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間島康子氏の『うれい』(「駅」第115号)

 投稿者:荻野央  投稿日:2018年 8月 2日(木)11時40分48秒
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  うれい・・・私だったら“屈託”と呼び捨てたい気分のことだが、作品は「この/ゆうれいと親族であるかのような/宙にさまよう物体は/日毎夜毎/周辺に/身辺に/澄ましたそぶりで/にじり寄る」という連から始まり、まったくだ、いいかげんにしてくれと喚きたくなる私の傍に、そろりと寄り添う、おつにすましたしつこい気分が語られる。どこかに失せろと叫びを浴びせたい「そいつ」はそっと私に、苛むでなく寄り添うのだから、これはなんともいたたまれない事態である。
間島氏は特異な(個有な)意識作用でもって、見えぬものを見せる達人である。その詩で空間的に見えぬ―つまり不可触的な―知覚し得ない「うれい」を詩的言語でもって形象化させてゆく。ここがこの作品のポイントというのか醍醐味にあたるのだ。

“みえる者だけに/透明なかたちをあらわす/根を知る者だけに/切れない糸となってからみつく”

これは、なんとも穏やかな恐怖とでもいうべきか。うれい、憂い、愁い、患い――私の“屈託”は私だけのものであることをさらりと描写する。見えないものを「透明な」と形容で包むとき読者はハッとする。このように客観化されてしまうと、うれいている私はもう叶わないのではないか。つまり「透明な」存在はなんとも解決しがたい問題だろうと空想するからである。なにせ見えない触れない。見えぬものを見えているように包み込む「透明な」と言う形容詞が、さかさまに私の空想のなかで燦然と舞う。「そいつ」は透明化によって、客観化の裏をいくから、なお叶わないのである。

作者は続いてそいつの「きっか」けに向かう。またしても、見えるかのような紹介。

“ごびゅうの一瞬は/雑踏に紛れ込み/日々に埋もれ/穏やかともいえる時を/続けていた”

ごびゅう、とひらがな表現でもって、或る、過てる感情を「すべて」とした。ひらがな表記の威力は「すべて」を意味するから、そうするとあれもこれも過てる感情に包囲されてますます私は叶わない。つまり、日々に埋もれて穏やかに起因するうれいは、私に寄り添って苦しみやらを増加させるわけである。なんといううれいの力・・・。いつまで続ける気なのか。

“あの日/あそこで/窓外にあった木々は/緑したたらせ/四月には珍しく/大気はほてり/心とは似つかぬ明るさを広げていた

そことつながる暗雲は/長く揺らぎつきまとい/今同じ季節に/埋め込んだ重さをともない/押し寄せて来る“

日常の場面、風景、季節を挙げて私の心と無関係に、ごびゅうは「埋め込んだ重さをともない/押し寄せてくる」と詩は結ばれた。うれえる私は、例えば、卑近の人と人との関係に直面し続けるのだろう。また、人以外のことでもうれいのひらがな表記によるあらゆる対象に対しても直面するのだろう。直面するしかない、他になすすべもないいたたまれない事態は日毎夜毎に私に寄り添う。
この事は別の意味で、穏やかな恐怖と言い換えても良さそうだ。
 
 
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