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芥川論 備忘のために

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2018年 4月18日(水)21時16分15秒
  通報 返信・引用 編集済
  以下は、メモ帳に書いている原稿が、ふいと消える場合があるので、その備忘のために掲出するものです。デスクトップがダメなので、iPad頼みです。

野口存彌「芥川龍之介・芸術の光、人生の闇」(「群系」32号掲載)解題
                   永野悟

    今更に芥川龍之介論かと思われていたが、何度か精読、他の研究とも徴してみると、野口氏のこの芥川論がいまでは定説となっている生誕と生長に新たな論を提出していること、さらにそのことが芥川の人生観、芸術観に影響を及ぼし、死生に関係していることがわかり、数ある野口氏の文芸研究・評論の中でも嶺を作るものであるかと思われた。
   まず出生の事実関係から書き起こしてみる。一般には野口氏が書くように以下のようである。

      芥川龍之介は明治二十五年三月に東京築地(当時、京橋区入船町)で生まれた。誕生したのが辰年辰月辰日辰刻だったので、龍之介と命名された。父新原敏三はいくつかの牧場を所有し、付近にある外人居留地に住む外国人を主な対象に耕牧舎という名称の牛乳販売店を経営していた。しかし、誕生から約七ヶ月後に母ふくが精神異常に陥るという事態になった。

   実母の発狂、これは遺伝という考えが普遍的になったこの頃、その子・芥川を苦しめたものであるが、各種年譜にはその時点ですぐ母の実家の本所(当時、本所小泉町)の芥川家に預けられたとあるが、「はたしてそれはそのとおりなのか問題がないわけではない」と野口氏は問題を投げかける。たった七ヶ月で父親が実の子を自分の手元から手放すほど、敏三は愛着がないはずはなく、それが証拠に何度も芥川家と裁判問題を起こしているし、もし龍之介がすぐに本所へ移っていたにしても、四歳年上の姉ひさ(久)はどこに置かれたかの問題があるとする。また発狂したという実母もそれから十年生き延びている(明治三十五年十一月死去)。
    この出生生育の地については、多くの読者は芥川自身の作品から築地ではなく、本所の地名を想定してきた。それは一高時代に書いた文壇活動第一作「大川の水」(明治四十五年一月「心の花」)に、「自分は、大川端に近い町に生まれた」という冒頭の切り出しからであり、またずっと後年の「大導寺信輔の半生」でも、「大導寺信輔に生まれたのは本所の回向院の近所だった」という冒頭の開陳の文句からであって、そこには築地に生まれたという事実が描かれていない。これは単に一歳未満の赤子の記憶だから、とする一般見解に対し、野口存彌氏は築地の記憶が龍之介にあった、それも一歳未満ではむろんなく、おそらく以下の芥川自身の記述に徴するにもうしばらくの間の記憶だろうとするのである。以下は芥川が中学校の最上級生になった時に書いたと推定される「十八年目の誕生日……」と題された習作である。

     私は築地の何とか云ふさびしい通りで生まれたのでした。家のうしろが小さな教会でこんもりした株の木立の間から、古びた煉瓦の壁が見えて、時々やさしい歌の声が、其の中からもれて来たのと、低い腰掛が二かはに行儀よくならんだ、薄暗い部屋のつきあたりに黒い髪の女の大きな額がかかってゐたのとは未だにはっきり覚えております。ます   私は裏庭の日当たりのいい葡萄棚の下で鵞鳥に餌をやるのが    何より楽しみでした  海は直  ちかくでしたので  よく下女に負ぶさつて見に行きました  あの鳶色の帆がしめつぽい風をうけて静に海の上をすべツてゆくのや  勢のいい船唄や   黄色がかつた水がたぷたぷ石垣をなめてゐるのが  下女に舟幽霊の話しやすい人魚の話をしてもらひながら   湖の底にある国の事を考へていた幼児に  どんな感じをおこさせたかは  たしかに覚えてゐません
     いくつの時でしたか   本所へ住むようになつて    ここから学校へかよひました

  この「十八年目の誕生日……」は、『芥川龍之介未定稿集』(昭和43年)に収載されているもので、編者の葛巻義敏は龍之介の甥、つまり四歳年上のひさの息子である。葛巻によると、〔この原稿は、半紙に墨で下書きされた二種類がある。いずれもが、ほとんど読めないほど、字が乱れている。ーが、彼が知る筈のない生れた家と、其付近のことが出て来るので、出来るだけ判読して見た〕と付記している。
    葛巻のこうした努力によって出来た「十八年目の誕生日……」は重い資料的価値を持っているとみて差し支えない、と野口氏は言う。
    「ひとりの少年が生長して青年期に達しようとしているのを自覚した時、未来に向かうためには過去と決別しなければならなくなる。そこでまだ幼かった時期の日々を思い返してみる。すると、かつて確かに眼に触れたのに、そのまま記憶の奥に隠れてしまっていたひとつひとつの情景が克明に眼の奥に浮かんでくる。さまざまなものの色や形や動きまで鮮やかに思い起こされる。しかし、過ぎ去った日のそれらの記憶を思い出すのは、追想にふけるためではなく、それに決別を告げるためだった。この年齢特有のそうした精神の営みを経験することによって、自身の幼年期や少年期を抜け出て、青年期へ、ーさらには成人の領域へ参入していくことになる。
    芥川にとって、「十八年目の誕生日……」はいま述べたような意味を担った文章にほかならない。他人に示すのが目的ではなく、自分の必要のためにだけ書かれた文章であり、虚構が含まれているとは受け取れない。」

    この野口氏の推断は、芥川にとってのいわゆる作品と自らの手記との違いを想わせる。すなわち、「他人に示すのが目的」の文芸作品と、「自分の必要のためにだけ書かれた文章」との違いである。前者はいわばこうである自分、あるいはこうでありたい自分を披瀝するものであり、後者はそうでなく、自分の生長のために書き付ける自分確認のものだ。芥川の場合、その両者が截然としないところもあるが、今回の「十八年目の誕生日……」は、明らかに性格がはっきりしている。後年の「大川の水」にしても、「大導寺信輔の半生」にしても、タイトルが如実に示すように、芥川のある回顧を主題にしている。人に読まれんがために、出生地と生育地が違う煩瑣は避け、ここはあくまで本所(小泉町)にした方が無難だとという創作者の意識が働いた。後に「本所両国」を書く時も(これは新聞社の社命を受けたと冒頭にあるから私的な手記ではない)、それに続いて「僕は生れてから二十歳頃までずっと本所に住んでいた者である」と断り書きをしている。

   もう少し、この「十八年目の誕生日……」の記載事実と芥川の年譜的事実とを擦り合わせるなら、「私は築地の何とか云ふさびしい通りで生まれたのでした  家のうしろが小さな教会でこンもりした柊の木立の間から  古びた煉瓦の壁が見えて  」とあるのは、芥川が誕生した時に父が四十三歳で後厄、母が三十三歳で厄年にあたっていたので、当時の厄払いの風習に従って、その教会の路傍に一日捨て子という形式を踏ませられたという年譜事実と合致する。すなわち家の向かいの教会の前へ捨てられ、その子を松村浅二郎(父経営の耕牧舎の日暮里支店経営者)が拾い親となった。また、「時々やさしい歌の声が其の中からもれて来た」のと、「薄暗い部屋のつきあたりに黒い髪の女の大きな額がかかってゐた」のを覚えているというのも賛美歌と聖母像ではないかと思われる。さらに、「私は裏庭の日当たりのいい葡萄棚の下で鵞鳥に餌をやるのが    何より楽しみでした 」とあるのも、七ヶ月の乳児には出来ないわざで、これはハイハイを脱した一、二歳児の仕業とみるのが自然であろう。要するに、その頃まで築地にいたということであろう、と野口氏は思料するのである。
  「海は直  ちかくだったので  よく下女に負ぶさつて見に行きました  あの鳶色の帆がしめつぽい風をうけて静に海の上をすべツてゆくのや  勢のいい船唄や   黄色がかつた水がたぷたぷ石垣をなめてゐるのが  下女に舟幽霊の話や人魚の話をしてもらひながら   海の底にある国の事を考へていた幼児に  どンな感じをおこさせたか」とあるのは一定の記憶の元に、後年の作者の想像力が物したものであろう。さすが、いくら早熟で記憶力もよい龍之介にしても、こんなのは幼児ではありえないからであり、この描写表現も後年の想像が入っていようからである。実際龍之介の文章はその後、「どンな感じをおこさせたかは  たしかに覚えてゐません」と結んでいる。自分の生長のために書き留めた日記用のものに、多少の修飾はあっても、大元のところに嘘を交えることはない、とするなら、この文章は描写内容は大目に見ても基本的資料となるのではないか。
    さて、それでは実際に龍之介は芥川家にいつ引き取られたのか。各種年譜などによると、概ね、「明治二十五年十月二十五日、母フクが突然発狂した。そのため、龍之介は母の実家、本所小泉町一五番地の芥川家で養育されることになった」「芥川家はもと徳川家御奥坊主の家柄の旧家。フクの兄芥川道章と妻の儔(トモ)のほかに伯母のフキがおり、龍之介の面倒をみた。道章は、東京府土木課長を勤めていた」などとある。さらに実母の実家である芥川家は「代々奥坊主として徳川幕府に仕えた士族の家柄で、道章の一中節習いや一家揃っての芝居見物などをしていた」など、幼少年期の子供への文化的影響力のある家だったとしているが、それはそれで首肯できることである。問題は、「明治二十五年十月二十五日、母フクが突然発狂した。そのため、龍之介は母の実家、本所小泉町一五番地の芥川家で養育されることになった」とあるところだ。年譜類は皆「母フクが突然発狂」とあり、そのまま「龍之介は母の実家、本所小泉町一五番地の芥川家で養育されることになった」とある。「突然の発狂」とはどういう事態をいうのか、また家族はどんなことを配慮して、その実母の実家に預けることになったのか、その仔細はわからない。龍之介自身も七ヶ月の乳児であるから事情がわかるわけはない。忖度するに、一つは芥川道章と妻の儔(トモ)夫婦には子供がいなかったこと、同居していた母フクの実姉フキ(生涯独身)が龍之介を溺愛したこと(がこれは後の話だ)、などがあろうが、本当のところはわからない。母フクは特に精神病院送りということもなく翌年築地の外人居留地が廃止されたので、その翌年夫の新原敏三とともに、芝区新銭座に移り住み、そこで静かに余生を送り、十年後の明治三十五年十一月二十八日に死亡している。

    さてここで問題になるのは、芥川にとってこの実母はどんな意味をもたらしたのか、ということである。生母の問題は誰にとっても重要だがこの生い立ちが重視されるこの作家にとっては特に大事だ。
    今までの陳述でも、生地についての加工・粉飾があることは書いた。が生母についての記述はほとんど書かれていない。いわば封印なのである。デビュー作品といえる「大川の水」にはあれほど生地近くに流れる大川(隅田川)に郷愁を感じ、それに母性までみているのに実際の母には言及していない。
   母というものに触れるのは、大正十四年発表の「大導寺信輔の半生」からであろうか。第二章「牛乳」には次のようにある。

 信輔は全然母の乳を吸つたことのない少年だつた。元来体の弱かつた母は一粒種の彼を産んだ後さへ、一滴の乳も与へなかつた。のみならず乳母を養ふことも貧しい彼の家の生計には出来ない相談の一つだつた。彼はその為に生まれ落ちた時から牛乳を飲んで育つて来た。それは当時の信輔には憎まずにはゐられぬ運命だつた。彼は毎朝台所へ来る牛乳の壜を軽蔑した。又何を知らぬにもせよ、母の乳だけは知つてゐる彼の友だちを羨望した。

   父の実家が牛乳製造業だったことも反映していようが(龍之介は後年背の低いこの実父の容姿を憎んでいた)、何よりここにあるのは母なるものへの憧憬、ないもの・欠如されたものへの、翹望ではないか。むろん「発狂した実母」は頑なに隠されている(「体の弱かつた母」と韜晦している)。
   それがいよいよ彼自身の危機が迫ってきた時には、ついに内面の真実を吐露するにいたる。大正十五年十月発表の「点鬼簿」には書き出しに次のようにある。


 僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髪を櫛巻くしまきにし、いつも芝の実家にたった一人坐すわりながら、長煙管ながぎせるですぱすぱ煙草たばこを吸っている。顔も小さければ体も小さい。その又顔はどう云う訳か、少しも生気のない灰色をしている。僕はいつか西廂記(せいそうき)を読み、土口気泥臭味の語に出合った時に忽たちまち僕の母の顔を、――痩やせ細った横顔を思い出した。
 こう云う僕は僕の母に全然面倒を見て貰ったことはない。何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶あいさつに行ったら、いきなり頭を長煙管で打たれたことを覚えている。しかし大体僕の母は如何にももの静かな狂人だった。

      この文章は論者の若い頃から読み触れ、芥川の生母と自殺する芥川のイメージを決定づけた文章である。特に「一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶あいさつに行ったら、いきなり頭を長煙管で打たれた」は芥川のみならず、衝撃的なことであろう。だがその後の記述は何か多少救われる。「しかし大体僕の母は如何にももの静かな狂人だった」ー。

さて、それでは実母ふくはなぜ狂ってしまったのだろうか。そのことについては、先の葛巻義敏の母、つまり芥川の四歳年上の姉ひさの手記がある、として野口氏は引用する。それによると、母フクはひさの姉はつを自分の手落ちで死なせてしまった、この自責の念が原因ではないかという。はつは明治十八年の生まれで、ひさは明治二十一年の生まれである。ひさは昭和三十一年に永眠しているが、生前に手記を書きのこしていた。子息の巻義敏がその手記を整理したうえで、『世界』昭和四十一年二月号に「叔父芥川龍之介のことども ー母久子の『思ひ出』から」と題して全文を発表している。その文中で母ふくが精神異常に陥った経緯にも触れられている。

 母が病気になつた事についても、色々の人に聞けばいろいろの原因があつたらしい。
 誰でも一番に挙げる事は、ー私の姉の初子の死であつたらしい。姉が七歳の四月の時であつた。ー父は、親戚を招いて、芝居を観に行つた。が、母はどうしてか、〔其等の親戚の誰かを煩しい事に思つたのか?ー〕一人で、姉をつれて、新宿の牧場へ「椿狩り」に行つた。
 楽しく、日暮れまで遊んで帰つたが、その晩から、ー姉は高い熱を出して、風邪を引いたらしかつた。医者は「急性脳膜炎」らしいと云つた。ー母は、必死の看護をしたが、姉のその小さい瞼は再び開かなかつた。

    父新原敏三が新宿に所有している牧場は広大な規模のものだった。手記では母ふくが観劇に行かずに、はつをその牧場に椿狩りに連れていき病気にさせて、亡くなってしまったことを精神異常に陥った第一の原因に挙げている。手記には母ふくに関して、「小柄で、色白く、神経質で、ー口かずが少なく、小心なひとであつた」という記述も存在する。そのような性格だけに、はつの死から激しい自責の念に苛まれ、それが心身に回復不可能なほどの大きな影響を与えることになったと考えられる。
 もう一点、手記に指摘されているのは芥川龍之介が誕生した時、捨て児の形式を踏ませられたという問題である。このことが「かなりの心の痛手でもあつたらう。ー後から考へれば、もう少し周囲で、母の心の底を察したならばと思ふ」と述べている。どちらも自分の産んだ子供に起きた出来事によって、母ふくは精神を蝕まれる結果になった。

    ふくにその事態が生じたのは、明治二十五年十月のこととされる。その後、新原家と芥川家とのあいだでどのような話合いがおこなわれたのかは一向に判然としないが、芥川龍之介は本所の芥川家に預けられた。当主の芥川道章は東京府土木課に勤める官吏だった。妻は儔(とも)いい、子供には恵まれなかった。ふくの姉や妹が同居していたが、ふくの姉で、結婚経験のないふきが芥川龍之介の養育を担当することになった。ふきは添い寝までして細やかに育ててくれたが、一方で芥川龍之介をきびしくしつけたと言われる。「追憶」(『文藝春秋』大正15年4月号~昭和2年2月号)の「灸」という章には、いたづらをした時の伯母の怖さが書かれている。
 しかし、芥川龍之介は伯母ふきに早くから文字を読むことを教えられた。「追憶」の中の「草双紙」という章で、自宅の本箱には草双紙がいっぱい詰まっていて、もの心ついた頃からそれらの草双紙を愛読したと語っている。そこに登場する恐ろしい大天狗が、自身の記憶に残る最初の作中人物になったということである。本を読むという行為に関して、「大導寺信輔の半生」の「本」の章で具体的に書かれているが、そこには、小学校の上級生になって、弁当やノート・ブックを小脇にかかえて大橋図書館に通うようになった自身の姿も描かれている。また、森本修『新考・芥川龍之介伝 改訂版』によれば、読書だけで満足することができず、明治三十五年から翌三十六年にかけて同級生と回覧雑誌『日の出界』を編集発行している。そこに「昆虫採集論」や「大海賊」といった表題の文章を発表する。

 三好行雄編の年譜(『現代のエスプリ』第24号収載・昭和47年3月)には小学生当時につくった俳句として「落葉焚いて野守の神を見し夜かな」が引用されている。この俳句は「落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな」が正確ではないかと思われるが、葉守りの神とは柏の木に宿る樹木の守り神をさしている。夜、落葉を焚いた時に炎に照らされた闇の奥に樹木の守り神の姿を見たという意味になる。小学校四年生の時につくったとされるが、完成度が高く奥行きが深くて、到底小学生のつくった俳句とは受け取れない。芥川龍之介の文学活動の出発点にこの俳句を位置づけることさえ可能なように思われる。
   さらに外国語に関してであるが、「私の文壇の出るまで」(『文章倶楽部』大正6年8月号)に「私は十位の時から、英語と漢学を習つた」と記されている。「小説を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」(「ー出世作を出すまで」『新潮』大正8年1月号)にもそれとまったく同一の記述がある。これは語学の才能があったとか語学力が発達していたといった度合いを超えて、文字そのものが好きであり、文字に対する愛着心や好奇心というような心理の働きがあったと判断するのが妥当になる。

 そういう小学生時代に始まって、中学校、高等学校、大学に至るまでの学校教育を通じて、芥川龍之介の学業成績はつねに優秀だった。東京府立三中(現、両国高校)に進んだが、のちに同校の校長になった広瀬雄は芥川龍之介が入学した時に一年生の主任を担当していて、「芥川龍之介の思出」を『芥川龍之介読本』(『文藝』臨時増刊・昭和31年4月)に寄稿しているが、それによると、広瀬雄は入学の第一印象を一年生会員に書かせたというが、その中に半紙一枚全面に亘る堂々たる文章があった、それが芥川龍之介のものだったという。単に学業成績が優秀だったというだけでなく、他の誰ももっていない際立った個性的な特徴を感じさせる少年だったことが判明する。
 それでは芥川龍之介にとって学校という環境が快適なものだったのかと言えば、決してそうではなかった。「大導寺信輔の半生」の「学校」と題された章には、学校に関して「薄暗い記憶ばかりを残してゐる」と記し、「殊に校則の多い中学を憎んだ。如何に門衛の喇叭の音は刻薄な響きを伝へたであらう」と述べている。授業を通じての知識の詰めこみ教育をドストエフスキーの『死の家の記録』に描写されているバケツの水を他のバケツに移すだけという無意味な労役をただ単純に繰り返すことを強いられる囚徒になぞらえたうえで、「鼠色の校舎の中に、ー丈の高いポプラアの戦(そよ)ぎの中にかう云ふ囚徒の経験する精神的苦痛を経験した」と書き、「教師と言うものを最も憎んだのも中学だつた」というのである。
    母ふくの精神異常という事態は家族という枠組みのなかでの問題である。しかし、中学校のなかで起きたことはそうした枠組みを超えた、自分と純然たる他者との関係の問題である。一生を通じて最も苦しかったのは少年期だったという人が現実に存在しよう。芥川龍之介もそういう例に当てはめて考えることが可能かもしれない。暗鬱な人生的苦悩が中学時代から本格的に始まっていたと判断できる、と野口氏は言う。

   明治四十三年に第一高等学校に入学する。芥川家は本所から新宿の牧場のなかにある父新原敏三の所有していた家に転居している。芥川龍之介は第一高等学校の一年生の時は自宅から通学し、二年生から寮に入っている。
    前掲の三好行雄編の年譜の明治四十四年の項には「龍之介は秀才肌のまじめな学生で、読書欲・知識欲も依然として旺盛だつた。ボードレール、ストリンドベリイ、アナトール・フランス、ベルグソン、オイケンなどを愛読した」と記載されている。もっぱら西洋文学の作品を濫読していたことが推察できる。
   一方、この年、友人の山本喜誉司に注目したい内容の書簡を差し出している。

     しみじみ何のために生きてゐるのかわからない。神も僕にはだんだんとうすくなる。種の爲の生存、子孫をつくる爲の生存、それが真理かもしれないとさへ思はれる。外面(めん)の生活の欠陥を補つてゆく歓楽は此苦しさをわすれさせるかもしれない。けれども空虚な感じはどうしたつて失せなからう。種の爲の生存、かなしいひゞきがつたはるぢやアないか。
 窮極する所は死乎、けれども僕にはどうもまだどうにかなりさうな気がする、死なずともすみさうな気がする。

 因みに山本喜誉司は府立三中時代の同級生で、のち大正七年に芥川龍之介と結婚することになる塚本文の母の弟で、叔父にあたる人である。芥川龍之介と一年遅れて第一高等学校に入学しているが、今の書簡を書いた時、芥川は第一高等学校の二年生で、二十歳である。
 年齢的にようやく成人の領域の入り口に到達しているが、この時点で生の先に死が存在することを前提にして人生を考察している。死を考えるというのは人生的苦悩の最たるものである。しかし、そういう苦悩のなかで生存欲による生きかた、或いは単に生存するために生きるという方途があるのをつかみ出していた。

 ここで語られていることが「羅生門」(『帝国文学』大正4年11月号)を発想するうえでの原点となり、さらに『侏儒の言葉』のよく知られているアフォリズム「地獄」をも成立させるうえでの原形的な考えかたになったと判断できる。「侏儒の言葉』は『文藝春秋』大正十二年一月創刊号から同十四年十一月まで連載され、その後に書かれたものが同誌昭和二年九月号に遺稿として発表された。次が「地獄」の章の要点の箇所である。

     人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば、飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の与へる苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食ひ得ることもあるのである。のみならず楽楽と食ひ得た後さへ、腸加太児(カタル)の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。

 地獄の法則性とは地獄に堕ちた場合、ただひたすらに生存するためにだけ生きればいいという意味ではないかと解釈することができる。人生的現実はそのような単純なものではないことを無法則性と表現しているように思われる。人生的現実での苦悩は深刻で苦しく、それに比べれば地獄で生存するためにだけ生きるほうがはるかに容易だと芥川龍之介は認識していたことが明らかになる。
    同時に、そのような認識は『侏儒の言葉』によってはじめて成立したのではないという点である。先程も触れたが、明治四十四年の山本喜誉司あての書簡に、その認識の原点となるものが形成されいるのを見出すことができるのだった。
 さらに芥川龍之介の文学の初期を代表する「羅生門」は、地獄で生存欲のためにだけ生きるのであれば、それはむしろ容易なことではないのかという問題意識が形象化された作品のように受け取れる。それとは対蹠的に、晩年を代表する「歯車」(『大調和』昭和2年6月号、『文藝春秋』同年10月号)は、人生的現実を生きることがいかに深刻で苦悩にみちたものであるのかを表現した作品だと判断できる。ただ、山本喜誉司あての書簡から『羅生門』が成立するまでの経過だけでも決して単純に進める道筋ではなかった。
   まず採りあげたいのは、第一高等学校に在学中の明治四十五年一月に文壇活動第一作となる「大川の水」の初稿を書き上げていることである。この作品は翌大正二年に同校を卒業して東京帝国大学英文科に入学してから、『心の花』大正三年四月号に発表された。
 これまでに触れた「十八年目の誕生日……」には「私は築地の何とか云ふさびしい通で生まれたのでした」という記述がみられた。しかし、「大川の水」には冒頭に「自分は、大川端に近い町に生まれた」と記されている。「十八年目の誕生日……」には母についてまったく言及されておらず、母の存在を封印してしまっているのを指摘したが、「大川の水」はその点が同じであるうえに、自身の誕生の場所が築地から大川端へと変更されている。それは母についての考えかたに変化が生じたことと関係があるように思われる。

        自分は、昔からあの水を見る毎に、何となく、涙を落としたいやうな、云ひ難い慰安と寂寥とを感じた。完(まつた)く、自分の住んでゐる世界から遠ざかつて、なつかしい思慕と追憶との爲に、此慰安と寂寥とを味ひ得るが爲に、自分は何よりも大川の水を愛するのである。

 この引用からは、精神異常に陥った母ふくが明治三十五年、芥川龍之介が十歳の時に死亡したという事実を踏まえて、失ってしまった母胎を代償するもののように大川の水が受けとめられているのが感じられる。単なる大川の水を描写する文章ではなく、大川の水を見る時に意識する感情の動きは母というよりむしろ母胎に対するなまなましい感情の動きにほかならないように思われる。

 また夜眺める大川の水については、「夜網の船の舷(ふなばた)に倚つて、音もなく流れる、黒い川を凝(みつめ)視(みつめ)ながら、夜と水との中に漂ふ『死』の呼吸を感じた時、如何に自分は、たよりのない淋しさに迫られたことであらう」と述べている。大川の水に母胎を意識せずにいられないというかたちで母について考えると、そこに死の想念が結びついてしまうという事情をうかがうことができる。
 のちの「大導寺信輔の半生」でも書き出しの一行が「大導寺信輔の生まれたのは本所の回向院の近所だつた」となっていて、芥川龍之介はここでももはや築地で誕生したと語ることはなかった。
 この時点で、たとえ生の先に死が存在することを自覚していても、自己を死の方向へ持っていこうとは考えなかったに違いない。いかにすれば自分は生きられるだろうかと思考をめぐらしたことが想像できる。「大導寺信輔の半生」の「本」の章には、「彼は人生を知る爲に街頭の行人を眺めなかつた。寧ろ行人を眺める爲に本の中の人生を知らうとした。それは或は人生を知るには迂遠(うおん)の策だつたのかも知れなかつた。が、街頭の行人は彼には只(ただ)行人だつた。彼は彼等を知る為には、ー彼等の愛を、彼等の憎悪を、彼等の虚栄心を知る爲には本を読むより外はなかつた」という記述がある。芥川龍之介が読んだ本とは「世紀末の欧羅巴の産んだ小説や戯曲」だったというが、具体的にはストリンドベリイやイプセンの作品とみて差し支えない。社会的現実の場で他人と接触し交流して人間としての生きかたを考えるよりも、同じことを本の中に描かれている人間像を通して把握しようとしたことになる。その結果として、芥川龍之介は芸術を創出することによって死の方向に向かわずに生きられることを悟った。
    自身が生きられるためには宗教の世界に入るか芸術に携わるか、そのふたつの選択肢を想定していたことが判明する。この場合の宗教とはキリスト教信仰であるが、キリスト教信仰とは永遠のいのちを生きることであり、永遠性を思い、希うことでもある。もし芥川龍之介が文学者でなかったら、ただちにキリスト教信仰を受容し、キリスト教信仰者となったはずである。

 しかし、芥川の眼前には文学というジャンルが存在していたので、宗教ではなく、文学、或いは芸術の分野を選択することになった。生きる、或いは生きられるという目的のために、芸術によっても宗教とほぼ同等に近い意義を実現することができると判断したからである。芸術にも永遠のいのちがあり、芸術の創出に携わることによって永遠性を思い、希うことが可能なように思われる。このようにして芥川龍之介は自身を文学へ、芸術へと方向づけることが決定した。
    スーザン・ソンタグは「美についての議論」(『新潮』平成15年2月号)でヘーゲルの見解を簡潔に紹介している。「芸術の美は天然の美よりも優れていて、『より高い』ものだとヘーゲルは言う。その理由は、それは人間が作ったものであり、精神の産物だからだと」(木幡和枝訳)というのである。芥川龍之介の芸術への信頼も、それが人間の精神による活動の所産にほかならないということに基づいていたと思われる。

 そのうち芥川には女性問題をめぐる現実的な問題が起きて、深刻な苦悩に直面する。それは二つあって、ひとりは若い女性との恋愛問題であり、もう一つはずっと後年、龍之介は結婚して家庭を営んでいる際に、しつこく彼にまつわりついた中年の女のことである。(以下は、野口氏論述の他に、関口安義『芥川龍之介』(平成七年・岩波新書)をも参考にした)。

 最初の恋愛の女性の名は吉田彌生というが、当時帝大英文科に在籍していた龍之介は、深川生まれで年も同じ、父の仕事の関係で知り合い親しくなった彼女と結婚まで考える(避暑地の上総一の宮からレターを送ったりする)が、結果的に養親と伯母のふきの猛反対でかなわなかった。反対の理由は彌生が婚外子だったからというが、乳飲み子の時から育てたふきは夜通し泣いて反対したという。そのうち彼女もある陸軍中尉との縁談がまとまってこの話はたち消えになった。が龍之介のショックは大きく、慰安のため吉原通いもして、官能に悲しみを忘れようとしたようだった。このことを終生の親友恒藤(井川)恭に手紙で打ち明けたところ、気晴らしに山陰行きの旅行を勧められた。そこで書かれたのが「松江印象記」である(関口氏は「大川の水」と類縁すると付記している)。
    もう一つ(これは野口氏の論述にはないのであるが)、ある女との関係は、芥川が菊池寛など長崎旅行に行った翌年の大正八年にはじまった。十日会という、岩野泡鳴を中心にした新進文士の会であったが、そこに秀しげ子という歌人を紹介されたのだった。芥川は一つ年上のしげ子に魅せられるものを感じ二人は近づきになったが、それ以降何度も理由を着けてはしげ子は会いたがり、何度か田端の家庭にもやってきたという(芥川も一時、しげ子の面影を忘れられないようだった)。大正十年三月から七月までの中国旅行も、一つにはこのしげ子からのがれるためだった。この出会いを、関口氏は章の項目名に「人生の陥穽」としているが、文字通り、落とし穴だったのだろう。


  
 
 
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