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〈かなしみ〉と日本人

 投稿者:管理人 デスクトップ 674  投稿日:2018年 1月19日(金)09時43分5秒
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   今年は、「赤い鳥」が大正7年に創刊されてから100年、いわば〈童謡百年〉だそうである。それにちなんで。やはり旧稿からですが、子供の歌が冒頭にある小文を紹介しますね。



〈かなしみ〉と日本人 投稿者:管理人  投稿日:2007年 4月26日(木)02時47分35秒

  あかりをつけましょぼんぼりに  お花をあげましょ桃の花
  五人ばやしの笛太鼓       今日はたのしいひな祭り

 「うれしいひな祭り」の冒頭部分であるが、この童謡をいかにも〈かなしげ〉な歌と批評する人がいる。「うれしいひな祭り」という題であり、「今日はたのしいひな祭り」と歌っているのに、歌ってみればわかるように、実に〈かなしげ〉に響く、という―。 こんな「序文」ではじまるテキストを書店で手にした。タイトルは『〈かなしみ〉と日本人』、NHKのラジオ講座テキストで、著者(講師)は、竹内整一という倫理学専攻の東大教授である。
 この「うれしいひな祭り」の歌自体(サトウハチロー作詞・河村光陽作曲)にはさほど〈かなしみ〉は感じなくても、童謡や唱歌、あるいは日本の詩歌に(あるいは広く日本文化全般に)〈かなしげ〉なトーンがあるという主張には実に共感できるし、現代の日本で〈悲しみ〉の復権を唱える論には我が意を得た。

 人間には〝喜怒哀楽〟を初め、さまざまな感情・情緒があるが、例えばこの熟語に代表されている四種類に限っても、〝哀〟ほど、深くあわれなるものはあるか。例えば〝喜〟〝楽〟は、確かに、前向きな感情であり、文字通り喜ばしく、楽しいものである。しかし、例えば他人が〝喜び〟〝楽しん〟でいるのを見て、われわれは心を打たれるか。「よかったな」程度であり、場合によっては「何であいつが」と、とその〝喜ん〟でいる相手を〝憎む〟場合もある。また、〝怒〟りの感情は(〝憎む〟も同類)、確かにエネルギーがあり、実際の行動力にも結びつくような強い感情であるが、それは何か「分析以前の」原始的な感情であり、その瞬発力の前にもう少し思弁があれば、という後悔があとに立つ感情ではある(〝自爆テロ〟はどうにかならないか)。
 そういう点に鑑みれば、〝哀〟の感情ほど、情緒深く、人間精神の深奥に徹した感情はないように思われる。〝かなしみ〟とか〝あはれ〟という感情は、人間の奥深くに発せられる、自発的な、理性的・内省的な、どうにもやるせのない情緒であって、この感情のたゆたいこそは、その様態・動向からも、〝喜怒哀楽〟の四つの中でも、他に抜きん出ている。
 この四つの感情を人間以外の他の動物に置き換えてみると、このことははっきりする。例えば、猫に〝喜怒哀楽〟はあるか―。〝喜〟〝楽〟があるのは、えさでもやって食べているのをみれば、あるだろうと推測できる(おいしい魚などだと〝喜〟んで食べているように見えるし、猫じゃらしで遊んでやると〝楽しん〟でいるように見える)。〝怒〟になると、これはもう動物の本能と思えるほど、われわれは普段に眼にする。ところが、〝哀〟はどうか。私見であるが、当方には猫にはそれを感じることは出来ない。確かに犬には、なんとなく〝哀しげ〟な顔をするときがあって、やはり猫よりは〝高級〟なんだろう、と思われる。
 そう、〝哀〟はやはり、〝高級〟な情趣なのである。〝怒〟のような旧皮質そのものが露出するのではなくして、新皮質と旧皮質を相互に往来した上での(これは比喩である)、ある情趣なのだ。

 「かなしい」を語源的に分析すると、「~しかねる」からきたそうだ。親しい者との死別など、どうにも処理しかねる感情がわいてくる。「かなしみ」は、それをどうにもできないからかなしいのであって、これは怒りのように対象を見つけて、ぶちかますというわけにもいかない。〝喜〟〝楽〟などのように、互いの肩を叩いて、感情を共有するといわけにもいかない(よく、涙にくれて互いに抱擁するなど子女の場合にみかけるが、それはそれよりしかたがないという消極的な理由によるのであり、〝喜〟〝楽〟の積極的な行為とは違うことは、ぜひ留意したいところである)。
 「かなしく、やるせない」などという。この「やるせない」も、同根の語であって、「遣る」「瀬」がない、すなわち、(悲しい感情などを)「遣る」(どこかに流し出す・排出する)、そうした「瀬」(水の流れ口)がないのである。くぐもった感情は、どこにも排出できず、内部に纏綿するのである。本居宣長は、そうした情趣(「あはれ」)をそのまま纏綿させるのがよい、といったそうだが、たしかに、それこそが心身のために、わが民族の美学に添っている。

 近来、「かなしい」というのは〝クライ〟だとか、〝めめしい〟とかいわれ、否定的な感情とされてきたが、それはそうではない。「かなしみ」があるからこそ、人間は人生の奥深さ、人間精神の深奥、文化の奥深い豊かさを知れるのである。欧米、なかんずくアメリカ文明のその場限りの楽しさ・豊かさ、に酔い痴れていては、この奥深い情趣をしることはできない(〝ディズニー〟もいいが、常に愉しく陽気に、愛嬌ふるまいて、とはいかないのが人間ではないか)。
 この感情こそは、人間のみが保持できる〝人間らしい〟感情である。

 本テキストでは、宮澤賢治のかなしみ(特に妹トシとの死別に際する)や、国木田独歩や西田幾多郎のいわば生存の根本のかなしみ、などを紹介しているが、当方も感じていた古典に取材した〝かなしみ〟の例を最後に紹介しておこう。


 「源氏物語」に〝柏木〟という男が登場する。この男がひょんなきっかけで、ある女を死ぬほど恋してしまう。女は〝女三宮〟といって、じつは光源氏の後妻にあたる人である。その〝人妻〟を恋してしまった。ほんのちょっとしたきっかけであった。親友である〝夕霧〟(源氏と故葵上との息子)たちと蹴鞠に興じていたある夕べ、鞠を追いかけて偶然、女三宮の姿を御簾の隙間から垣間見てしまった。一目惚れ。以来、柏木の懊悩が始まる(「源氏物語」における、こうした〝垣間見〟は、印象深い。初めのほうの光源氏による紫の上の垣間見も有名だが、この女三宮の場合は西日を背にして、実に神々しいほどのまぶしさだったようだ)。
 女三宮というのは、実は源氏の兄、朱雀天皇の愛娘で、どうにも嫁ぎ先が見つからぬ際に、あえて権勢ある弟、後見役ともなる光源氏に降嫁させたのであった(その際、最愛の妻、紫の上の懊悩は人知れず深いものであった)。中年の源氏も、新妻に興味はなくはないものの、そのあまりにも内面の幼さに興がそがれた、ということもあったようだ。
 だが、ドラマは本物語の核心に関わるところへまで展開する。すなわち、柏木はついに女三宮と不義を犯すのである。源氏が病に臥せった紫の上を看病している隙をぬった行動であった(のちに、生まれる子こそが、〝宇治十帖〟の主人公・〝薫〟であった)。あとでそれが露見し、柏木は光源氏からそれとなくそれを指弾される(源氏としても、自身の藤壺とのあやまちがあったのだ)。柏木にとって、それはかなり手痛いことであった。光源氏といえば当時もう栄耀栄華を極めた人であり、そのひとの指呼を受けたということで、懊悩は深まり、ついに死の床に伏す。そして、愛したその人(女三宮)に向けて、最後の一言を頼むのある。「あはれとだにのたまはせよ」。しかし、女三宮はそれには応えない。これほどの〝かなしさ〟〝やるせなさ〟はあるだろうか。柏木は、間際に(せめて、いとしいよだけでもおっしゃってください)と乞うたのだった。

 「かなしみ」は、個体としての感情であるが、民族の、あるいは共同体の情趣、である。日本古典、あるいは近代文学には、それらを感じさせる名場面が多く見受けられる。どのように、かなしいのか、その美学は、などいろいろ考えてみたいところである。
 
 
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