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間島康子氏の『はれたのち』(「駅」第116号)

 投稿者:荻野央  投稿日:2018年12月14日(金)06時59分6秒
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  前作『うれい』に続いて―私なりの言葉で言えば―「屈託」の詩であろうかと思われた。屈託は人の気分を重くする。でも一日中、そんな気分であることもない。「はれやかな」時だってあるし、大したことじゃないさ、と他人から思われることが本人にとって最大の救いの時でもあるのだ。しかし考えてみれば、他人は他人を羨んだり称賛する気ままな人格の例えであると認めても、憂鬱な存在である。他人と自分が一致するとき、あらゆる屈託は「はれる」というものだけれども、しかし気が付かなかった屈託は「はれたのち」に、再び生まれたかのように見つけられる。まったく・・・人間の性(さが)なのか。

“片隅に携えていたものが/小さな遠慮を解いて/また新たに生まれたかのように/顔を向ける
 ああ/これが/このことが/あった
 あれより重いか/まさかそんなことはあるまいが/放っておくことは/できない”

片づけては再生する屈託の悪循環。簡単に解決するものでさえ見過ごすわけにはいかない。詩人の目にはそのようにそれは厳然とたたずみ、まるで悪意のような「難問」がときには散在して見えるのだ。そしてそれは隠然たる主題として内部に展開することもあるだろう。「できない」と書かれたのは「主題」として、己自身にとり一つの段階として、作者は捉えているからだ、と思う。詩は続く。

“それにしても/見えるか/みえないかの違いだけで
一点に訪れることは/かわらないこと/かもしれない”

はっきりと内部的に確認できても外部的(他人から見て)には「どおってことじゃないか」と見えることのある屈託。そういう場合、特段に、おそらくは解きえない厄介な難問として(「一点」)において厳然として、やっぱりあるんだ、と悄然とするしかない。悄然。「はれたのち」だけれど、もう一度重い腰を上げてそれに相対せねばならぬ徒労感にまみれる自分。
生きるとことの或る一面が、ささやくようなタッチのこの作品に漂っている、と思われた。
 
 
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