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井口氏の句集より その3

 投稿者:管理人 iPad 899  投稿日:2018年 1月12日(金)13時44分55秒
返信・引用 編集済
     ひきつづき、井口時男氏の句集『天來の獨樂』より  (p60以降)

     能登半島  七句より
1   同宿は馬の尿(ばり)ども能登の夏

2   奥能登やここにはここの蝉鳴きしきる

3   ひるがほや能登金剛をやさしうす

     追悼・秋山駿
4    ごろた石のぬくみなつかし河原菊

5    蛇にも秋ずるりと冷えた身を運ぶ

6    ポケットに胡桃一顆を尖らせて

7    ぬれぬれと雨後の満月きのこ太る

8    落葉踏んで錆びた殺意を埋め戻す

9    焼鳥の香にそぞろ神いまそかり

10   アルビノの鯉は沈めり寒椿

11   革命の書(ふみ)読む夜や大くさめ

12   をんな病むとか椿の家は小暗くて

13    ころがれ子らよ花の堤で目まひせよ

14    花かげに養(か)ふ不機嫌のこの獣

15    「国歌斉唱」蜆は蜆を生み継げよ

16    波斯菊(ハルシャギク)乱れよ団地解体す

17    蕁麻(イラクサ)や微熱あるわが神経叢

18    敗戦忌夭(わか)き死はみな汗臭く

19     雑踏を突つ切る秋のがらんどう

20     我がはらわたもかくは苦きか秋刀魚啖(く)ふ

21     粗塩にまぶせ言の葉富士冠雪

22   「原子の火」こぼれてセイタカアワダチソウ

23     セシウムをめくれば闇の逆(さか)紅葉

24     還暦や親不知に沁む寒の水

         光部美千代さんを悼む  四句   より
25     添ひ臥しのたましひ濡れて花に雨

26     かなしめばこぼれてゐたる花あせび


     9ページから103ページまで、1ページには平均三句掲載だから、300句近くあるうちの26句、先に掲出した17句を入れても、全体の一割近くにすぎない。まず、こうした抄出であることを了解されたい。ただでさえ短い句世界のほんの一部なのである。
    掲出した基準は、まず面白いこと、そして了解可能なこと(コメントが出来ること)、逆に了解に危惧があっても、何か所以がありそうなこと、掲出したいこと、などが理由となろう。

     句作を他人が注するのは危ういことである。どんな捉え違いがあるかわからない。それでも最大公約数の了解を目途に注解する。なぜするか、一言、面白いからである。

     まず、冒頭の1と2。すぐ連想する人もいようが、芭蕉の句を思う。むろん、『奥の細道』の「蚤虱馬の尿する枕元」と、「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」であるが、1は「同宿は馬の尿ども」とあって、場所も時も異なるが、芭蕉と同様な境地になっていよう。2も、「ここにはここの」「蝉鳴きしきる」のことわりがある。3は、「能登金剛」の題詞があるが、そのほとりにひるがほが咲いて、金剛の地も旅人をなじませる。「やさしうす」は俳句ならでは言表である。
     4は、文芸評論家・秋山駿への追悼句。「ごろた石」は、地面に転がっている石ころ。『内部の人間』以来、秋山氏のキーワードは「石ころの人間」であった。内向の世代一流の自己凝視。それを作者は「ぬくみなつかし」と受けている。(作者、暮れに刊行の講談社文芸文庫の秋山駿『小林秀雄と中原中也』の解説を書いているそうな)。
     5、「蛇」を受けて「ずるりと冷えた」と続ける。こうした擬態語の妙。欧米語ではどう表現するものか。6、「ポケット」と「胡桃」の子供言葉に、「一顆」と「尖らせて」の大人の自我。7、「ぬれぬれと」と「きのこ太る」が妙にあう。
    8、「錆びた殺意」は前にも同工の句があったが、こうした内面こそが作句の必然。「錆びた」「埋め戻す」に躊躇いと時の経過を思わせる。
    9、「焼鳥」にも神がいらっしゃるのだ。そわそわと人を誘惑する神さまが。
   10、「アルビノ」は、メラニンが欠乏する遺伝子疾患だが、「鯉」にもそうした疾患があるようだ。白い鯉は見かけることがある。「寒椿」との対照でけざやか。
   11、題詞に、「北一輝『日本改造法案大綱』を読みつつ」とあるが、作者ならではのことである。俳人には医者や政治家、等インテリも多いが、北一輝を読む俳句作者がどれほどいようか。「大くさめ」がきいている。
   12、めずらしく女人のすがた。25、26の人と関連するか。「椿の家」がポイントか。「小暗くて」と言いさしするのが、韻文の妙。
   13、これはまた一種明るい句。「ころがれ子らよ」と呼びかけ、「目まひせよ」と結ぶ。「花の堤で」が中にあるのがいい。14、これも微笑ましい一句。「不機嫌のこの獣」のいいさしがいい。こいつは、作者お気に入りの猫、かどうか。
   15、「国歌斉唱」にカギカッコがある。また、以下の「蜆は蜆を生み継げよ」の受けもわかるようで、今ひとつ分からない。「蜆」は民草、すなわち国民を意味するか。「蜆」の語には、梅崎春生の同名小説を思わせる。
   16、「波斯」は、ペルシャと打つと出てくる。波斯菊は、キク科の一年草。空き地や道端に咲く。解体された団地のそばに何気なくその黄色い花が咲いている。「乱れよ」に作者の感慨があろうか。
   17、作者の句には思いのほか、植物がおおい。「蕁麻(イラクサ)」もその一つだが、これは「蕁麻疹(ジンマシン)」にも使われるように、薬草でもある。「微熱ある」は、近頃の「微熱少年」の先発形か。
   18、終戦日といわれるこの日、「敗戦忌」と捉えるところに、作者の立ち位置はうかがえよう(がこれはこの板などの読者には多かろう)。案外に、先の大戦のこと、その悲惨を吟ずる俳句は多い。多くを語らぬ短詩だから、the rest. Is  Silenceで、余白の沈黙は読み手のそうぞうりょくに委ねるか。
   19、「がらんどう」の語には、思い出がある。皆とやっている文芸同人誌で、川端康成の特集をしたとき、同人の一人が、川端の文学を一言、「がらんどう」と題して、一論文を草した。何もないからっぽうのことだが、欧米ではただの空無だが、この国の言葉ではもう少しの余韻がある。この句もこの一種か。
   20、秋刀魚のはらわたは苦い。わがはらわたも同様か。微笑と苦笑の一句。この国ならではの句。
   21、この句には、やや長い題詞がある。いまここにそれをしめす。
         十月十六日、「群像」が新人文学賞の評論部門を廃止したことを知る。同賞を受賞して仕事を始め、十五年前に『批評の誕生/批評の死』を書いた身として、感慨無きにしも非ず。折しも富士山初冠雪。
       評論部門の廃止ー。なんとも切なく、義憤も感じる。いや、悲憤慷慨ただならずだ。批評があってこそ、この世のひみつ、秘儀を知れる、というもののはずだ。やはりアニメ全盛、目だけで感動せよとか。もはや「言の葉」は、「粗塩(あらじお)でまぶ」すしかないのかー。
    22、23は、3・11の震災、原発事故を受けた句。この悲劇をどう御したらいいか、表現者の念頭に爾来あったことだろう。俳句という短詩形で示すのはとりあえずの対処法。「原子の火」とやはりカギカッコ。原発運転の当初は、この永遠のエネルギー(に見えた)にどんな期待をかけたことだろう(私事であるが、荒正人の評論に「火ー原子エネルギー」というのがあった。雑誌『近代文学』の〈未来人〉といわれた俊秀にも期待があった)。だが、実際には、「火は」「こぼれ」てしまった。「セイタカアワダチソウ」だけが、繁茂しているとは嘱目だが、厳しい現実の受け止めがあろう。23も「セシウム」の語彙が全てを物語っていよう。「闇の」「逆紅葉」が吟じ手の認識。
   24、「還暦や」「親不知」にこの句趣はある。この感懐は人様々だろうが、評者も人も、還暦は今や一里塚に過ぎない。
    25、26の二つには、作者の言い知れぬ思いがこもっていよう。悼む対象の人は、そもそも作者に俳句の面白さを伝えた人だった。高校の句会の主宰者だったそうだが、その方は少し前に鬼籍に入っていたそうな(それを作者はインターネットの検索で知ったとか)。過去の追憶の思いとともに、ばんかんの思いで作句した。25、「添ひ臥し」と「濡れて」「花に雨」の言葉に、言い知れぬ色香の姿がただよう。だが、それは「たましひ」なのだ。26、「かなしめば」にこの作者にはめずらしいほどの気持ちが率直に表れていよう。「花あせび」におもいを象徴させるか。
     この対象の女性については、この句集にある七つの随想の最後に、「光部美千代さんを悼む」という文章に委細が書かれている。この15ページに及ぶ文章こそは、この間然するところがない句集の白眉というべきだろう。評者は、何か言いたいが、粛然とした気持ちでこの小文を終わるしかなかろう。ここまでお読みいただいて感謝します。
 
 

井口氏句集の随想から

 投稿者:管理人 iPad 372  投稿日:2018年 1月 8日(月)15時51分1秒
返信・引用 編集済
      井口時男氏の句集を時折開いては、鉛筆片手に各句をチェックしている。案外に奥深いもので、これは単なる嘱目吟か、それとも深い寓意があるのかといろいろ考え、あぐねている。傍にiPadを置いてわからない語句は直ちに検索して。
    自分も国語教師を務めた身、それなりの語彙の知識、地理も歴史も好きで風物の知識もあると思ったが、もう氏の蘊蓄と、語彙に対する的確に首を下げ下げである。時折詞書があって、吟じられた場所・空気を知ることも出来るが、多くはわからないでそのままやり過ごす句も多い。それでも、いくつか吟行を共にして行くうち、氏の吟じる姿勢、手振りも多少感じられてきた時、ふと目にしたのが句集の後半に折りたたまれた随想であった。これを読んであっと思った。なんだ、ここに作句の機縁が書かれているではないか。それも俳人にはないほどの詳しさ、丁寧さ、さて的確さで(さすが散文の猛者)。そこには、氏の俳句への認識、作句態度も書かれてあって、なるほどと思った(実に明快で共感出来た)。以下に、そのブリフィーングを試みる。もとより、12ページにもなる随想の、ほんの勘所を抄出するのだから、わかりにくい箇所もあるかもしれぬ。それは乞容赦。ぜひ、本句集を手にされたい。
                                        七篇ある随想の巻頭にある「突つ立ち並ぶ葱坊主」(2012年12月記)より

                                           ◯

107p
    近ごろ、時々俳句を作っている。散歩を始めたのがきっかけだった。

【注】
    この散歩のきっかけは、腹部大動脈瘤の切除手術がきっかけだったとある。このことは仄聞はしていたが、この後二十年務めた大学も辞められたとか。惜しまれたことだろうが、正しい選択だったと思う(当方も大病を経験したが、氏のような要職にはなかったので気楽ではあった)。

108p
    以後、努めて毎日歩いている。まったく、自分の生涯に散歩する日々などが来ようとは思ってもみなかった。

【注】
    学生時代の散歩は、「ただのうろつき、不審な徘徊だった」とあるが、内面に何かを抱えた人間はそういうものではなかったか。スポーツマンでもないかぎり、ランニングも散歩もなかった。中年以後、病気などの機縁で、次の人生が始まる。


     散歩を続けられたのは、近くに多摩川が流れていたおかげだ。水は無聊を慰める。
【注】
     「同じ経路を何度でも歩けば、おのずと風景の細部が目に留まる」として、見た光景、出来た「最初の句」が先に引いた、以下の句だ。

         わらわらと抱かれ曳かれて春の犬

111p
    しかし、句作が多少継続したのは一九八四年の二月から翌年にかけてのほぼ一年間だけだ。
【注】
  「古い句帖」とあるように、最近の句作の前の往時のことが書かれる。「当時、勤務していた高校に俳句好きの若い女教師がいて、彼女を中心に同僚が集まって素人句会を開いていた」ー。

          気 疎(けうと)しや木々芽吹く朝咳く男

     三句あるうちの一句をあげる。「すべて嘱目の実景、実際に発した句だが、自意識が棘立ってもいる」として、「木々芽吹く朝に咳いたのはこの私ではなかったか」とあるのは、嘱目吟を是としながら、内の自意識も隠さない作者らしい。

続いて書かれるのは、氏の作句論、いわば俳句(吟)の本質論だ。

111p
    五七五、十七音の俳句は、短歌の七七を捨てた結果、自分の思いを述懐する余地がない。だから俳句は、抒情を削ぎ、内面を切断する。

    さて、その俳句の本質について、井口氏は次のように言う。

112p
    俳句はただ、世界を小さく、鋭角的に切り取るだけだ。その切り取り方の角度が世界と向き合う角度であり、逆にたどれば自己と向き合う角度である。
    俳句に「思想」の表現などというものが可能だとすれば、そしてその「思想」がただの標語でないとすれば、この世界意識=自己意識の構造がかろうじて支えるしかないのだと思う。

【注】
    よくぞ、言ってくれた。俳句にも「思想」があり得る。それも、自己意識が辛くも支えるものとして。これは、後で述べるように、短詩形の世界史的文脈においても、稀有な可能性なのだ。

112p
    三十年前の自意識の棘立ちに比べれば、三十年ぶりの私の自意識はかなり穏やかだ。…日課としての散歩が長年無視し続けてきた自分の肉体という自然との「和解」という試みであるのと同じく、句作もまた、無視しつづけてきた風景という自然との「和解」の試みだからである。

【注】
    ここで氏が頻用する、「和解」ははしなくも、志賀直哉の〈和解〉をおもわせる。対立してきた父との和解、すべてを受け容れる境地になる。氏は、定義して次のように言表する。

112p
     「和解」は、自然にせよ人間にせよ、意のままにならない他者の存在を認知し
対象化することから始まる。この際、ユーモア(俳味)もまた「和解」の一形式である。

【注】
   ここから、氏の嘱目吟が始まる。対象を見たとおり、そのまま吟じる。「十七音の短詩が世界の多様性との接触を保持するにはそれしかない」ー。

113p
    …だが、人よりも犬や猫、ことに猫の方に私の目は行く。出会う犬はみんな紐で繋がれているが、猫どもはみんな野良だ。たぶん、猫の句がいちばん多い。

           春昼や己が尻尾をねぶる猫

微笑ましくもあるが、場所柄、以下数句あるが割愛。

116p
    認識と表現のエコノミーを本質とする俳句が、一種の寓意性、警句性を内蔵しているのは確かである。…俳句をヨーロッパに紹介したチェンバレンは、類似の詩形がないのでしかたなく、俳句を「エピグラム」、つまり詩的警句と訳していた。そこには、詩の小片という古い語義があったのだそうだ。
     なるほど詩の小片かもしれない。しかし、ものもろくに云えないような不自由な小片である。この小片は、言葉というものへの断念をさえ要求する。こんな詩形は他にない。

【注】
    それでも、井口氏がいま、この寡黙な小片に魅かれるのは、「いまの私が、小説だの批評だのといった饒舌なジャンルに飽き足りなくなったせいかもしれない」とー。
    批評というジャンルで、おそらく戦後世代でもっとも大きな達成をなした氏の現在の境地として、関心を持って聞き耳を立てる。しかし、俳句もやる批評家として、これからも活躍してもらいたい、というのが、読者の大方の希望であろう。


    
 

俳句いくつか

 投稿者:管理人 iPad 272  投稿日:2018年 1月 7日(日)20時03分6秒
返信・引用 編集済
     文芸評論家である井口時男氏はこの数年、俳句に嗜んでいるそうだ。
まったく門外漢ではあるが、当方なりに気になった句をいくつかあげさせていただく。

     1  我こそは柑子盗人山の月

      2  火のごとき暴動あれよ雨季近し

      3  秋風や魚につめたきあぎとあり

      4  まなこ病むまなこの底に冬を飼ひ

             祖母の通夜に
      5   短夜を腰の伸びたる仏かな


      6  わらわらと抱かれ曳かれて春の犬

      7  春昼や己が尻尾をねぶる猫

      8   炎天やびつこの犬が土を嗅ぐ

             網走    永山則夫の故郷
      9   晩夏光網走川はとろとろと

     10  網膜を灼く 帽子岩陰画(ネガ)の夏

              恐山
      11  秋地獄ぺらぺらまはる風車

      12  口寄せを了へてイタコは腰を伸(の)し


      13  そは猫攫ひこは柿盗ツ人いづれ白浪

      14  小春日のダチュラしなびてぶら下がり

      15   犬ふぐりまづ花々に先駆けて

      16  連翹や蝶生(あ)るる日の陽のながれ

      17  寝小便ほたるぶくろの朝まぶし

                                                         『天來の獨樂』ー井口時男句集 ー(二〇一五年十月十日  初版)より

    全く任意の抜粋であるが、句集の前半から掲出させていただいた。166ページほどの句集のうち、7pからは「古い句帖」からとあり、25pからは「 新しい句帖」からとある。また、107p以降は「随想」が七つ折り込まれている。ここに上げたのは、冒頭から、59pまでの句であって、全体の三分の一でしかない。
    さて、掲出したからには、コメントの一つでも加えねばなるまい。1は、1979年の作とあって、句集の巻頭にこれが掲出されている。「我こそは柑子盗人」とあるのは、ガキ大将の自恃だろうか、おもしろいことに、13の「新しい句帖」の一句にも通うところがある。3の句の「あぎと」は、アゴのことでここに詠みの焦点がいく。同じく4も「冬を飼ひ」が焦点だろう。
    6、7、8は犬と猫が詠まれるが、6の「わらわらと」とがきいている。多くのもの(ここでは犬)がバラバラに集まること。どういう光景か、犬にとって不幸なことか、あるいはエベントなどのことか。7はまさしく春眠のひととき。8は一転して、なにか宿命のようなものを感じる。梶井の「冬の日」に出てくる、糞まいる犬をおもいうかべた。
   9、10は作者ならではの句。永山の生まれ故郷・網走を詠んだ。ネットで検索すると、網走川があり、海岸には見事な帽子状の岩がある(必見)。むろんこれだけでなく、永山の育った青森・板柳の風景も逸することはできまい(作者は、「板柳訪問」他の散文でその地を綴っている)。
    11と12も連作の部分だが、「ぺらぺらまはる風車」と、「口寄せ」(検索)のイタコがきいている。
    14のダチュラは、チョウセンアサガオのことで、句にある通り「ぶら下がっ」っている。15の犬ふぐりは、イヌのふぐり(陰嚢)に似ているというが、ツユクサに似た青い清純な花である。句作においては星に見立てたのもあった。15の連翹(れんぎょう)はモクセイ科の黄色い花。17のほたるぶくろも、キキョウ科の花で、釣鐘状に咲く。
   かようにiPadで検索しないと、素人には詳らかにしない(おかげでだいぶ勉強になった)。

    俳句は、虚子のいうように、花鳥風月を詠むのが主流だろう。その意味では、短い言表で対象を観照的に読み込むのがポイントだろうが、作者ならではの内面の表出がないとはいえない。2の「火のごとき暴動あれよ」はそうした疼き、あるいは現状への不満が現れているものか。そうした思いは、8~10にもうかがえようが、ここに掲出した以外の句に多く見られたが、またの機会にしたい。

追加
   6の句は、多摩川の散歩で出くわした光景とのこと(後にある随想から)。ま、それで「抱かれ曵かれて」がわかった。微笑ましい情景である。





 

文学とは何かについて

 投稿者:管理人 iPad 282  投稿日:2017年12月24日(日)23時51分10秒
返信・引用 編集済
     このテーマについては、観念的に理屈でああだこうだいうより、具体的な作家を上げるのが最も説得的だろう。文学(者)とは、例えば梶井基次郎、をここではあげよう。かつての論稿から一部を掲出してみる。


  ・・・改めて梶井基次郎の諸作品を読み、感じさせられたのは、文字による表現がいかに人間やその周囲の自然、あるいは宇宙といったことまで巨細に描き分けることができるのか、といった驚きであり、またいかに、たとえばわれわれの幼年期の記憶にまで遡り、あるなつかしさを感じさせたか、であり、総じて文学表現というものが、人間の営みの中でいかに信頼のできる、われわれの生きる内実に即応しているかの、発見であった。

    まずある詩人の梶井讃の言葉を掲出したい。

      本質的な文学者                  萩原朔太郎
   日本の文学に対して、僕は常に或る満たされない不満を持って居た。それは僕の観念する「文学」が、日本の現存してゐる文学とどこか本質に於いて食ひちがつて居り、別種に属して居たからである。然るに梶井君の作品集「檸檬」を読み、始めて僕は、日本に於ける「文学」の実在観念を発見した。(中略)
   僕は考へる。文学の條件すべき要素は、単なる理智でもなく、観照でもなく、またもとより、単なる感覚や趣味でもない。文学の真の本質は、生への動物的な烈しい衝動(意志)に発足して居り、且つその意志が、対象に向って切り込むところの、本質の、比較解剖学的摘出でなければならない。(中略)
    梶井基次郎君は、日本の現文壇に於いては、稀に見る本質的文学者であった。

   この朔太郎の文章は、梶井没後に刊行されることになった全集(六蜂書房版・昭和9年、没後二年)の内容見本に載ったものであるが(新全集では別巻に所収)、こうした梶井文学の〈本質〉におりたった讃仰は、他にも見受けられる(管見では、小林秀雄、井上良雄など、戦後派では、『近代文学』同人であった佐々木基一など)。
                 「梶井基次郎  表現としてのメタファー  ー「ある心の風景」「冬の日」に即してー」
                                               (「群系」第15号 〈特集 梶井基次郎  珠玉の文学世界〉2002年より)

    いかにも朔太郎らしい言喩であるが、この朔太郎と基次郎との共鳴し合う時空間に、一つ文学なるものの表出が見られるのではあるまいか。
 

北朝鮮には、小林秀雄は生まれない。

 投稿者:管理人 iPad 961  投稿日:2017年12月22日(金)18時34分48秒
返信・引用 編集済
    北朝鮮のニュースが今世紀に入って引きも切らない。特にこの数年、金正恩という若造がトップになって以来、この国のマンガのような動向に、メディアも大国も振り回されている。やれ、核だミサイルだ、の核時代ゲームは前世紀で一応収拾がついたのではなかったか。この国のことを、嘲笑いながら、真摯な対応をする政治家やメディアは現れないものかー。
   不思議なのは、こんな小さな国に、アメリカを始め、日本も皆、振り回されていることである。GDPでいうと、日本の東北地方の一つの県の総生産しかない国に、振り回されている。いまの時代に、今さら核、大陸間弾道弾などといわれて、各国が右往左往している。これはどういう事態なのだ。アメリカが本気を出せば、赤子の手をひねるようなものではないか。
   確かに狡猾な北朝鮮は、ICBMだと言って、米国のどこかを核着弾の恐怖でもって、情勢を支配している。しかし、こんな話、危惧は前世紀のことではないか。今さら核の恐怖に怯え、子供じみたわがままをどうして許すのか。ことは、人道上の問題である。   北は、自国の安全を守ること、その手段が核であろうと、固有の権利だ、などとほざいているが、彼らがいう、「自国」とは、金正恩一派だけのことではないか。人道上の問題とは、核を向けられている国民、人びとのことをいうだけでない、北朝鮮内部の、彼の国の人民の人道上、今の金正恩政権は至って害悪だと言いたい。
    この数ヶ月、彼の国の漁船、イカ釣り船の、我が国への漂着がニュースとして流されていた。なんとも見すぼらしい木船で、多くの漁民がそこには乗っていた。皆、栄養状態もよくなく、さらにイカ釣りのノルマがあるという。漂着したからまだいいほうで、下手をすれば遭難・沈没も普通に考えられる。こういう厳しい労働条件のもとの労働、どうしてこれが労働者の国のものいえようか。中には実際遭難して遺体で発見された漁民も一、二の例ではない。彼らの労働条件、栄養状態の劣悪なこと、他国のことながら、義憤、同情の涙を禁じ得ない。
   驚くのはこうした末端の労働者のみならず、精鋭とされる兵士、特権階級とされる北朝鮮へいしにもこうした栄養状態の劣悪が見られたことだ。二、三ヶ月前の、38度線を超えてきた北の兵士、傷ついて南の介護を受けたが、ついに亡くなった彼の体から、なんと寄生虫がわんさと出てきたというではないか。我が国なら終戦直後の話だが、現代の21世紀の今日、精鋭と言われる兵士がこのざまである。
   怒りが湧いてくる。こんなバカな幼児的政権はいますぐにでも、転覆させるしかないではないか。脱北に失敗した人民、思想的に問題のあるもの、これらは皆、収容所送りだという。まるでナチスではないか。

   当方は、この国に自由はあるのか、特に学問や思想の自由は、と考えた。確かに技術的なこと、科学に関する探求・研究の自由はあろう。しかし、人文社会科学の自由はあるか。まったくもって、それは不毛の問いでさえあろうかと思ったのは、北朝鮮の国の内情をWikipediaで調べたときであった。なんと大学の名前に、金日成の名前を冠したものが数多くあるではないか。これでは、思想の自由、文学の営為は計れないと心底思ったことである。
     Wikipediaでの大学例
   金日成放送大学
   金日成軍事総合大学
   金日成政治大学
   金正日政治軍事大学
   金正淑海軍大学
   金日成総合大学
    地獄。知らないものは、そういう感覚もないであろうが、我が国のような国で文学に馴染んできたものにとっては、この国は地獄、でしかない。
 

芥川龍之介の死について

 投稿者:管理人 iPad 397  投稿日:2017年12月11日(月)20時48分26秒
返信・引用 編集済
     転換期の作家として、作品とその身ともに時代を表した作家として芥川龍之介はその第一に挙げられるであろう。明治以来、この国の近代という時代は繊細な個人に大きな犠牲をしいた。近代に抗って、二十代で夭折した、三人のT、として、北村透谷、石川啄木、小林多喜二をあげたのは、小田切秀雄であったが、確かにこれらの作家は、時代に先んじたその資質、世界観ゆえに自滅せざるを得なかった。だが、こうした明らかな犠牲に対して、芥川の場合は一見なんだかわからない自殺であった。本人も、「ぼんやりした不安」と。いっている。
   以来この芥川の死を巡って、多くの人が論じていったのは、周知のことであろう。当時代表的な見解としては、宮本顕治と小林秀雄のそれであろう。
   宮本は芥川の死を見て、その文学を「敗北の文学」とした。勃興する新しい勢力を目の前にみながら、結局それに与することなく自滅したことの謂いであったが、この勃興する勢力とは、大正期になって勢いを伸ばしてきたプロレタリア勢力であり、その文学活動であった。当時、この運動の勢いがどんなものであったか、というと、東大に新人会という左翼のサークルが出来、セツルメント活動に奉仕する学生も現れた。労働者はむろん、学生も無産政党に参画することが多くなってきた。この熱病のような左翼熱は、当時学生だった津島修治(太宰治)でさえ、「唯物弁証法は否定することの出来ない真理だ」としていたような具合だった。当の芥川も、その遺作となった「玄鶴山房」の最後に、リイプクネヒトを読む学生を配して、滅びゆく暗い山房の古い世代と対比したのであった。だが、結局、その勢力に自ら参画することなく、晩年を苦悩のうちに過ごした。宮本顕治はその芥川にむしろ同情的に、「芥川氏は自らのプチブルインテリゲンチャの苦悩を噛み締め誠実に羽搏いた」(要旨)とした。
   芥川の実像をむしろ冷静に裁断したのは小林秀雄であった。昭和四年の、「改造」懸賞論文に「様々な意匠」が二席で当選してデビューした小林は(一席は、宮本顕治「敗北の文学」)は、この喧しい喧騒のなか、舞台の正面切ってというより、自身言うように「搦め手から」登場した。この喧騒も様々ある考え方の一つに、すなわち「意匠」に過ぎないとしたのであった。小林は、「芥川龍之介の美神と宿命」でまず、彼の文学とその生を次のように裁断する。すなわち、芥川氏は人がみるような、理知の人ではなかった。その文学も神経でしかなかった。大正初期の作品から、昭和2年に死ぬ晩年まで、十年ばかりの彼の作品は、決して現実を理知の目で見据えたものではなかった。あくまでも、斜めから冷笑と皮肉を交えたものであった。よく言われるように、彼は逆説の人、でもなかった。逆説を弄するほど知的でもなかったー。
    実に辛辣であるが、いわゆる学校秀才・芥川をこのように言い切れたのは、小林ならではあろう。

   しかし、芥川の死は、時代の激動の中、後代のさまざまな人の気持ちを捉えた。何よりも同じ下町の中学の後輩・堀辰雄には大きな影響があった。「聖家族」は、芥川の死を聖なるものと捉えたものであろう。また、先の太宰治も、遠い津軽の地で芥川の死を知った。当時、「不在地主」など左翼文学を書いていた太宰はここから太宰らしい作品を書いてゆく。皆、自らに引き換えた捉え方をしていたが、同世代の問題として捉えたものに、昭和8年頃の、井上良雄の論考がある。さらに、同じ下町出身の吉本隆明にも、注目すべき論考があるが、またの機会にしたい。
 

「泡沫のキリスト」関谷雄孝作

 投稿者:草原克芳  投稿日:2017年12月10日(日)20時07分20秒
返信・引用 編集済
  掲示板小説第五弾「泡沫のキリスト」関谷雄孝作
開始いたしました。

http://6910.teacup.com/capricciolitera/bbs/405


カプリチオ掲示板
http://6910.teacup.com/capricciolitera/bbs
 

漱石の「女装趣味」について

 投稿者:管理人 iPad 428  投稿日:2017年12月 2日(土)01時32分29秒
返信・引用 編集済
     他の板からの引用で恐縮ですが、次のようにありました。

>漱石は「則天去私」などとカッコイイことをいいながら、女装癖があった、
あんな変態文学者の書くことなど研究するのもバカバカしいとか、女装癖のあった変態オヤジの漱石こそ本性で、明治帝の葬送の日の憂いを帯びた肖像の漱石など外面を装っているに過ぎないー。

  これを引用された方は、この意見に対して、たとえ女装趣味があったにせよ、それが漱石文学の本質ではなかろう、としています。

  この問題に関して、同人であった野口存彌氏は次のように言っています。

   『漱石の思ひ出』(妻・鏡子の著、1929年刊)に記録されている新婚当時の回想でやや奇異な印象を受けるのは、漱石について、
「一体自分でもきちんとしたなりをしてゐることの好きな人でした。又女のきれいな着物を着ることが好きで、私が脱いでおくとよくそれを羽織って、褄を取って見たりなんかして、家中歩き廻ったものでした」
と記している点である。漱石に女装趣味があったと判断することも可能である。しかし、それよりも結婚したことによって呼び覚まされた女性への関心の生々しさが、そのような行動をとらせたのdrはないかと考えるほうが妥当なのかもしれない。ー
     野口氏、「家族という他者と漱石ー「道草」と「漱石の思ひ出』から浮かび上がるもの」 ( 「群系」25号  漱石特集 に掲載)
2010年7月刊
 

堀辰雄という生き方

 投稿者:管理人 iPad 998  投稿日:2017年11月28日(火)21時28分23秒
返信・引用 編集済
    三島由紀夫の対極にいる作家は大江健三郎かと思っていたが、それは政治的な立場、戦後という空間に対する立場からのみいえるのであって、作家の個人的なありよう、文学的スタンスからいえば、案外堀辰雄などがそれにそうとうするのではないか。三島は国家とか民族にこだわったが、堀はそういうことへの関心よりもっぱらじぶんのこと、自分と身近な人の生をのみ考えていたように思う。三島がボディビルなどをやって、身体の強健をはかろうとしたが、堀辰雄にとってはそんなことは思いいたることもなく、結核の療養に日々を費やした。
   おそらく、彼らの読者もお互い、疎隔というか、言えば好きではなかったろう。三島の読者は、堀の生活態度から女々しいとか、弱々しいと思うだろうし、堀の読者もからすれば、三島の鍛えた筋肉すらおぞましく、その政治的主張に対してはほとんど発言もしたくないだろう。それぞれの立場はそれぞれあるのであって、それは容喙する立場にはない。

   だが堀にしてみれば好きで肺結核になったわけではむろんなく、サナトリウムの療養生活も仕方なくそうせざるを得なかった。当時の医療水準と合わせて、彼の人生、生き方は宿命、というしかないだろう。そしてその上で覚悟を決めた彼の人生、生がどういうものであったか、そこが問題である。宿命の中で、自らの生を輝くものにしたい、痛々しいがそこに彼と彼の許嫁の生があった。
   矢野綾子は、たった25歳でその生を閉じている。数少ない彼女の写真をいま見ると、いかにも堀が好きそうな、上品で、凛としたその目と帽子が束の間の生のポートレイトをなしている。二人の、二人だけの、かそけき営み、それを国家や民族を考えていないエゴチストとどうして断ずることが出来ようか。
 

同人雑誌評は「全国文芸同人誌の掲示板」にアップしております

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2017年11月23日(木)19時46分17秒
返信・引用
  httpは以下に。

     http://6928.teacup.com/377612377612/bbs

http://6909.teacup.com/nebo/bbs/

 

たまには、純情画像も。

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年11月 9日(木)21時08分45秒
返信・引用 編集済
  https://m.youtube.com/watch?v=Znt84EAxU-Q  本間千代子

https://m.youtube.com/watch?v=9cVRyDnpm0o  キューポラのある街


https://www.youtube.com/watch?v=iP1IZUrpd3M     同   名カット集

https://m.youtube.com/watch?v=aDl-Uqf37RE  二人の銀座

https://m.youtube.com/watch?v=DHMy6WJLyFE  教育映画六人姉妹

https://m.youtube.com/watch?v=Z1dUUVohy2s  ルルの歌

https://www.youtube.com/watch?v=e2vkuDPLqYo&app=desktop     里の秋

https://www.youtube.com/watch?v=pbAHB49R1C8&app=desktop     川田正子
 

ネコ界の策略家ども 167

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年11月 8日(水)10時40分37秒
返信・引用 編集済
     大人気のネコくん、今度は世界の指導者に成り代わって登場です!

ネコ界のトランプ     「アメリカ第一、ネコ第一!うちらのミサイル買ってくれれば、北なんて一発にゃ、イエイ!」
ネコ界の習近平        「国内の権力基盤も固まったし、さあ来い、トランプ!土産に美味しい鰹節、たっぷりやるにゃ」
ネコ界の金正恩        「へっ、アメリカなんか何ぞのもんにゃ。うちらの核・ミサイルは米国ネコ民の恐怖になっとる」
      しかし、この三匹は、皆太ってますな。アジやサンマ、たっぷり食って、腹デブになったのね。
      しかし、うちらネコが出なくとも、こいつらのキャラは人間でも十分ですニャア。
ネコ界のプーチン     「おいおい、俺を忘れにゃ。北の策略家、実力者プーチン様だぞ。鰹節の分け前は均等ににゃ」
      しかし、世界のその他の政治家は、安倍クンも含めいまいちキャラ不足だにゃ。昔は、フセインだの、カダフィだの、ウサマ・ビン=ラディンなど、いたのに。奢れるものは、風の前の塵、か。おいらも、注意せんとあかんにゃ。
    というわけで、ネコ様は、策略家は辞めて、のんびり、平和主義者になったのでした!  オソマツ!
      
 

人気のネコ様、再登場!

 投稿者:管理人 iPad 853  投稿日:2017年11月 5日(日)12時06分2秒
返信・引用 編集済
     最近、SNS界で、評判・人気のネコ様、今一度、登場願いましょう!
                                                                              ピー。フイー、やんややんや、フットライト!

正義のネコ(人のものは掠め取らない)。            目の前で堂々といただく。
律儀なネコ(飼った恩は忘れず、元主人に会えば、挨拶する)。     ゴッっちゃんす。いえーっ!
弱いものを苛めないネコ(逃げ回る小動物を他のネコから守ってやる)。   あんさん、勘弁してやっておくんない。
魚を食べないネコ(菜食主義)。    最近、小骨がひっかるのね。ネコのくせに、俺、繊細なのね。
家庭教師ネコ(飼い主の宿題を解いてやる)。 おめえ、こんなのもわかんのけえ、バカっか。
留守番ネコ(留守番電話の替わりに応答してくれる)。 おかけになった電話番号は現在使われておりまん。番号をお確かめになってもう一度お掛け直しください。
風邪をひくネコ(マスクをかけてる)。    顔、見られたくないんでね(最近こういうマスク流行っているのよ)。
点滴をしているネコ(蒲柳の質でね)。    点滴してるって、ちょっと繊細で上品じゃない。
リポビタンDを欠かさないネコ(主人の習慣が移った)。  これ、適度に甘くて美味しい。炭酸でないのがいいにゃ
義理と人情の侠客ネコ(任侠道を一人行く)。 ネコ界の高倉健。
思いやりのあるネコ(他の立場にたって、物事を考えられる)。ネコ界の安倍晋三。      冗談きつい。
 

ネコからの反論

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年11月 4日(土)20時22分59秒
返信・引用 編集済
  〉しかし、現実のネコは無責任で、自分勝手で、他人の都合も考えず、弱いものにはすぐ手を出し容赦ない。強い者からはすぐ逃げる。食べ物をねだるときは、ニャオ~、と媚びて、意地汚く食べて、その後始末もろくにしない(し、顧みない)。正義の観念のかけらもなく、平等、人権の考えの一くさりもない。自分さえよければ、という典型。ろくな働きもせず(就労意欲が皆無)、毎日ぶらぶら、かといって勉強に励むわけでもない。これといって趣味もなく日がな、のんびり、ぐうたら、している。

   この意見に対して、愛猫家の方は、憤り心頭で、ネコに成り代わって以下のような反論をよせてきています。

  ネコは「無責任」で「自分勝手」で「他人の都合も考えず」というが、いったい一匹の猫が誰にどう「責任」をとるのか、「自分勝手」も一匹で生きているのだから仕方ない。「他人の都合」も、一匹のネコの頭にはお互い、ない。
「弱いものにはすぐ手を出し」「強い者からはすぐ逃げる」ー。これは弱肉強食の世界を生きるからには必須の鉄則。「食べ物をねだるときは、ニャオ~、と媚びて」ー。これも餌を手っ取り早く取るためには合理的なこと。「意地汚く食べて」「後始末もろくにしない」ー。食べたらさっさとその場を去るのが、厳しい世の中を渡る身にとって当たり前。すなわち、彼には生存原理の合法則性があるのだ。

「正義の観念のかけらもなく」「平等、人権の考えの一くさりもない」ー。ネコにとっては、自分がきちんと生きているのが正義。正しく生きていれば、自ずから皆と平等、人権(ネコ権)に配慮していることになるのです、
「自分さえよければ」ー自分がよければ、自ずと皆のためになる、この自己存立が世界の平和につながる、彼らネコぞくの至高の生存原理ーなのです。わかるかなあ、この弁証法が。
「ろくな働きもせず」「就労意欲が皆無」「毎日ぶらぶら」ー。繰り返しますが、彼らネコ族にとっては、生きていることが、労働、就労なんですよ。
「勉強に励むわけでもない。これといって趣味もなく」ー。ネコにとって、生きること、日々の生活が、それが勉強であり、いわば人間のいう趣味にもあたるのでげす。
 

ネコの勝手さ

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年11月 3日(金)15時14分10秒
返信・引用 編集済
   本質を逆手にとった形容はおもしろいですよ。過去ログ(2009・2・8)からのコピペ紹介です。144554

 例えば、責任感のあるネコ。 媚びないイヌ。  太ったサンマ(魚の)。 痩せたブタ。 羊毛のない羊(キモイ)。角のない牛。 猪突猛進しない温和な猪。 美しいゴキブリ。 クビの短いキリン。 鼻の短い(普通な)ゾウ。 飛ばない鳥(これはざらにいるか)。

 さらに、動物以外に目を向けると―、

 やわらかいダイアモンド。 硬い豆腐。 熱い氷(摂氏80度)。 むさくるしいそよ風。 晴天の雨。 暑くない赤道。 寒くない北極―この辺になると、笑えないですね。

 さらに皮肉交じりではー。

 誠実な政治家。 まじめな社保庁職員。 責任感ある区職員。 親身な指導の巨大予備校。 勉強をする大学生。 大人の言いつけをきちんと守る小学生。 携帯を手にしない若者。 電車内で化粧をしないOL。 漫画を見ないビジネスマン。 漫画を見ない首相。 岩波新書を携帯する大学生。 文学にあつい若者。
―こうした言い方だと、年寄りの説教みたいですね。
 (しかし、昭和はよかった)。

 しかし、何といってもおもしろい主役はネコ。ネコへの形容です。

 正義のネコ(人のものは掠め取らない)。 律儀なネコ(飼った恩は忘れず、元主人に会えば、挨拶する)。 弱いものを苛めないネコ(逃げ回る小動物を追いかけない。むしろ他のネコから守ってやる)。 魚を食べないネコ(菜食主義)。 家庭教師ネコ(飼い主の宿題を解いてやる)。 留守番ネコ(留守番電話の替わりに応答してくれる)。 風邪をひくネコ(マスクをかけてる)。 点滴をしているネコ(蒲柳の質でね)。 リポビタンDを欠かさないネコ(主人の習慣が移った)。 義理と人情の侠客ネコ(任侠道を一人行く)。 思いやりのあるネコ(他の立場にたって、物事を考えられる)。

 しかし、現実のネコは無責任で、自分勝手で、他人の都合も考えず、弱いものにはすぐ手を出し容赦ない。強い者からはすぐ逃げる。食べ物をねだるときは、ニャオ~、と媚びて、意地汚く食べて、その後始末もろくにしない(し、顧みない)。正義の観念のかけらもなく、平等、人権の考えの一くさりもない。自分さえよければ、という典型。ろくな働きもせず(就労意欲が皆無)、毎日ぶらぶら、かといって勉強に励むわけでもない。これといって趣味もなく日がな、のんびり、ぐうたら、している。
 (でも、こういうタイプ、どっか人間にもいるのでは)。
 だから格言。「食べたあと、すぐ横になるとウシになっちゃうよ」 ではなく→「ぶらぶら横になってばかりいるとネコになっちゃうよ」


 あ、きょう日曜のサンデープロジェクトに、内田誠さんが出ます(〝派遣〟の問題。先週の続編)。10ch、TV朝日。
 

掲示板へのエネルギー

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月25日(水)09時36分1秒
返信・引用
    でも、根保さんのエネルギーはどこから生まれるのでしょう。
   ただ、何か書く、適当な文章で掲示板を埋める、ということでは、小生もふくめ、どなたもやれることでしょう。自分のこと、自分の好きなこと、得意な分野を書けばいいのですからね。
   でも、他人のこと、人の作品をあげつらうとのなると、別のエネルギー、力量が必要になります。まず、そうした作品をよむこと、読もうという気持ちはなまじっかなものではないと思います。

    僕らがなぜ文学をやるか、というと好きだからですが、しかしそれは、漱石や芥川や堀辰雄や太宰治など、好きな作家さん相手だからであって、じぶんの好みのものでない作家は当然読むわけはない。ハードボイルドだと言って大藪春彦を当職が読むわけはない。推理小説でも冒険小説でも、好きな人はそれが趣味なのだからそれでよい。だが、僕らが文学に求めるのはそういうことではない。今更だが、生きることの意味、感触を得たいのだし、自分が何を求めて居て、どういう時代の、どういう場所になじみを感じるのか、知りたいのだ。いわば、生のありかを確認したいのですね。
   単に、おれはこんなに書けるのだぞ、とか、おれの才能をみてみよ、みたいな自己顕示は、歳も歳、自分の関心ではない。若い人は、自分が何者かの、自分探しゲームの一つとして、自己の才能を発見したら、それで一つの満足を得たらそれでよかろう。これは、自分の美貌を改めて発見し、恍惚となる経験と同断だろう(が不幸にして、多くの人にそうした恍惚は現れない?)。
   好きで読むのではない作品批評、作品をダシにして自分を語る手の、作品評は、多くの同人誌の諸子にはイマイチかも。ま、それでもないよりはいいかな。

 

「群系」の次号楽しみにしてます

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2017年10月25日(水)04時57分46秒
返信・引用
  選挙も終わりましたので、そのうち「群系」の作品をホームグラウンドで感想書き継ぐ予定でいます。手元に同人雑誌十数誌溜まってますので、その合間に感想やるつもりでいますので、ご容赦を。

http://6909.teacup.com/nebo/bbs/

 

あ、たまには泊まりがけで。

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月24日(火)18時57分28秒
返信・引用 編集済
    あ、存じ上げています。
  根保さんは、相変わらず、旺盛な筆力で感心しています。
  マイホーム、出来ましたが、時には泊まりがけでよそにもおいで下さい
  マイホームのリンクがあると、今度は人々もお宅へおじゃますることになります。
  よろしく、ね。
  
 

管理人さんへ・・・マイホームができましたので・・

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2017年10月24日(火)15時49分10秒
返信・引用
  ・必要連絡事項以外は書き込みする時間もありません。
ホームグラウンドを立ち上げましたので、
書き込みはそちらでやりますので、悪しからず・・・

http://6909.teacup.com/nebo/bbs/

 

大政翼賛会の民主主義

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月23日(月)17時47分19秒
返信・引用 編集済
     帰宅途中に、朝日夕刊と日刊ゲンダイを購入した。朝日の見出し、「自公3分の2、首相続投」、対して、ゲンダイは「自公3分の2、改憲大政翼賛会」とあった。単に首相続投だけでなく、問題の本質を大手メディアは書けないでいる。この絶対的多数の獲得は、黙れ、下民!の大政翼賛会ではないのか。
   自由にものをいえない、正論を言おうにも、右顧左眄、上の顔色をうかがうようになれば、より民意を反映した意見など出なくなろう。もはや、このことは、国家社会のその前の職場でなされ、皆窮屈な思いに駆られつつあろう。それでも以前なら職場を変えるなどできたろう。しかし、これからはどこへ行っても上意下達の、一方的な命令が支配することになるやもしれぬ。
   それでもこの国は、多少過去の経験の、いわば免疫があるからよかろう。北朝鮮なんか、民意どころか、民主主義の経験がないものだから、少しでも意見が異なったり、抗弁しようものなら、抹殺がまっている。
   いま、そんなには未熟でないはずのこの文明国でも、本当の民主主義とはどういうものか、問われつつあろう。
 

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