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“大きな熊の顔が太いうどんを飲み込もうとしているような道を行けば” 久保訓子 / 『徳島文學』 創刊号

 投稿者:荻野央  投稿日:2019年 1月17日(木)13時49分38秒
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  奇妙に長いタイトルを持つこの作品は、なかなかお目にかかれない「内界の小説」とでも言うべきものである。「内向の小説」が作家の、ともすれば病的なほどの神経網に掛かって現実とその幻影が、言い換えれば不明瞭な悟性において認識されているのに対し、「内界の小説」は、外界の様相(人間を含めた)を事実としてとらまえながら同時に、作家内部に現出している固有の彩を持った「内界」に存在している事実と照らし合わせる。だから必然、特別な文体が要請されて作家は工夫する。どういうことなのか。具体的に作品の梗概を見てみよう。

主人公の「わたし」は父の介護のために三年前に山奥の実家に戻った。「わたし」の従妹・花絵ちゃんの娘の結婚式の出欠葉書を出すべく、雪の積もった道を歩いて郵便局へ向かう場面からはじまる。雪のない時は簡単に郵便局まで行けるのだが、まだ一部路面凍結の部分があるから車は止めたほうが良いと馴染みの郵便配達夫から言われ「わたし」は歩くことにした。「わたし」は歩行中に出くわした家やら廃屋、人、その他もろもろの事物に「わたし」は観察と回想をする。これがこの作品の全工程である。ところで、「わたし」の歩いているさなかに様々な観察が「内部の世界」を形成して、もういちど「わたし」がその内界観察の感想(回想を含めて)を語る時、作者は「わたし」を外部の世界へ”押し出して”書いてゆくという意外な方法を取っている。たとえば以下のような、花絵ちゃんのことを思いながら雪道を歩いているシーン。
この前まで赤ちゃんだった花絵ちゃん、高校生になった花絵ちゃん……

“…これからの時間をいっぱい与えられそうな花絵ちゃんへの嫉妬かもしれない。するともう花絵ちゃんは妊娠でもしているような気がして…”と想像する「わたし」に花絵ちゃんの赤ん坊がイメージされてゆき、「わたし」の周辺に「母乳の匂い」が漂いはじめ、赤ちゃんの薄い髪の毛におおわれた頭の温度が掌に感じる。匂いと温度の感触は、実際には「わたし」が梅林の傍を歩いているせいによるものと小説は語られる。それは空想でも妄想でもいい。しかし「わたし」の内部の事実をそのまま書いているわけでなく、作者は梅林を借りて、梅を見つめて「実際に」母乳と赤ん坊の温度を感触している、と表現する。
続いて廃屋の傍を通り抜けた時に、(かつて聞こえた)その家の嫁さんが山に向かって「くそっ、姑が憎っくいよう」と喚いていたことを回想するのだが、実際にその声が聞こえていると「わたし」は思わない。通りすぎようとしているたくさんの竹のこすれる音と認識しているのである。内部に聞こえた嫁の声が“外へ押し出されて”竹のこすれる音だと思っている。
オーストリアの詩人・劇作家であるホフマンスタールの「幻視」に似ているが、異なるのは、あくまでも作者の視界に幻は無いのである。外界の事実に内的な表現が架橋していく、こうした表現は同人誌であるとかメジャーであるとか問わず、稀なる小説技術だと驚いてしまった。
 観想的な批評が続いてしまうと掲示板が重くなるので、ぜひ閲覧者の皆様には『徳島文学』創刊号(2018.5.1)での作者の小説に目を通してほしいと思う。
【発行所】
「徳島文學協会」(事務局) 〒771-3201 徳島県名西郡神山町阿野字方子103
※なおホームページで検索すると詳細な情報が得られます。
 
 
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