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“符号” 間島康子/『駅』№110

 投稿者:荻野央  投稿日:2017年 5月 9日(火)14時03分28秒
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  “この小さき子らの
やわらかなふくらみのどこかに
わたくしがいる

まるで
こことそこの
離れた距離のように
あえかに霞んだ
認証ではあるが

父と母から渡された
あれこれの中から
娘らに継がれたものは
私らとは別の土壌で
育ち広がり

さざめきの坩堝から
違う香りと結び合い
また新たな子らを生んだ

私の血は遠く行った

祖父母と呼ばれ
孫と呼ぶ
そこには遠く行く
生き物の一片の符号が
やすやすと流れている”

記号でなく「符号」を用いた意図を思えば、記号の語の一般性という広がりを限定するということ、つまり、+と-、♭と♯など、作品全体に加えるアクセントを感じさせる。符丁と言い符合といい”符”の与えるアクセントとはなんだろう。私はそこに何かしらの「一致」を思う。
ドレミフアソラシドの音階が符号でかすかに変化して、数の絶対性が符号で揺籃するとき、人であれ人以外の生き物であれ、一貫性や不変性を目指すものではないかと思う、無意識に。初めから終わりまで変わらないということ。「私」がいてその主体は産んでくれた「親」から譲り受けたものであり、そして「子」へ伝えるものであるという一貫して変わらないこと。どう疑ってみてもそれは真実である。その三者がどのように生きて死ぬかに人生の彩と固有の重みがあるにしても、言わば、精神の遺伝子は真実として疑うことはできない。

“私の血は遠く行った”

この要の一行は、揺籃していく事態を根底から無言で支える感想である。血の流れは永遠に続けられるか、区切りをつけて回文のように再び現出するのか。どっちにしても人と人以外の生き物は、不連続(死)と連続(誕生)の繰り返しながら受け継がれていく(G・バタイユ、『エロティシズム』)のである。「遠く行く」のだ。
命とは何か、という古来から考え抜かれた命題は、この真実のほかに答えは無い。あるとすれば「私」が「孫」を見つめる愛、「親」になった「子」への愛、そして「私」の「親」を想起する愛のほかにない。この詩はその不滅を静かに訴えているように感じた。
 
 
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