teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]


スレッド一覧

他のスレッドを探す  スレッド作成

新着順:91/1745 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

田中健太郎氏の『団地の爺ちゃんたち』(「時刻表」第4号)

 投稿者:荻野央  投稿日:2018年12月18日(火)14時06分3秒
  通報 返信・引用 編集済
  儀式、体裁を嫌う人々がいる。たいていの人々は手順に則り、目の前の「行事」あるいは行事に転落した手続きをこなせると無意識下に思っているが、しかしいっぽう、そんな手順には喪失やら絶望やら諦観など、悲しみの感情の整理はできない、と嫌悪する人々がいることは確かなのだ。慣例に従って喪服を着、香典を包み、ときには泣きそうになるか涙を流す。そうではない。葬儀に出席しないという態度のうちに、故人を偲ぶということもある。
でも…好きな人の死に際し、故人のことが好きだった人々にとってどちらでもいいことだろう…。
詩はこのように始まっている。
「僕」の義母が亡くなるまで義父は家事をきちんとこなして、毎日妻のいる老人ホーム通いをしていた。義母が亡くなった後、運転をあきらめ歩行が困難になって別の老人ホームに入所となったが、一人暮らしだった義父のもとに団地の爺ちゃんたちが訪れて酒を飲んだりカラオケをしたりした仲間が月一回のペースで訪れていた、と詩は続く。そして義父は死んだ。とり行われた葬儀に「僕」はそんなものは血の通わない形骸的なものでしかない、と「鈍い怒り」を覚えるのだが、でも…

“そこに/慌ただしく駆け込んできた団地の爺ちゃんたちは/まったくみすぼらしい普段着のまま/我先に棺に駆け寄った
「ようがんばったなあ」「もう痛くなくなったなあ」「まっすぐお母ちゃんの所へ行くんやで」
翌日の葬儀は豪雨となったが/負けずに泣いてくれたのは/団地の爺ちゃんたちだった/骨揚げが終わると空は晴れ上がっていた”

巧みな最後の、胸の熱くなる場面である。ここでは(つねに冷静でなくてはいけない)批評の域を超え出ている熱いものがある。それはどこか人間の本質の熱い一面を示しているようにも思う。作者は語らないが「僕」の最初に抱いた「鈍い怒り」はこの熱さで溶けているであろう。カタドオリノギシキと「僕」が感じても、異なる人生を歩んできた仲間の爺ちゃんたちはカタドオリであってもそうでなくても同じ行動を取ったに違いない。「みすぼらしい普段着」で駆け付けたことがその証左である。つまり苦労した義父と団地の爺ちゃんたちは、生きていても死んでいても、がっしりと繋がっているのだ。抱擁か連帯か、ここには確かな繋がりが詩になっており、苦労した義父はそのつながりの中で、けっして寂寥ではない暖かい静けさのうちに死を迎えているように感じられた。田中氏は、この詩でそのことを丁寧に素朴な美しさとして語っている。胸の熱くなる詩に出会えるのは、そうそうないことだ。
 
 
》記事一覧表示

新着順:91/1745 《前のページ | 次のページ》
/1745