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「季刊文科」74号から

 投稿者:管理人 iPad 7504  投稿日:2018年 7月16日(月)09時37分9秒
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     同人からの問い合わせもあったので、「季刊文科」誌に掲出した論稿を転載させていただきます。
どうぞ、ご意見・ご感想等あれば。

【近代文学の動向】その1
  「批評」の意味   ―批評・研究の同人誌として
                    永野 悟(「群系」編集部)


 江藤淳は、『小林秀雄』(一九六一年刊)の冒頭近くで、「小林秀雄の前に批評家がいなかったわけではない。しかし、彼以前に自覚的な批評家はいなかった」として、この「批評を創め、芸術的な表現に高めると同時に、(追随者にその亜流が続いたという意味で)これをこわした」小林秀雄の問題について、以下のように綴っている。

 私見によれば、この問題は二つの側面をもっている。一面からいえば、それは、夏目漱石から志賀直哉に屈折していった日本の近代文学が、ふたたび屈折して小林秀雄において「批評」を生むにいたる過程の意味である。「Ⅹへの手紙」の背後には明らかに「暗夜行路」があるが、そのむこうにはおそらく「明暗」がある。漱石が発見した「他者」を、志賀直哉は抹殺し去ることによって「暗夜行路」を書いた。そこには絶対化された自己があるだけである。小林は、この「自己」を検証するところからはじめた。つまり、彼の批評は、絶対者に魅せられたものが、その不可能を識りつつ自覚的に自己を絶対化しようとする過程から生れる。これが、芸術家の、しかも、きわめて近代的な芸術家のたどるべき道であることはいうまでもない。

  日本の近代文学の俯瞰(サーベイ)として、実に端的な評言(表現)であるので引いたのであるが、実際、日本近代文学の問題は、一つには自己であり、その確立であった。その葛藤は、透谷や藤村の「文學界」に始まり、「明星」の晶子や啄木に継がれ、さらに花袋や秋声などの自然主義に継がれていった。だが、その自己の確立を阻むものとして、家の制度や世間、さらには国家というものが立ちはだかった。大正に至って、一方ではそうして家や世間から逃れた私小説という形式が生まれたが、他方ではその国家に対して闘い、崩壊していったプロレタリア文学の流れもあった。
だが、そうした「他者」から頑なに自己を守ったのが「白樺派」の文学者であろう。中でも武者小路実篤と志賀直哉はその典型であった。特に志賀直哉はその独自の「自分」の感性をそのまま押し当て、自らの文学と実生活を築き上げた。ここには、漱石が対面した「他者」が徹底的に抹殺されていた。「それから」や「門」、「行人」「こころ」や「道草」「明暗」などにみられた「他者」が、初めから排除されることで、そうした文学世界が形成されている。
   むろん、志賀直哉に危機がなかったわけではない。よもや自身の死に至るかもしれない危機、あるいは仲居との交渉による妻との危機。「城の崎にて」や「邦子」「痴情」「山科の記憶」「濠端の住まい」などの作品は、しかし、そうした実生活上の危機が芸術的に昇華されて読者は、そこにある小動物の生死の描写、その「神のような無慈悲」(平野謙)な透徹した境地に小説の醍醐味を感じたのであった。

   「Ⅹへの手紙」の背後には明らかに「暗夜行路」があるが、そのむこうにはおそらく「明暗」がある。

     江藤がこういうまでもなく、小林秀雄がその初期に、白樺派、中でも志賀直哉の影響を受けていたことは有名だが、その処女作ともいえる「一ツの脳髄」(1924年)は、志賀の「城の崎にて」(1917年)を意識していたようだ。船や自動車を乗り継いで、湯河原の温泉に泊まり、その夜、自己の神経衰弱や母の病気を回想する一人の知識人の「脳髄」のありようを描いたものだが、舞台・結構とも「城の崎にて」に似ており、その感受性にも、「志賀直哉的な嫌人生」(河上徹太郎)がうかがわれる。
    が、志賀なら決して書かぬような一節があると江藤淳は引用している。それは乗り合わせた船の、顔色の悪い、繃帯をした腕を頸から吊るした若者が発する石炭酸の匂いや、膝頭を抱えた二人の洋服の男、柳行李の上にうつ伏した四十くらいの女、これら「醜い奇妙な置物の様な」な周囲の現実に自分も嫌悪を覚えながらも、「自分の身体も勿論、彼らと同じリズムで慄へなければならない」と書いていることで、これはきわめて、批評的だ、というのだ。そこで小林は動いて慄へている現実に不快感を抱き、「それが堪らない」と思いながら、「自分だけ慄へない方法は如何にしても発見出来な」いで、ある滑稽な連帯関係のなかにくりいれられてしまうことをみてとっている。作者は、心ならずも自分の裡にある相対的な感覚を発見してしまった。この相対感覚を江藤は「いわば志賀直哉と夏目漱石の中間の位置にいて、焦燥にかられながらシニカルな視線を現実に投ずるのである」としている。ここに、小林秀雄一流の自意識の胚胎(=批評家の誕生)をみることもできよう。

    ここで、改めて、小林秀雄の志賀直哉讃を観ておくのも意味があろう。小林自身が旧制一中の「白樺派的な文学的雰囲気」に育っていることも大事だが(富永太郎の親炙、その手紙の交流など)、小林はその初期の作家論の最初に「志賀直哉」(1929年)を書いている。
「嘗て日本にアントン・チェホフが写真術のように流行した時、志賀氏は屡々チェホフに比された」「チェホフは二七歳で『退屈な話』を書いた時、彼の世界観は固定した。それ以来、死に至るまで彼の歌ったものは追憶であり挽歌であった」―。
「然るに、志賀直哉氏の問題は、言わば一種のウルトラ・エゴイストの問題なのであり、この作家の魔力は、最も個性的な自意識の最も個体的な行動にあるのだ。氏に重要なのは世界観の獲得ではない、行為の獲得だ。氏の歌ったものは常に現在であり、予兆であって、少なくとも本質的な意味では追憶であった例はないのである」―。
「志賀氏は思索する人でもない、感覚する人でもない、何をおいても行動の人である。氏の有するあらゆる能力は実生活から離れて何の意味も持つことができない」。「懐疑と悔恨―。凡そ近代の作家で志賀氏ほど、これらの性格から遠いものは稀である」。
「然し問題は、芸術の問題と実生活の問題とがまことに深く絡み合った氏の如き資質が、無類の表現を完成したという点にある」。
    志賀氏の文体の直截精確、これを小林秀雄は、氏の「慧眼」と説いている。これは、単に多様な角度で見る目ではなく、「決して見ようとしていないで見ている眼、どんな角度から眺めるかを必要としない眼」としており、その描写の例として、『和解』における子供が死ぬ箇所を挙げている。ああいう事件の顛末を書く眼、これは意識して書くのではない、「氏の眺める諸風景が表現そのものなのである」―。

    なぜ、こうまで志賀直哉を讃するか、この作家を憧憬するか、これは自分たちにはない資質に魅せられたからであろう。志賀直哉のようなエゴティズムをもはや後代は持ち得なかった。ここには、小林が生きた時代の問題もあろう。大正十二年の関東震災を経て、社会も人心も変化していった。そうした〈転換期〉にあって、自分の生きる方向、逡巡が、自意識として作家にからめとられた。そうした自意識の叫びを遺書に書いた芥川龍之介について、小林は、早くも「芥川龍之介の美神と宿命」(1927年)を書いた(芥川氏にあるのは、人の言うような理知の情熱ではなく、寧ろ神経の情緒である、とした)。が、その後の梶井基次郎、中島敦も、こうした自意識の展開といえようが、小林秀雄の自意識の開陳、すなわち批評の誕生によって、われわれは問題の所在とともに、表現の方向を知ることが出来たのである。

    今日、文学の衰退がいわれる。多様な文化・情報がその理由ともいわれる。だが、今日ほど、そのことを含め、批評意識が求められる時はなかろう。なぜなら自己の定立を含め、意識の混迷が、その表白・表現を求めているだろうからである。



 
 
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