teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ]

スレッド一覧

他のスレッドを探す  スレッド作成


「文學界」の同人誌推奨を目指しましょう

 投稿者:永野悟(群系) 8594  投稿日:2018年 9月19日(水)17時09分11秒
返信・引用 編集済
      ほとんどこちらの板は忘れられているかのように、書き込みがありませんね。「群系」誌の合評会の後の飲み会でも出た話ですが、もっと同人誌同士お互いを紹介し合って、非商業誌の文学の活動を活発化させましょう。
   とりあえず、その点で言えば、「カプリチオ」誌第47号(2018年夏)収載の、玉置伸在氏の創作「何ごとが照らすかを知らず」が、このたび商業誌「文學界」の同人誌推奨作品として、近く同誌に転載されることになったそうで、おめでとうございます。追加して、根保孝栄氏の書き込みによれば、この推奨作品は芥川賞選考対象になるそうで、確かに過去の推奨作品、作家一覧を見ると、後日有名になったお名前が散見されますね(下のURL参照)。
   https://6910.teacup.com/capricciolitera/bbs
    やはり、広く作品が知られ、読まれることは大事なことで、その点五大商業文芸誌などに何らかのかたちでも関わりをもてれば素晴らしいことです。その一つのきっかけが、この「文學界」の例でしょう。
    でも、これは創作中心の話で、文芸批評・研究となると、そういった大手雑誌の手を借りることが、近年困難になって来ました。ご承知のように数少ない新人賞募集の中でも小説は各誌あっても、批評ジャンルは唯一募集の「群像」がそれを取り止めて以来、すがるすべがなくなりました。前から応募状況も数からいっても創作の文字通り一割程度しかなかったので、やんぬるかな、という感じです。「読書人」紙の同人誌批評も無くなった今日、あるのは「三田文学」と、「季刊文科」(鳥影社刊)くらいでしょうか。幸い後者の文芸誌には、私ども「群系」誌同人が批評や小説について、連載させていただいています。(同誌74号・75号。検索)
    この際、先ほどの合評会でも出たように、創作と同様、本にして刊行していくのが、広く世間にアピールするためには必須の方法かもしれませんね。そのためにはむろん先立つものが必要ですが、これはこの際、掲載する同人誌が発行主体となって刊行していくしかないでしょう。同人の批評・研究が、収載誌から続けて刊行されれば、それはインパクトのあるものになるのではないでしょうか。

http://prizesworld.com/doujinshi/reprinted/bungakukai.htm

 
 

了解とお礼

 投稿者:岩本俊夫  投稿日:2018年 9月17日(月)11時12分24秒
返信・引用
   雑誌名『風嘯』の表記について了承しました。
 ところで、同誌38号に寄せられた根保孝栄・石塚邦男氏の5編の作品に対するご批評に感謝申し上げます。お礼が遅れてすみません。ご批評の中で「この雑誌の書き手は皆、政治に関心ある人たちである。作品の中で必ず政治問題に関心ある人物が登場する。…」というご指摘があり、思わず同人達の顔を思い浮かべました。
 最後に添えてくださつた、童心への想いの歌、いいですね。
 
 

「風嘯」・・・風?・・失礼しました

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2018年 8月24日(金)15時05分48秒
返信・引用
  岩本さん、失礼しました。
当時、マシンが故障でスマホで書き込みしてまして、
<嘯>の文字がないまま、後ほど打ち直ししようと思いつつ
そのままになってました。私のミスです。お詫びして訂正いたします。

http://6909.teacup.com/nebo/bbs/

 

雑誌名「風嘯」について

 投稿者:岩本俊夫  投稿日:2018年 8月15日(水)21時52分48秒
返信・引用
  2017年7月26日の投稿の雑誌名について。
「風?」は酷かったですね。なぜ「?」に変換されたのか、全く不明です。常用漢字ではないから、では理由になっていません。表記上の正解は『風嘯』です。一度、このブログにお立ち寄りください。

http://fwusho.cocolog-nifty.com/

 

2012年の関東の会合

 投稿者:管理人 iPad 7953  投稿日:2018年 8月 8日(水)21時02分1秒
返信・引用
     この掲示板のだいぶ以前の投稿を遡って見てみました。一番最初のは83番目になりましたが、2010年5月18日の、tea cup事務局からのお知らせでした(上の設立経緯)。
   懐かしいのは、この板の名義の「関東同人誌交流会」、例の『文芸思潮』誌主催のまほろば賞の関東の候補を決める会議の模様ですね。2012年4月30日、掲出した三葉の写真には懐かしい面々が映っていますね。先日の会合には、小生、別の会があって行けませんでしたが、これからは出席するようにしたいです。何より文学の議論、するのが楽しいですからね。
https://9301.teacup.com/douzinnnzassi/bbs?page=56&
 

お礼

 投稿者:間島康子  投稿日:2018年 8月 7日(火)09時30分31秒
返信・引用
  荻野様

丁寧にお読みいただきありがとうございました。

今日は立秋だそうですね。台風の影響もあり昨日までの酷暑が
嘘のように感じられます。また暑さが戻るのでしょうが、ホッと一息と
いったところです。
お体気を付けてお過ごしください。
 

間島康子氏の『うれい』(「駅」第115号)

 投稿者:荻野央  投稿日:2018年 8月 2日(木)11時40分48秒
返信・引用
  うれい・・・私だったら“屈託”と呼び捨てたい気分のことだが、作品は「この/ゆうれいと親族であるかのような/宙にさまよう物体は/日毎夜毎/周辺に/身辺に/澄ましたそぶりで/にじり寄る」という連から始まり、まったくだ、いいかげんにしてくれと喚きたくなる私の傍に、そろりと寄り添う、おつにすましたしつこい気分が語られる。どこかに失せろと叫びを浴びせたい「そいつ」はそっと私に、苛むでなく寄り添うのだから、これはなんともいたたまれない事態である。
間島氏は特異な(個有な)意識作用でもって、見えぬものを見せる達人である。その詩で空間的に見えぬ―つまり不可触的な―知覚し得ない「うれい」を詩的言語でもって形象化させてゆく。ここがこの作品のポイントというのか醍醐味にあたるのだ。

“みえる者だけに/透明なかたちをあらわす/根を知る者だけに/切れない糸となってからみつく”

これは、なんとも穏やかな恐怖とでもいうべきか。うれい、憂い、愁い、患い――私の“屈託”は私だけのものであることをさらりと描写する。見えないものを「透明な」と形容で包むとき読者はハッとする。このように客観化されてしまうと、うれいている私はもう叶わないのではないか。つまり「透明な」存在はなんとも解決しがたい問題だろうと空想するからである。なにせ見えない触れない。見えぬものを見えているように包み込む「透明な」と言う形容詞が、さかさまに私の空想のなかで燦然と舞う。「そいつ」は透明化によって、客観化の裏をいくから、なお叶わないのである。

作者は続いてそいつの「きっか」けに向かう。またしても、見えるかのような紹介。

“ごびゅうの一瞬は/雑踏に紛れ込み/日々に埋もれ/穏やかともいえる時を/続けていた”

ごびゅう、とひらがな表現でもって、或る、過てる感情を「すべて」とした。ひらがな表記の威力は「すべて」を意味するから、そうするとあれもこれも過てる感情に包囲されてますます私は叶わない。つまり、日々に埋もれて穏やかに起因するうれいは、私に寄り添って苦しみやらを増加させるわけである。なんといううれいの力・・・。いつまで続ける気なのか。

“あの日/あそこで/窓外にあった木々は/緑したたらせ/四月には珍しく/大気はほてり/心とは似つかぬ明るさを広げていた

そことつながる暗雲は/長く揺らぎつきまとい/今同じ季節に/埋め込んだ重さをともない/押し寄せて来る“

日常の場面、風景、季節を挙げて私の心と無関係に、ごびゅうは「埋め込んだ重さをともない/押し寄せてくる」と詩は結ばれた。うれえる私は、例えば、卑近の人と人との関係に直面し続けるのだろう。また、人以外のことでもうれいのひらがな表記によるあらゆる対象に対しても直面するのだろう。直面するしかない、他になすすべもないいたたまれない事態は日毎夜毎に私に寄り添う。
この事は別の意味で、穏やかな恐怖と言い換えても良さそうだ。
 

草原克芳氏の『スカンジナビア半島の白夜の太陽』(「カプリチオ」第47号)

 投稿者:荻野央  投稿日:2018年 7月28日(土)14時20分54秒
返信・引用
  この小説は「悪」を扱ったもので、全編マイナス・イメージのシンボルで埋めつくされている。ヤクザ、殺人、女たちの没落と性交渉、麻薬、精神の錯乱、幻覚、とここまで書いてきてもまだあるのだ。主人公の蟹田は組の抗争で4人を殺害した殺人犯。蟹田に死刑執行を命じた法務大臣の腐敗した政治思考も悪に含まれる。明るく楽しく夢見るような出来事は一切ないが、ただ主人公の中ではマイナスとプラスが均衡しているわけで、それは錯乱する彼の心理において自分を納得させる 妥当という名の論理展開になっている奇妙な言い換えである。
壁に蠢く馬の首のようなスカンジナビア半島の様子が彼を「無難に今」生きていることの自己への証明として在り、あの世からの元妻の「交信」もその一つである。過去の想起と現実の幻覚の混在。でも、少なくもそれらは彼をこの世に妥当させ得る条件とみなして作者は描いているから、これは小説の技法として興味あるものだ。
或る日のこと死刑場へ狩りだされる数時間の間に、蟹田の人生全ての体験が想起されるが、いっぽう彼の中では拘置所で得た(と信じている)哲学から文学その他に至る読書による知がその全体験を真理に近いものと考えていて、しかしながら彼を取り巻く他者たちは彼を狂人に近いものと見做している、この不均衡が彼自身の内部の均衡と皮肉に対立しているのが面白いところの二番目である。
(様々な悪を犯した蟹田を極刑という暴力で裁定するという悪(アメリカと日本)を以て処するというこの矛盾。死刑は本質的に無意味な措置だし誰の益にもならない不可解な行為である。言わば破産宣告。債権債務はご破算にしてはならず、罪は徹底的な解析の必要ある課題だ。)

閑話休題。

この作品は死刑の賛否を問うものでは、むろん無い。蟹田を中心としたマイナス・イメージからすべての生あり、というのが主題のように思われもする。残念なことにフィクション以外の場では、悪と分離されてプラス・イメージになることは(まず)無いから不均衡だと言わざるを得ないことであろう。


 

すてきな同士たち

 投稿者:管理人 iPad 7683  投稿日:2018年 7月25日(水)15時09分57秒
返信・引用 編集済
     一同人誌の話ですが、つい先日、創刊三〇周年記念のパーティーをやり終えました。ま、猛暑の只中の日曜日でしたが、会場の新宿のホテルに予定の方全員がいらして、こんな気候なのに当日キャンセルもなく、主催幹事としてはやれやれと胸を撫で下ろしました。あっという間に楽しい二時間は過ぎて(その一時間以上前から多く来られて、高層ビルからの景色を楽しんでいました)、さらに二次会と夜遅くまで、いろいろな話に花が咲きました。

   いったいにこの雑誌の同人、さらに購読会員はいい人が多く、話づき合いもいいです。振り返れば、パーティー出席の方々は皆、社交上手で人と会うのが楽しい方々とお見受けしました。ご挨拶をいただいたかたがたは社会で一線の活躍をされている(いた)人々で(大学教授、評論家、編集長、ジャーナリスト、病院長、作家など)、お話もそのご専門も伺え、小誌のことも寿いで、お人柄がしのばれる感じでした。
   参会者の方々は年齢的には小生同様、あるいはそれ以上なのに、いわゆる老人という感じではない。やはりご自分の人生をしっかり歩まれている、尊敬できる方々でした。

    翻って、一般社会をみてみると、ストレスを抱えた人、困難にぶつかっていきように悩む人など多くいるようです。リンクの記事には、孤独になっている人も多いようです。統計によると、人とのコミュニケーションをしない、交流がない人は早死にするそうです。悩みを打ち明けられない、ゆとりがなくいつもせかせか、している。ま、そういう方は自然と人との距離が離れるのでしょうか。
    その点、パーティーやその一週間前の研究会例会に集った方々は、暑さにもめげず、体力的、精神的に強い、のでしょう。それがあるからこそ、社交的だし、またひととのお話もゆったりおおどかで、こちらも何か安らぐのでした。
    ほんと、ここで告白すると、年上の先生方はむろん、同世代のご出席の幾人かは、小職がこの三〇年の間知り合って、じつに尊敬と親しみを心から感じている人たちでした。ー

http://gooday.nikkei.co.jp/atcl/report/16/021000005/021700013/

  https://style.nikkei.com/article/DGXMZO21776670S7A001C1000000?channel=DF140920160927&nra
 

人生を楽しむこと

 投稿者:管理人 iPad 7558  投稿日:2018年 7月18日(水)13時43分9秒
返信・引用
     テレビでは、サッカーの話や、日大の不祥事、最近では熱暑の話題が多い。でも、これらはその都度のニュースであって知るべきことではあっても、心の糧となるものではない。ほんとに癒しとなったり、生きていく核になるもの、いわば芸術・文化のことはテレビでは求めにくかろう(ほんとに、同時的な報道ではあっても、トランジャットでその場かぎりだ)。やはり、文学なら読書、絵画などなら美術館、音楽ならコンサートホールへ足を運ぶべきであろう。
   だが、同じようなものでも、iPadなどタブレットだと、それらのことがかなう。文学作品も青空文庫で読めるし、新刊の本の情報もすぐ検索出来る。音楽も(映画なども)You tubeで見られるし、絵画も一発検索出来る。
   体にいい食品も、世界のいろいろな統計も、話題の人物のことも、そして、身近なちょっとした知りたい事柄も、一発検索でわかる。小生は、こうした板などでさんざん書き込んでいるように、あらゆる知識を仕入れている。おかげで、透析35年の現在も、たいへん元気でいられる。リンやカリウムの食品含有量という基礎知識以外に、いろいろな検査項目の知識も入っている。最近、BMIという、肥満の具合を表す数値を計算してみたら、22、でちょうどいい値であった。食べ過ぎれば、カリウムやリンが高値になるし、コレステロールも上がる。
   かつてとちがって、食事を自分で作ることも覚えた。やはりiPadで調べた料理素材、レシピからである。以前、あまり野菜はレストランで出されるものくらいであったが、ブロッコリーやゴーヤ、トマト、オクラなどがいいと知って、摂取するようにしている。
   昔の人は、情報が入らなかったから、酒を飲みながらタバコを吸い(最悪)、過度の労働、少ない睡眠、それらを含めていろいろなストレスで、60歳にいくかいかんうちに亡くなった。人とのコミュニケーションが長生きの元ともしらずに、孤独死する人も多かった。
    21世紀に生きるわれわれは、そういう先人のしかばねを超えて生きるのじゃ。
 

「季刊文科」74号から

 投稿者:管理人 iPad 7504  投稿日:2018年 7月16日(月)09時37分9秒
返信・引用 編集済
     同人からの問い合わせもあったので、「季刊文科」誌に掲出した論稿を転載させていただきます。
どうぞ、ご意見・ご感想等あれば。

【近代文学の動向】その1
  「批評」の意味   ―批評・研究の同人誌として
                    永野 悟(「群系」編集部)


 江藤淳は、『小林秀雄』(一九六一年刊)の冒頭近くで、「小林秀雄の前に批評家がいなかったわけではない。しかし、彼以前に自覚的な批評家はいなかった」として、この「批評を創め、芸術的な表現に高めると同時に、(追随者にその亜流が続いたという意味で)これをこわした」小林秀雄の問題について、以下のように綴っている。

 私見によれば、この問題は二つの側面をもっている。一面からいえば、それは、夏目漱石から志賀直哉に屈折していった日本の近代文学が、ふたたび屈折して小林秀雄において「批評」を生むにいたる過程の意味である。「Ⅹへの手紙」の背後には明らかに「暗夜行路」があるが、そのむこうにはおそらく「明暗」がある。漱石が発見した「他者」を、志賀直哉は抹殺し去ることによって「暗夜行路」を書いた。そこには絶対化された自己があるだけである。小林は、この「自己」を検証するところからはじめた。つまり、彼の批評は、絶対者に魅せられたものが、その不可能を識りつつ自覚的に自己を絶対化しようとする過程から生れる。これが、芸術家の、しかも、きわめて近代的な芸術家のたどるべき道であることはいうまでもない。

  日本の近代文学の俯瞰(サーベイ)として、実に端的な評言(表現)であるので引いたのであるが、実際、日本近代文学の問題は、一つには自己であり、その確立であった。その葛藤は、透谷や藤村の「文學界」に始まり、「明星」の晶子や啄木に継がれ、さらに花袋や秋声などの自然主義に継がれていった。だが、その自己の確立を阻むものとして、家の制度や世間、さらには国家というものが立ちはだかった。大正に至って、一方ではそうして家や世間から逃れた私小説という形式が生まれたが、他方ではその国家に対して闘い、崩壊していったプロレタリア文学の流れもあった。
だが、そうした「他者」から頑なに自己を守ったのが「白樺派」の文学者であろう。中でも武者小路実篤と志賀直哉はその典型であった。特に志賀直哉はその独自の「自分」の感性をそのまま押し当て、自らの文学と実生活を築き上げた。ここには、漱石が対面した「他者」が徹底的に抹殺されていた。「それから」や「門」、「行人」「こころ」や「道草」「明暗」などにみられた「他者」が、初めから排除されることで、そうした文学世界が形成されている。
   むろん、志賀直哉に危機がなかったわけではない。よもや自身の死に至るかもしれない危機、あるいは仲居との交渉による妻との危機。「城の崎にて」や「邦子」「痴情」「山科の記憶」「濠端の住まい」などの作品は、しかし、そうした実生活上の危機が芸術的に昇華されて読者は、そこにある小動物の生死の描写、その「神のような無慈悲」(平野謙)な透徹した境地に小説の醍醐味を感じたのであった。

   「Ⅹへの手紙」の背後には明らかに「暗夜行路」があるが、そのむこうにはおそらく「明暗」がある。

     江藤がこういうまでもなく、小林秀雄がその初期に、白樺派、中でも志賀直哉の影響を受けていたことは有名だが、その処女作ともいえる「一ツの脳髄」(1924年)は、志賀の「城の崎にて」(1917年)を意識していたようだ。船や自動車を乗り継いで、湯河原の温泉に泊まり、その夜、自己の神経衰弱や母の病気を回想する一人の知識人の「脳髄」のありようを描いたものだが、舞台・結構とも「城の崎にて」に似ており、その感受性にも、「志賀直哉的な嫌人生」(河上徹太郎)がうかがわれる。
    が、志賀なら決して書かぬような一節があると江藤淳は引用している。それは乗り合わせた船の、顔色の悪い、繃帯をした腕を頸から吊るした若者が発する石炭酸の匂いや、膝頭を抱えた二人の洋服の男、柳行李の上にうつ伏した四十くらいの女、これら「醜い奇妙な置物の様な」な周囲の現実に自分も嫌悪を覚えながらも、「自分の身体も勿論、彼らと同じリズムで慄へなければならない」と書いていることで、これはきわめて、批評的だ、というのだ。そこで小林は動いて慄へている現実に不快感を抱き、「それが堪らない」と思いながら、「自分だけ慄へない方法は如何にしても発見出来な」いで、ある滑稽な連帯関係のなかにくりいれられてしまうことをみてとっている。作者は、心ならずも自分の裡にある相対的な感覚を発見してしまった。この相対感覚を江藤は「いわば志賀直哉と夏目漱石の中間の位置にいて、焦燥にかられながらシニカルな視線を現実に投ずるのである」としている。ここに、小林秀雄一流の自意識の胚胎(=批評家の誕生)をみることもできよう。

    ここで、改めて、小林秀雄の志賀直哉讃を観ておくのも意味があろう。小林自身が旧制一中の「白樺派的な文学的雰囲気」に育っていることも大事だが(富永太郎の親炙、その手紙の交流など)、小林はその初期の作家論の最初に「志賀直哉」(1929年)を書いている。
「嘗て日本にアントン・チェホフが写真術のように流行した時、志賀氏は屡々チェホフに比された」「チェホフは二七歳で『退屈な話』を書いた時、彼の世界観は固定した。それ以来、死に至るまで彼の歌ったものは追憶であり挽歌であった」―。
「然るに、志賀直哉氏の問題は、言わば一種のウルトラ・エゴイストの問題なのであり、この作家の魔力は、最も個性的な自意識の最も個体的な行動にあるのだ。氏に重要なのは世界観の獲得ではない、行為の獲得だ。氏の歌ったものは常に現在であり、予兆であって、少なくとも本質的な意味では追憶であった例はないのである」―。
「志賀氏は思索する人でもない、感覚する人でもない、何をおいても行動の人である。氏の有するあらゆる能力は実生活から離れて何の意味も持つことができない」。「懐疑と悔恨―。凡そ近代の作家で志賀氏ほど、これらの性格から遠いものは稀である」。
「然し問題は、芸術の問題と実生活の問題とがまことに深く絡み合った氏の如き資質が、無類の表現を完成したという点にある」。
    志賀氏の文体の直截精確、これを小林秀雄は、氏の「慧眼」と説いている。これは、単に多様な角度で見る目ではなく、「決して見ようとしていないで見ている眼、どんな角度から眺めるかを必要としない眼」としており、その描写の例として、『和解』における子供が死ぬ箇所を挙げている。ああいう事件の顛末を書く眼、これは意識して書くのではない、「氏の眺める諸風景が表現そのものなのである」―。

    なぜ、こうまで志賀直哉を讃するか、この作家を憧憬するか、これは自分たちにはない資質に魅せられたからであろう。志賀直哉のようなエゴティズムをもはや後代は持ち得なかった。ここには、小林が生きた時代の問題もあろう。大正十二年の関東震災を経て、社会も人心も変化していった。そうした〈転換期〉にあって、自分の生きる方向、逡巡が、自意識として作家にからめとられた。そうした自意識の叫びを遺書に書いた芥川龍之介について、小林は、早くも「芥川龍之介の美神と宿命」(1927年)を書いた(芥川氏にあるのは、人の言うような理知の情熱ではなく、寧ろ神経の情緒である、とした)。が、その後の梶井基次郎、中島敦も、こうした自意識の展開といえようが、小林秀雄の自意識の開陳、すなわち批評の誕生によって、われわれは問題の所在とともに、表現の方向を知ることが出来たのである。

    今日、文学の衰退がいわれる。多様な文化・情報がその理由ともいわれる。だが、今日ほど、そのことを含め、批評意識が求められる時はなかろう。なぜなら自己の定立を含め、意識の混迷が、その表白・表現を求めているだろうからである。



 

交流会のご報告、ぜひ!

 投稿者:管理人 iPad 7436  投稿日:2018年 7月13日(金)00時12分25秒
返信・引用 編集済
     交流会が近づいて来ましたね。ご参加の皆さんには、出来れば候補の作品の感想・印象など書き込みをお願い出来たらと思います。あるいは、当日の模様など、事後報告いただけたらと思います。

                              ◯

   追加的に書き加えますと、同人誌掲載の作品についての感想・批評は、いま一番に求められているものと思います。同人誌掲載の作品はともすれば丁寧に読まれなかったり、見過ごされたりしがちです。かつては「文學界」や「読書人」紙の《同人誌批評》があって、一つの指標として、作品の作者はむろん、同人誌仲間、あるいは広く文学愛好者に読まれたものと思います。いまそういうコーナー・紙面が僅少になって、わずかに、インターネットのブログや掲示板で取り上げられるだけになりました。しいて言えば、同人誌同士の受贈などで、横のつながりを持とうとしていますが、やはり多くは送っただけ、受けただけで(中には、ハガキでお礼と簡単な感想を書かれる方はいますが、少ないです)。
    やはり、どういう作品なのか紹介とともに、良かった点、惜しい点など、具体的かつ一定の長さで書くことが大事でしょう。かつては、マスコミの誌紙があったわけですが、今はこれ、SNSがありますね。掲示板は一定の読者、継続的なアクセスが期待されます。いま、各同人誌では自らのホームページを持つものが増えてきて、かつこうした無料の掲示板を持つものも多くなってきています。
   なかには自分たちのホームページを持っていない同人誌もありますが、それには、これ、teacupの掲示板がおススメです。かなり長い文も投稿できますし、編集も削除も随意。また人の投稿についても、意見や感想もいえます。本名で投稿するのは気がのらない人は、ハンドルネームでも結構(でも、どんな人なのか、読者にわかる身分証明はした方がいいですね。例えば「◯◯同人」だとか。
    やはり継続的な投稿者、わかりやすい文が多いとその板のアクセスは増えるでしょう。

     この板は、今度の日曜に開催の「関東同人誌交流会」の掲示板として立てたものですので、ぜひ、皆さんの同人誌の宣伝、あるいは同人募集にどうぞ、書き込み下さい。むろん、個人の意見も歓迎です。
(ちなみに、当職はこの板を立ち上げたものです。今は管理人でもあります。)
 

関東同人誌交流会のお知らせ

 投稿者:管理人 iPad 7114  投稿日:2018年 6月28日(木)13時35分52秒
返信・引用 編集済
    「文芸思潮」の五十嵐勉さんから、郵便でご案内が来ましたので、SNSには当方が代わりにアップしておきますね。

    ◎ 2018 関東同人誌交流会のお知らせ

   たいへん遅くなりましたが、例年のとおり第12回「まほろば賞」に向けて関東の優秀作推薦の合評選考会を行いたいと思います。今回は長い作品が多い結果になりましたが、どうぞ奮ってご参加いただき、熱い合評選考を賜りたいと存じます。同時に同人雑誌の懇談と交流が図れましたら幸いです。
   ご参加いただける方にはすぐに作品コピーをお送りしますので、電話、またはFaxで事務局宛てご連絡いただけましたら幸いです。恐縮ですが、作品コピー代と会場費合わせて800円をご負担いただけましたら幸いです。
●「まほろば賞」推薦候補作
・「バクダッド空港」   えひらかんじ       「私人」94号
・「ダルニーの瞳」       朝川 彪                「カオス」23号
・「大寒の日」              木下径子              「街道」    31号
・「変身」                     河田日出子          「婦人文芸」98号
・「冬の木漏れ日」      難波田節子           「遠近」66号
・「ラスト・マン・スタンディング」    野川  環   「星灯」5号
日時   2018年7月15日(日曜日) 午後1時半から午後5時を予定
場所   大田区民プラザ(東急多摩川線「下丸子」駅前)  第三会議室
    http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/plaza/
参加方法
    以下にご連絡下さい。
    関東同人誌交流会  五十嵐勉宛て
    電話  03-5706-7847   Fax.  03-5706-7848.  メール  igarashi@asia wave.co.jp 携帯電話 090-8171-9771
  ご参加の方は恐れ入りますが、作品コピー代と会場費800円をご負担下さい。
  
 

創刊三〇周年記念「群系」パーティーへのご案内

 投稿者:管理人 iPad 6980  投稿日:2018年 6月20日(水)13時03分56秒
返信・引用 編集済
     群系同人の方から、この板でも、パーティー出席の方を募ったらいかがということで、ご案内を掲出させていただきますね。「群系」誌は昭和63年7月創刊で、来月7月には創刊三〇周年を迎えます。その記念の会合で、広く文学愛好者の方のご参集をお待ちしています。記念の40号の内容は、群系掲示板6月1日付けにアップしていますが、ご希望の方には、お送りします。パーティーのお問い合わせも、メールアドレスは、uf2gmpzkmt@i.softbank.jp
https://8614.teacup.com/snagano/bbs?page=3&


   創刊三〇周年記念「群系」パーティーへのご案内

   皆様にはいかがお過ごしでしょうか。  さて、「群系」四〇号はいかがでしたでしょうか。表紙のアジサイなども好評で、内容的に も充実していたとの声をいただいております。  本誌は昭和六三年七月に創刊されて毎年刊行され、一九九七年には創刊一〇周年(一〇号)、 二〇〇七年には創刊二〇周年(二〇号)、この年から年二回刊行されるようになり、二〇一二年 には三〇号刊行記念、二〇一五年には三五号刊行記念、そして、全国同人雑誌大賞を授与され た年の翌年、二〇一七年にはその記念のパーティーを催してきました。いずれも多くの皆様に お集まりいただきました。インターネット時代、雑誌の投稿者・購読会員は増えて、毎号、質 と量ともに充実してきたものとなってきました。  今回、創刊三〇周年、第四〇号というキリのいい刊行を記念して、左記のような記念のパー ティーを催したいと思います。本誌会員の方はもちろん、広く文学・芸術に関心のある方にお いでいただき、近代・現代の文学、同人誌の現状とこれからについて、あるいはマスコミと読 者のありようなどについて語り合えればと存じます。

             記      創刊三〇周年記念「群系」パーティー
日 時  二〇一八年七月二十二日(日曜)午後三時~五時(受付 二時半)
場 所  京王プラザホテル 本館四七階(最上階)あおぞらの間
       (東京・新宿駅から徒歩十分ほど)
会 費  一万円(当日申し受けます)
                                                    平成三〇年六月吉日
※出席の方は、同封の返信用ハガキ(六二円)に必要事項を書いて、六月二〇日までにご投函く  ださい。あるいは電子メールで、ご通信下さっても結構です。メールアドレスは、
snaganofy@siren.ocn.ne.jp(pc)、 uf2gmpzkmt@i.softbank.jp(iPad)のどちらでも着信します。 書き込み事項としては、お名前と、電話番号、メールアドレス(あれば)、の他に、当日の出席者名簿に書き込む肩書きもお願いします。
例:会社員 教員 など職業(元)、以外に、同人誌のジャンル、関心領域でもいいですね。
      創作 文芸批評 詩歌 近代文学 古典 外国文学 エッセイ その他
※  パーティーは親睦・交流の場ですので、名刺やご著などお持ちになるといいと思います。
 

結愛ちゃんの伝えてくれたこと

 投稿者:管理人 iPad 6854  投稿日:2018年 6月14日(木)02時10分45秒
返信・引用 編集済
     結愛(ゆあ)ちゃんの事件から一週間が過ぎるというのに、マスコミでは未だに彼女のことが取り上げられている。昨日になるが、NHKのニュースでも、目黒の住まい跡に花や菓子を添えて祈りに訪れる人が絶えないということを伝えていた。結愛ちゃんの「ゆるして」というメッセージは、その文を読むたびに胸が締め付けられる、自分たち大人が何もしてあげられなかった、という悔悟の念が生じると人々は言う。たしかに、あのノートに書いたメモはそれを読む捜査員さえ涙したということだ。ニュースで読み上げた女性キャスターも途中でむせんで最後まで読めなかった。それほどに、五歳の女の子の“反省文”は人々の心をうった。まず、このことに留意したい。

    父の暴力を母はどうして止められなかったのか、なぜ実の子をかばうことができなかったか、という疑問に、いや母親も夫の暴力が怖かったのだろうという意見を聞いた。そんなものか、と驚いた。実は父の暴力も、その弱さがなせるわざだ、という意見もあった。香川から上京しても、彼に仕事はなかった。社会的な弱者がそのしわ寄せを、その最も弱いものに向けた、という見解であった。たしかに、事件を単に父がわるい、母も悪い、と言っているだけでは、こうした虐待死はこれからも避けられないだろう。もっと根本的なこと、弱い弱者が、追い詰められないような、地域の連帯、協力関係を作っていくことが、この問題を防止する、まず最初の一歩であるべきだろう。
   それにしても、その地域の連帯の一つとなるべき児童相談所はきちんと機能していたか、という問いに対しては、いや人員も少ない中で、ほとんど自主的には動いていなかったのではないか、という見方もある。香川から東京への転出についても、児相の引き継ぎが有効に機能していなかったということだ。しかし、それでは、幼稚園はどうだったのか。結愛ちゃんの通っていた幼稚園での写真もある(下参照)。幼稚園で、彼女の異変に気づかなかったのか、という問いも生ずる。

    まあ、これから捜査も進んでいくだろうが、いたいけな彼女がわれわれ大人を感動させたこと、かわいそうと涙させたことは、このある面無機的な社会、世間において大事なこと、人間っていうもののありようを気づかせてくれたことは事実のようだ。
 

女児の虐待死

 投稿者:管理人 iPad 6780  投稿日:2018年 6月10日(日)20時15分20秒
返信・引用 編集済
      最近、小さな幼児への虐待、殺害のニュースがよくきかれる。新潟では線路上で女児が置かれていたという。犯人の若者はクルマの中で女児が大声をあげたので、首を締めたという。あるいはベトナムの女児を殺害したとされているのは、学校のPTAの会長だという。自分の立場を守るためか、事実無根、検察のでっち上げ、と叫んでいる。さらに今回ひじょうに悲しい事件になったのは、目黒の女児虐待死である。食事もろくに与えず、冬の寒い中、部屋には暖房もなく、時にはベランダに裸足で出され、あしうらには霜焼けが出来ていたという。日頃から殴る、水をかけるだの、信じられない暴行がいたいけな子供に加えられた。特に耳目を嘱されたのは、この女児のノートに書いたという、両親に許しを乞うメモ書きだ。もうこういうことはしないから、ぜったいにしないから、ゆるしてください、という読むのもつらくなる文面だ。iPadで、女児の名、結愛ちゃんで検索して、テレビのワイドショーの報道を何度も見たことだ。
    いったいに、虐待している親などは、愛情どころか、自分の感情、あるいは自己の立場中心に動いていよう。だから女児の、切なる訴えも感じ入ることがない。気に入らないとすぐ手が出るのだろう。それにしても、この子の立場で考えると、胸がつまる。許しを得ないとますます辛くなると追い詰められて考えたのだろう。彼女の孤独、未熟、を考えると余計にせつなくなる。相手は大人であり、こっちは誰も味方がいないという、閉じ込められた環境だ。死ぬ、というのも時間の問題だったかもしれない。

   以下は、大学ノートに記したとかいう、結愛ちゃんのメモである。これは多くの人が全部を読みきれないというほど、哀切極まるものだ。文学を言う前の、人間の原点があるように思う。

       ママ もうパパとママにいわれなくても しっかりとじぶんから
      きょうよりかもっと あしたはできるようにするから
      もうおねがいゆるして ゆるしてください おねがいします
      ほんとうにもうおなじことはしません ゆるして
      きのうぜんぜんできなかったこと
      これまでまいにちやってきたことをなおす
      これまでどんだけあほみたいにあそんだか
      あそぶってあほみたいだからやめる
      もうぜったいぜったいやらないからね
      ぜったいやくそくします
      もう あしたはぜったいやるんだぞとおもって
      いっしょうけんめいやる やるぞ

     5歳といえば、翌年小学校に上がる、これからいろいろなことをやって楽しんで、遊んで、学んでいくその途上にある子だ。ものごころが付きつつあり、うれしいこと、たのしいこと、またかなしいことがわかってくる年頃。幼児から子供になる時期、でもまだまだ保護が必要とされる時期だ。わたしたち大人はそういうことがわかるから、それらの必要を満足されず、ひもじい思いをしつつ懸命に生きようとしていたこの子に、つよく共感する。ほんとに生きていて欲しかった。どんなに痩せても、最後は保護されて、適切な医療を受けて、再生して欲しかった…。
     子どもが子どもらしい、適切な環境にいること、それを満足させられない国々が世界にはたくさんある。しかし、とびきりの先進国のこの国で、それも東京の真ん中でこんな悲劇が起ころうとは…。
     結愛ちゃん、美味しいものを食べて、楽しいことをいっぱいやって、ね。

https://mainichi.jp/articles/20180609/k00/00e/040/258000c

 

銀華文学賞復活

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2018年 6月 5日(火)00時01分29秒
返信・引用
  かねてから願っていたことですが、そうした動きになっているとのこと、大へん喜ばしいことと思っています。この賞の復帰とともに、文芸思潮の人気は再び盛り上がるであろうことを確信しております。  

デスクトップpcとiPadの違い

 投稿者:管理人 iPad 6287  投稿日:2018年 5月 7日(月)01時25分53秒
返信・引用 編集済
     デスクトップパソコンが使えなくなって、一ヶ月近くが過ぎただろうか。雑誌の原稿の受容、印刷所への転送、また出来た初校ゲラのPDF などの返送などは現在全てこのiPadで行なっている。iPadはapple社の製品だが、Windowsの、すなわちMicrosoftのwordなども添付できる。小さなこのiPadで、写真も送れるし、サイズの限界はあるが動画も送ることが出来る。大きなサイズで、かつ公的な内容の動画はこのiPadで撮ったものも、他で撮ったものもファイル共有すれば、ともにこのiPadからYou tubeへアップ出来る(これまでパーティーや合評会の動画をいくつアップしたことか)。またこのiPadでは同人誌への投稿原稿も書ける。ノートパソコンのようなキーボードは付いていないが、文字を打つときは、画面下にキーボードが映し出される。一つ一つの文字に凸部分はないが、タイピングするのに支障は全くない。原稿はメモのアプリにも書けるが、最近はpagesという固有のワープロソフトを発見してそこに書いて(打って)いる。

    さてそれではデスクトップpcは不要か、というと当方の場合、そうはいかない。編集責任者ということもあるが、なにより当該の同人雑誌の固有のホームページを作成途中のままだから、である。さすが、ホームページ作成はパソコンなしでは出来ない。まず、作成ソフトをpcにインストールするには光学ドライブが必要なのである。iPadにはそのドライブがない。
    最近のノートパソコンにもそのドライブが付いてないのもだいぶ出てきているようだ。パソコンメーカーの担当者にある時電話で話した時、ついでに聞いたのだが、今時のパソコンも、そうした光学ドライブがないのも出ているそうだ。そうなれば、たとえばofficeなどのアプリをインストールするにはどうするの、以前はそうしDVDなどがあって、それをドライブに入れたものだが。すると、担当者が言うには、いまは基本的にそれらもすべてネット経由でインストールするのだという。officeつきのpcの仕様に、「officeイメージ」とあるのは、インターネットで受信・ダウンロード、それからそれらwordやExcelをインストール出来る、という意味だそうだ。
    当方のiPadの文書はそのままでは印刷出来ない。デスクトップのインターネットが復活すれば、ワード文書などをメール転送して、デスクトップpcからプリンターにデータを転送、印刷が出来る。プリンターにブルーツースの受信装置があれば(すなわちiPadの無線が受信出来れば)、iPadのデータも直接送って、印刷は出来るが、それは新しいプリンター購入後の話である。逆に言えば、周辺の便宜が整えば、iPadで印刷も、アプリのダウンロード、インストールも全て出来るということだが、当方としてはそうまで一極集中させることを好まない。すべてがiPad、仕事も余暇も、そして印刷もHP作成もiPadとなると、さすが機能不全になる(小生自身も)と思うからである。

    となると、ではどんなデスクトップパソコンがいいのか、その選択に迷うことになる。
 

新規のデスクトップ

 投稿者:管理人 iPad 6157  投稿日:2018年 4月29日(日)22時02分6秒
返信・引用 編集済
     デスクトップパソコンのインターネットが出来なくなって、原稿の授受はこのiPadが頼りである。今回ダメになったのはdell製のパソコン、Windows10がos で、まだ導入して2年もたたないのに、マシンのネットを司る心臓部がやられた。復旧するには、os を工場出荷時に戻す必要がある、と派遣のパソコン専門家は言う。当然、データは全部、他のHDやUSBメモリに保持しておかねばならない。料金も45,000円かかると聞いて、これは新規購入にしかないと思い、時間があれば、パソコン購入サイトを覗いている。購入するには、ひょっとしてこれが人生で最後のデスクトップと思って(大げさ)、なるべく安くていいのと思って、hp製のslimlineか、dell製のNew Inspiron、か二択に絞っている。ともに同じシリーズでも、価格が下から上まであるが、せっかくだから、プロセッサーは第7世代 インテル® Core™ i3-7100以上、メモリは4GB以上、が欲しい。HDDは画像や動画はそうたくさん保存しないので、500GBでいいのに、いまは大抵1TBもある。クラウドもあるのにねえ。

    http://jp.ext.hp.com/desktops/personal/hp_slimline_270/

   http://www.dell.com/ja-jp

    しかし、最近は、原稿の授受(印刷元への転送も含め)、全てがiPad一つで出来ているので(原稿執筆もiPadだ。pagesという、Windowsのwordに似たものがある)。それでも、デスクトップにこだわるのは、ホームページ作成ゆえか。ま、少しは彼の(パソコンの)領分を残しておかなければ、ね。
   しかし、何度も小職は言っているが、iPadの手軽さは、Windowspcの比ではありません。思った通りに検索、操作性が見た目通りなのです。この点は、マイキロソフトのビル・ゲイツよりも、マックのスティーブ・ジョブスの方がエライです。
 

iPadのword、pagesは便利!

 投稿者:管理人 iPad 6057  投稿日:2018年 4月25日(水)15時33分45秒
返信・引用
     下の芥川論解題については、iPadのアプリに、Windowsのwordに相当するものを発見して(!)、そこで用を足すことが出来たので、下のものはまだ中途ですが、これで終わりにします。関心を持っていただいた方にはすみません、「群系」40号に掲出しますので、ご覧ください。なおワードに相当するiPadのアプリは、pages といい、驚くことはこれをさらに、wordやPDFにー発変換出来ることです。ま、それでwordに変換、印刷元に添付で送って、初校ゲラを得たところです。  

レンタル掲示板
/83