされる・・。母の広刀自と姉の井上内親王などをからませて皇女のやるせない生活をつづる筆筋は読ませる。特に宮廷のしきたりや当時の女宮の宿命的な生き方などが詳細に描写されているところが買える力作。藤原仲麻呂の乱や大仏建立の次第など時代背景も大舞台で、連載の帰結が待たれる。

     ・神奈川県相模原市中央区富士見3-13-3 竹内健方

            電話ー090-8460-2098
 

詩の心を識る作家・井本元義さんのお手紙を紹介

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 9月 5日(月)14時32分48秒
返信・引用 編集済
  ・しばらく個人的な雑事に追われて、読み残しの雑誌が10数冊手元に貯まってしまった。これからエンジンをふかして走り始めたい。その前にひとつ紹介したいものがある。それを以下に・・・。

・この場で個人的な手紙を紹介していいのかどうか迷ったのですが、たぐい稀な詩心を所有して佳作、秀作を書いている作家の精神にいたく心を動かされている個人的な感動から、多くの書き手にも参考になるのではないかと、無断ながらここに紹介することにした。

・拝啓
・・(前略)・・25歳で中小企業の為に筆を休止し、40年後に再び少しずつ書き始めました。それでもう70歳を越えましたので、残り少なくやや焦って書いております。また源泉も枯れつつあるときに、ご指導いただけて光栄でまた次への挑戦に向かえます。
詩は20歳でやめて60歳でまた始めました。
現在は、雑誌は「海」「季刊午前」「詩と真実」「胡壺」に参加し、なるべく自分にプレッシャーをかけて怠けるのを戒めています。
今年中に、小説3編を「季刊午前」「海」「胡壺」に、詩を毎月「詩と真実」にと決めています。ただいい加減にペンが流れないようには気をつけています。
毎日、沢山の本雑誌に目を通されて大変お忙しそうですが、全国の若者「老青年も」掲示板を楽しみにしていますのでこれからも長く続けてください。昨年は長くお休みになっておられたので心配しておりました。
随分前に九州博多に来られたとの事で、思い出も持っておられて嬉しく思います。ぜひ機会がありましたらお出でください。同人どもでお迎えします。いい酒と楽しい話を楽しみにしています
敬具
        根保先生         井本元義


・私は、井本さんのような達人の方に「先生」などと言われるほどの者ではないことをお断りして、井本さんのことを少々紹介したい。井本さんは福岡市在住、青年時代に文学に目覚めたが、一身上の都合により止む無く休筆・・40年後時間ができて再び書き始めた作家である。原稿用紙一枚を読めば、作品に詩の魂があるかないかが判別できるものだが、井本さんの作品には、一読それがあった。今時数少ない練れた才筆である。やはり青年期に発酵していた詩心が長い時間をくぐりぬけて醸成され、今40年経ってまろやかな香りを放って開花しようとしている詩心である。

・文学の心、詩の心というものは、ウイスキーの醸成のようなもので、発酵してまろやかな味に仕上がって行くもののようだ。その発酵、醸成の微妙が文学の味、文章の味というもので、この井本さんの作品には、それが見て取れて初めて読んだときに、思わず唸ってしまったものであった。旧い新しいを超えた詩の心、文学の心を持たれた作家であるので、あえてこの場で私信を紹介したことであった。

 

スマップの解散劇は同人雑誌の解散劇にも似ている

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 8月26日(金)20時11分35秒
返信・引用
  ・スマップの解散劇のドラマをちらり見ていて感じたのは、昔、同人誌にもこんな分裂騒ぎがあったことを思い出した。同人の数が増えていさえすれば、作品の質は問わないという編集方針に対して、雑魚は入れるな。良い書き手だけを集めろ、という編集方針の違いでごたごたすることが多い。

・スマップの場合は、こんな同人誌のごたごたとは別のエリート集団の意見の食い違いだが、集団となれば色々な意見の差異はでてくるものだ。
 

俵万智「サラダ記念日」三十年・・・短歌の革命女子のその後

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 8月24日(水)07時05分8秒
返信・引用 編集済
  ・俵万智「サラダ記念日」が世を騒がせて三十年経つ。この歌集、200万部売れる大ベストセラーになった。現代短歌を革命的に変えた彼女は、現在読売歌壇の選者として活躍している。沖縄に住んで二人の男の子の子育てを終えてから、現在宮崎県に住んでいる。宮崎県はご承知のように天皇家発祥の地、つまり日本の神代の伝説発祥の地である。変なお笑い芸人の知事が誕生した県というのも現代の皮肉だが、ま、日本の神代の世界もお笑いに汚されているところなんかを嘆くほど私の頭は旧くはないが、それにしても・・・と嘆息のひとつくらいは出る。

・吉本隆明は俵万智の作品について、かつて「この人は、本当に自分は特別な人だと思っていない。どう読んでも、そうとしか思えない」と言った。特集の中で俵万智と対談した歌人の伊藤一彦も言っているように、俵万智は普通の人だが、普通の人の気持を表現する能力が普通じゃないのだ。一読、俵万智短歌は誰にでも書けそうだ、と素人は思える作風。ところがどっこい。俵万智風の口語短歌は、書こうとしても書けないのが<普通の人の心>なのだ。ちなみに、詩を書いている<普通の詩人>が俵万智流の口語短歌を一度試みてみると分かるだろう。意外にも言葉は自由に書けないものだ。

・話は少し横道になるが、吉本隆明は若い頃「詩人の看板を上げている俺が、短歌ぐらい判らなくてどうする」とうそぶいて、有名歌人の若手として名のあった岡井隆と延々論争したことがある。これにちなんで私も一言言えば、日本語で詩を書いている詩人も詩人の看板を掲げているなら、短歌、俳句も手遊びでいいから日頃親しんでおいてほしいものだ、と言いたい。神代の時代から日本に誕生していた詩である歌を日本人なら日頃書かないで何が日本語の詩だ、と私は腹の中では思っている。この話をするとくどくなるのでこの辺で切り上げる。

・俵万智短歌には全肯定の歌ばかりで、否定の言葉がない・・・と言われた。文学は否定精神がなくては文学作品にならないのが普通なのだが、俵万智短歌にはそれがまったくない。

・「この味はいいね」と君が言ったから7月6日はサラダ記念日

・「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの

・こうした作品の背景には短編小説一作の世界のドラマが感じとられる。見事というしかない。一読、だれにでも書けそうな作品に見えるが、そうではない。書いてみれば分かる。「嫁さんになれよ」が「妻になれよ」じゃダメなのだ。今時の単なる文芸評論家には、その違いが見えないのだ。

・我という三百六十五面体ぶんぶん分裂して飛んでゆけ

・「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のあたたかさ

・バンザイの姿勢で眠りいる吾子よ そうだバンザイ生まれてバンザイ

・いつ見ても三つ並んで売られおる風呂屋の壁の「耳かきセット」

・以上のような物事を良い方に良い方に解釈して表現するおおらかさ、そして誰もが見ていて気づかない面白さを活写する観察眼と生活感覚の凄さ・・・それが俵万智短歌だ。それが今時の小説にも詩作品にもあってほしい。

  ・三十年たつても魅力失はない俵万智の心のメカニズム   石塚 邦男
 

「群系」36号④ 柿崎一「士道無残 上」島原の乱に翻弄される武士を描いた歴史小説 問題作だが・・

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 8月20日(土)06時28分40秒
返信・引用 編集済
  ・柿崎一「士道無残上」は、肥前島原の領民が領主の過酷な年貢取立てに抗議して蜂起した「島原の乱」に翻弄される隣接藩である唐津藩の武士たちの右往左往とその対応を活写する内容で前編40数枚。島原城主や幕府の対応の概略まで書き込まないと、話の内容が読者に浸透しないため、枝葉の話に比重をとられて、肝心の唐津藩の詳しい動きまでなかなか筆が届いていかないもどかしさがあるにしても、徳川幕府草創の時期、諸藩の小さなミスを取り上げて廃藩に追い込まれる外様大名が多かった時期、諸藩は苦渋の選択を迫られながら、大事件に対応する色合いは出ている時代・歴史小説ではあった。

・本来なら、じっくり取り組めば最低200枚ほどにはなるところを、上下で終わるなら恐らく100枚前後でまとめるつもりなのだろうが、短編では場面、場面を書き込む余裕が無く、ほとんど経過説明の文体で話を進めているところに、やや小説としての面白さに欠ける欠点は覆うべくも無い。だが、事件の詳細、幕府の対応、乱の首謀者の内情など、要領よく書き込んであるところは買える力作になりそうな予感はする。後編を期待したい。上、中、下とつづくなら150枚ほどになるのだろうか。どこを切り取りどこを書き込むかが、この種の作品の出来を左右するもの。

・「島原の乱」は、これまでも有名、無名の作家の別なく、何百編も書かれつくされた内容であるだけに、独特の作風にまとめるには、残っている資料の読み込みと史実の解釈や作者の世界観の差異によって、作品は色とりどりに脚色されるものだけに、連載の行方が楽しみである。
 

チャンドラー方式の書き方

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 8月19日(金)16時32分11秒
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  ・レイモンド・チャンドラーは言う。どんなに書きたくなくても、二時間毎日机に向かいなさい。そうすれば、いつからか想像力が飛躍して行く・・・。

・チャンドラーが座右の銘としていた言葉を、村上春樹も秘かに実行していた。春樹は、この方法をチャンドラー方式と名づけた。

・私もこの<チャンドラー方式>を実行して何十年になる。現役の新聞記者時代は望むと望まないとにかかわらず、毎日350数日、一日最低10枚の原稿を書いていたものだが、現役を退いてフリーになってからも、毎日何がしかの原稿をこうして書いていることを日課にしている。スポーツでも職人の仕事でもそうだが、数日何もしていないで、いざというとき勘が狂ってくる。やりすぎもマンネリ化していけないが、何もしないと書き方の勘が鈍ってくる。それはスポーツでも同じだ。

・だから、たいして金目にならない書きものでも毎日積み重ねることだろう。そうした行為の積み重ねの中から新鮮な感性が発想されてくるものだ。日記でも何でもいい。書くことの場を毎日確保することだろう。
 

吉田沙保里の号泣

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 8月19日(金)10時42分38秒
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  ・リオ五輪のレスリング女子53㌔級で、絶対女王として五輪四連覇を目指していた吉田沙保里が、決勝で敗れ、大号泣した姿は、大和なでしこのアスリートとしてみっともない醜態だった。負けたのは力不足と戦略ミスであったからで、日本の女子レスリング界は当然のこと世界の絶対女王で後輩にとっては神様的存在であったという自覚がなかったのか。

・その場では無念の涙を堪えて、勝利した相手を称えるのが大和なでしことしてのスポーツマンシップの女王のありかたであったはずだ。会場で取り乱した姿は見るに耐えなかった。日本人の女子は、いつから大和なでしことしての自覚と矜持をなくしてしまったのか。みっともない姿だ。同じ涙でも、卓球の愛ちゃんの涙とはわけが違う。絶対女王は、たとえ負けても、それにふさわしい振る舞いをしなくてはならないのだ。それを忘れた吉田沙保里は無様だ。

・文学者や作家の振る舞いも同じである。してはいけない書き方や言訳というのがある。創作でも評論でも使っていけない言葉や書き方がある。それをわきまえない文芸評論家や作家が最近目立つのは、時代が悪いからか。
 

「境」28号(東京都) 宮野孝「二つの日本論」の意味するもの

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 8月18日(木)00時16分28秒
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  「境」の編集後記に宮野孝が、日本の漫才の世界にあるボケとツッコミの文化について触れているのが面白かった。日本の漫才にあって、ほかにはない役割分担・・そのように受け止めて編集子は「世界共通ではない気がする」として日本独特の文化ではないか・・と見ているところが面白かった。ボケとは、話を別のレベルにズラシしていく、異次元にもっていくことだろうと分析する。そして、結論として「ただ、ボケが過剰になり、ズラシがズラシ過ぎになるのはよくない。ボケの過剰がこの国の話し方の基本スタイルになることはないだろうか」としているところは含蓄がある。米国では二人組みの喜劇俳優に、このボケとツッコミに似た役割分担で人気のあったコンビがいたが、日本の漫才の世界とはやや違うもののようだ。

・宮野孝「二つの日本論」は、外国の知識人が日本をどう見ているかを論ずるもので、例に挙げているのがサミエル・P・ハンチントンの有名な著書「文明の衝突」とカレル・ヴァン・ウオルフレンの著「日本/権力構造の謎」の二つ。ハンチントンの著書は現在でも日本ではあまりにも有名で、政治、経済学者が例証として取り上げているので一般にも知れ渡っているが、ウォルフレンについては、意外にもあまり知られていないようだ。宮野氏はこれを重点的に取り上げて、「日本の権力構造の解明を試みている点では示唆的だ」として詳しく紹介している。つまり、日本の権力構造のシステムは<責任を持たない>という特異な構造を持っている、と看破する点が彼の卓越した指摘であるとしている。そして、日本の文化はイデオロギーだとまで極言するウォルフレンの指摘は、日本の政治、経済のシステムと日本人の振る舞いが欧米人にどのように観られているか、を鋭く解明するものとして参考になる。こうした指摘は日本人同士には気づかない日本人社会の振る舞いであって、指摘されてなるほどと改めて日本と日本人を見つめ直す者も多いだろう。結論として、ウォルフレンの著書は、日本の近現代史を見直すよすがになるものだとしているところが新鮮である。

・益田恒彦「ハの風景⑧」は、日本語の用法の推移、つまり文法的に分析してどのような変遷と推移をたどって今にいたるのか・・の論考である。今号も五、六十枚の力作分析は価値ある内容である。

・岩谷征捷の「待つこと・忘れることーモーリス・ブランショに」と思わせぶりな題名の<私>と恋人が主人公の恋愛小説的心境告白的小説60数枚。内容が若書きの文章であることからして、若い頃に原型があって、それを発表したい衝動にかられて発表した、というような性格の作品であるようだ。連綿として<私>が彼女の思い出を綴る構成の文章・・・果たして作者は小説の新しい表現として何を意図して発表したのか・・・モーリス・ブランショの小説作法を引用しているところを見れば、実験小説的意味合いを込めているかのようにも読めるのだが。

・とは言え、作者とは色々な意図で作品を書き、発表するもので、創作はこうでなければならないという公式はないわけで、そう考えれば、この作品とて作者には思い入れがあっての発表だろう。一首献上。

  ・さ迷へばあの世とこの世の境界に佇ちてまたもや迷ふふたたび   石塚 邦男

   ・郵便 187-0032 東京都小平市小川町1-755-2-409  境文化研究所

        電話ー042-332-1160
 

ローマ帝国と幕藩政治の平和とリオ五輪のナショナリズム高揚を考える

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 8月12日(金)18時19分0秒
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  ・リオ五輪の日本人の活躍・・・ナショナリズムがメいっぱい爆発するときである。
このナショナリズムが単純に中国憎し韓国憎しへと流れることを怖れる。

・「文学界」の7月号に哲学者の柄谷行人のインタビュー「改憲を許さない日本人の無意識」が掲載されていた。ここで柄谷は徳川幕府は、天皇象徴性を守り、平和を列島に普遍化した政治体制として、もっと再認識すべきだ、というようなことを語っているが、ここは同感であった。

・徳川政治は幕藩体制によって日本国の平和を保持することを眼目にした点では、ローマ帝国の政治体制に似ている。これはアウグスチヌスが指摘したローマ帝国の「神の国」統治に似ているだろう。現実の世界がローマ帝国のように一元統治されたなら、庶民の平和は保たれるに違いない。ローマ帝国時代の庶民とは奴隷のことだが、もし奴隷同士に差別がないとするなら、庶民は平等ということになる。

・ギリシャ時代のポリス国家は、ポリス同士が争うことが多く、それは二十世紀の多国間同士の闘争と同じ弊害を生む。しかし、ローマ帝国時代は、ローマ一国支配の平和は保たれていたわけで、これは日本列島の幕藩政治による平和に比較できる安定したものだった。

・リオ五輪によって、世界各国のナショナリズムは高揚しているが、これは世界平和にとっては、考えものの行事かもしれないとも言えそうだ。
 

批評とは、マトリューシカ的に・・  ロシア文学の風土性は北海道に通じていて親近感があるが・・・一方で・・・

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 8月 1日(月)17時41分40秒
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  ・ロシア文学の魅力は何といってもその風土性にある。
北海道に住んでいると、ロシア文学の風土性がよく理解できるし、ロシア人の比喩や人生観も大いに理解できる。ただ、だらだらと長いのは、ややうんざりする面も。

・ロシア人の喩え話は、東北人や北海道人の喩え話に通じるものがある。
一例を挙げてみよう。

・「シベリアの真実は雪の中にあり、アメリカ人の真実は書物のなかにある」
これなんかは、帝政ロシア、共産主義ソ連邦のシベリア強制収容所の存在を茶化したものだが、北海道開拓も、囚人たちの労力によって切り拓かれてきたもので通じるものがある。

・「ロシアには二種類の人間がいる。飛行機で旅立つ者と棺桶で旅立つ者だ」
この諺めいた格言?もなかなか言いえて妙だ。北海道もかつてはそうであった。

・日本の東北名産のコケシをヒントにしたロシアの有名な人形「マトリューシカ」は、コケシ的人形の中にまたひとつ小さな人形があり、その人形の中にまた小さな人形があり、その人形の中に・・・という構造・・なかなか真実がつかめないのがロシア社会・・というわけだ。こいつは北海道人にはないが。

・庶民感覚では、心に真実を隠してないと生きていけないのがロシアだ、という意味では、この人形は象徴的なドストエフスキー的ロシア人気質を示しているようにも思える。批評の神様と言われた小林秀雄の批評は、マトリューシカ的であった。最近は、そんな評をする批評家はめっきり少なくなったのは寂しい限りである。

・このマトリューシカをロシア旅行の友人にこのほどいただきました。今回の東京都知事選挙もマトリューシカ的な玉ねぎ選挙ではありました。おあとはよろしいようで・・・。

  ・ロシアより愛をこめたるマトリューシカ人形の中に真実ありや   石塚 邦男
 

“いのちの溶解” 土倉ヒロ子/『木偶』100号

 投稿者:荻野央  投稿日:2016年 8月 1日(月)10時30分43秒
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  「永い眠りにつく前に」と書き出されると、死が想起される。そして死を、戦争死とか老衰死とか孤独死などのそれぞれの位置で語られるとき、悲惨である。

“永い眠りにつく前に
日々の眠りが長くなる
食べては眠り 起きては眠り 横になる

うつらうつら舟をこぎ
少女は跳びハネル
碧空を突き抜けて ここは何処?
見知らぬ人の顔を見て
あ~らお久しぶりねと ご挨拶
お花見お重を貪って 隣の寿司にも橋が伸びそうな勢い
この生命の変容を笑わないで
あなたにも訪れてくる この時間
かっこつけてもダメ
もう 忍び寄ってる この時間

歩幅も狭くなっている
背中も丸くなっている
額のメガネを探してる

あらら 駅に私を忘れてきてしまった
放浪する わ た し
黄金色のアルバムを広げ
あの人この人の息を吸う
発車のベルが鳴っている

蒼い氷を食べたい
闇夜の桜に登りたい

うふふふふ 目の前に特大のオムレツが
これは最後の晩餐なのかしら
夢・現・の紗幕のなかで
一人の童女が
オムレツにかぶりついている”

悲惨から遠く離れた作者の位置は軽妙洒脱な「戯れの精神」と言っても良さそうだが、それだけでもない。実感として肉体の精神の老いが横にすり寄ってくるときの恐怖の浅薄さとでもいうべきものである。それは「不連続」と「連続性」を論じた、フランスの「総合思索家」G・バタイユの説明にもある、それによく似ている。晩年の大著『エロティシズム』において彼は死と生の、個体における不連続と類的な存在における連続を上げて「死は世界の青春である」と歌うように讃美した。土倉氏においては、その接点は「紗幕」という幕の開閉によって表象されている。
幕が開き「わたし」は舞台に上がり背後の幕引きの音を聞くとき、「お浄土」の人々の舞い(森敦)に酔いしれて、「わたし」は「わたし」になるのであろう。ふたたびの「わたし」であるかは知らない。「連続」という抽象的な言葉に逃げるほかはない。ひとりの命が溶け出してその言葉に流れこんでいく。そしてその先は「お浄土」から舞い上がる別の「わたし」という命に結晶していくのか。(どちらかというと筆者はそちらの方に期待している。)

土倉氏は軽やかに、らくらくとシュウカツを語っているように見えるが、巨大なオムレツをほおばる童女と見立てるとき、氏の変わらぬ詩精神の確かさを感じるのである。かぶりついている、らくらくでもなさそうだ。

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「カプリチオ」44号③ 異界を見ている作家群 

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 7月27日(水)03時05分47秒
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  ・この雑誌の作者たちに共通したものがある。それは、現実の生活の中に、常に異界を凝視していることである。単純に言えば、シュールリアリズムの作風、または、日常の生活の中の時間的、空間的裂け目を見ている作家群とても言えようか。ちょうど網野善彦的、あるいは赤坂憲雄的人間洞察のもとに掘り下げられた生活意識が登場人物の生活空間を彩っているかに読めるのである。

・仲間同士が良い意味で影響しあうと、同じ価値観を共有するようになって、いつの間にか作風がひとつの流れになって行くことは良くあることだ。日常のなかのひずみ、ゆがみ、それは人間関係にも行動にも精神の波動にも空間的、時間的にも現れる・・・というような・・・そのような色合いが、この雑誌の作家群にはあるように思う。

・陳明芳「ジキタリス」は、亡くなった夫の骨を粉砕してお茶のように飲んでいる女が、ある時、薬剤師の真美子に「私、人を殺したことがあるの」と言う。こんな非日常的な女性が主役で出演する短編。

・門倉実「歪んだ痕跡」は、母の弟の叔父が残した日記帳が、叔父に特別可愛がられた新聞記者の私に何かの役にたつかもしれないと遺品として渡された。叔父の遺品の中には千人針の腹巻が大事に残されていた。その叔父の戦後の生き方とは・・という話。

・芦野信二「朝日の当たる部屋」は、1965年の山形県。母は、大きな家で一人住まいしている祖父に朝食を運ぶのが日課になっていた。その朝、孝一は母と一緒に祖父の家に向かった。ところが、途中で祖父が亡くなったことを聞かされる。

・冬野良「蜘蛛の話」は、妻が妹夫婦のやっている蕎麦屋の手伝いにでかけたので、時間つぶしに散歩に出た伊能は、図書館前の椅子に座って髪を梳いている若い女を見かける。椅子に座ってぼんやり見ているうちに眠くなった伊能は・・

・ここから、主人公は伊能ではなく男>という固有名詞になって登壇する・・・。少年の頃に蝶をからめとろうとしていた蜘蛛をいじめて殺したことがあった伊能・・。<男>は女に蜘蛛はお嫌いですか、と問いかけられる。あなたは誰ですか、と訊くと、女は「クモです」と応える。前半と後半は独立しているようで、比喩的につながっているかに読める作品である。

・谷口葉子「まぼろしに遊ぶ」は、手術の朦朧意識の中での精神のたゆたいを描いたショート・ショート。

 青い猫が飛んだ。沖縄の海だと思った。人の声がした。・・・こんなイントロで、エンディンクは・・姪が
ふたりのお子たちの話を始めた。これが生きているということに違いなかった。自分の病状の話より、この世の事情の肌触りにほっとす る。
 この13、4枚の掌小説には、やはり異界が横たわっていた。


 

「カプリチオ」44号(東京都)② 塚田吉昭「向こう側のわたし」は洒落た実験小説

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2016年 7月24日(日)06時39分33秒
返信・引用 編集済
  ・いずれ紹介しようと思いながら、余所見に気を奪われて紹介が遅れていた異色の作品を、遅ればせながら簡単に紹介する。

・塚田吉昭の「向こう側のわたし」は、読者の一人として深読みして感じたのは、面白い洒落た実験小説だということである。

・<わたし>の日常をもうひとりの<わたし>が登壇して観察するという不思議な構成。三人称の他者のように<わたし>が<わたし>を見つめる小説らしいが、<わたし>が二人現実に居るわけだから、当然怪奇小説のようになる。

・しかも、<わたし>は別の<わたし>を<わたし>と認識せず、他人のように想っているために、家の中で行動する別の<わたし>にイラつき、侵入者のように思えて、防御の姿勢をとる・・・というわけだ。

・いや、ひょっとして、この小説は異次元の<わたし>と現実の四次元の<わたし>とが三次元の部屋でに暮らす物語なのかもしれない。ブラックホールから抜け出るホワイトホールの<わたし>とこちら側の<わたし>とが隣り合わせに共存している物語なのかもしれない。

・シャミッソーの短編小説に「影のない男」というのがある。ある日、自分の影がなくなっているのに気づき、他人に悟られないように生活せざるを得なくなる男の喜悲劇・・ま、このシャミッソーの逆の立場になって、自分が二人居ることによる喜悲劇のスリラーとサスペンスの物語というところか。

・「いったいこれは何だろう」というスリラー小説めいた導入部から、「はて、家に侵入者か」という緊迫感・・・そんな雰囲気で進む謎の人物・・なかなか面白い短編であった。この塚田氏より立派なカバー付き「迷宮肖像」と題した創作集がこのほど送られてきた。異色の作家だけに楽しみにして読もうと思っている。読み込み次第、この場で紹介するつもりだ。

  郵便ー 142ー0042  東京都品川区豊町6-6-17  塚田 吉昭方
 

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