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「群系」40号、5月末日発行

 投稿者:管理人 iPad 6448  投稿日:2018年 5月18日(金)11時47分58秒
返信・引用 編集済
  『群系』第40号   内容

《特集Ⅰ》 日本近代文学の転換  ー大正昭和の文学ー
島崎藤村(承前)時々の藤村(二、壮年期)
志賀直哉 「暗夜行路」試論
永井荷風   震災後小説「ちゞらし髪」
谷崎潤一郎  谷崎文学における「幇間的ニヒリズム」の生命力
        ―『武州公秘話』を中心に―
和辻哲郎   その「転向」と不動  一、世代の洗礼と「転向」
芥川龍之介  「蜜柑」に関する覚え書ー「僅に」にこだわってー
芥川龍之介の「酒蟲」論
川端康成   昭和五年までの川端康成・その一断面
            ―小谷野敦・深澤晴美共編『川端康成詳細年譜』拾遺―
宮澤賢治『春と修羅』 ー永訣の朝ーを巡る想い
梶井基次郎 ー「拘泥の畑」からの出発
中野重治  「姉の話」激動期への予兆 ー「歌のわかれ」の前哨作ー
小林秀雄  「様々なる意匠」と初期の小説について
中原中也「都会の夏の夜」の解釈 ー「イカムネ・カラア」はまがっているー
中島  敦「巡査の居る風景」 ー【『戦争×文学』】第九回

《創刊三〇周年祝詞》  七人

《特集Ⅱ》野口存彌と日本近代文学ーその2
森鴎外  小説の問題ー「舞姫」以前「舞姫」以後 (2)
森鴎外「大塩平八郎」の読み方ー野口存彌「森鴎外『大塩平八郎』を読む」にふれて
島崎藤村「若菜集」への道程 ー『詩的近代の生成ー明治の詩と詩人たち』
芥川龍之介「芸術の光、人生の闇」(32号掲載)  解題
宮澤賢治   賢治についての野口氏の二つの論考  解題
梶井基次郎「城のある町にて」(15号掲載)  解題
野口雨情研究  ー野口存彌氏を中心としてー
《歴史ノート》島原の乱の後始末
《映画ノート》人生における二つの後悔について
《音楽ノート》感覚を磨くこと
《療養ノート》妊婦生活、拙稿についてなどの雑記

《自由論考》
藤枝静男評伝    私小説作家の日常(一)
村上春樹 再読(8) ー『ねじまき鳥クロニクル』
石原吉郎の詩、わたしの読み方(四)(前半)?? ? 詩集『禮節』から ?
島尾敏雄論 「徳之島航海記」の謎を読む ?隠された反軍的思念を探る試みー
《書評》
相川良彦著『漱石文学の虚実ー子孫に伝わる「坊ちゃん」と「草枕」の背景』

《創作》
初春のつどい(前篇)
忘却に沈む
息子と、開運
MEDIATORS(介在者たち)
物語・国宝法隆寺金堂壁画を護った人々ー京都便利堂の兄弟たち
【執筆者紹介】【既刊号目次】【編集後記】

   5月末日刊行・発送を前に、本誌購読を希望される方を募集します。会費は二千円/半期で、以下の群系編集部にメール連絡いただければ、当日発送名簿に入れさせていただきます(振替用紙を同封します)。もちろん、会員の方にはその次の号の原稿募集要項の通知とともに、作品投稿も出来ます。どうぞ、よろしく。(既に会員の方は、名簿掲載済みですのでご通知は不要です)。
※ 印刷部数決定のためにも、どれだけ需要があるか、のための公告でもあります。
         メール連絡先      uf2gmpzkmt@i.softbank.jp

   以下は、群系ホームページ(新版)です。40号発行の際に大幅更新の予定です。
http://gunnkei2.sakura.ne.jp/form1.html
 
 

デスクトップpcとiPadの違い

 投稿者:管理人 iPad 6287  投稿日:2018年 5月 7日(月)01時25分53秒
返信・引用 編集済
     デスクトップパソコンが使えなくなって、一ヶ月近くが過ぎただろうか。雑誌の原稿の受容、印刷所への転送、また出来た初校ゲラのPDF などの返送などは現在全てこのiPadで行なっている。iPadはapple社の製品だが、Windowsの、すなわちMicrosoftのwordなども添付できる。小さなこのiPadで、写真も送れるし、サイズの限界はあるが動画も送ることが出来る。大きなサイズで、かつ公的な内容の動画はこのiPadで撮ったものも、他で撮ったものもファイル共有すれば、ともにこのiPadからYou tubeへアップ出来る(これまでパーティーや合評会の動画をいくつアップしたことか)。またこのiPadでは同人誌への投稿原稿も書ける。ノートパソコンのようなキーボードは付いていないが、文字を打つときは、画面下にキーボードが映し出される。一つ一つの文字に凸部分はないが、タイピングするのに支障は全くない。原稿はメモのアプリにも書けるが、最近はpagesという固有のワープロソフトを発見してそこに書いて(打って)いる。

    さてそれではデスクトップpcは不要か、というと当方の場合、そうはいかない。編集責任者ということもあるが、なにより当該の同人雑誌の固有のホームページを作成途中のままだから、である。さすが、ホームページ作成はパソコンなしでは出来ない。まず、作成ソフトをpcにインストールするには光学ドライブが必要なのである。iPadにはそのドライブがない。
    最近のノートパソコンにもそのドライブが付いてないのもだいぶ出てきているようだ。パソコンメーカーの担当者にある時電話で話した時、ついでに聞いたのだが、今時のパソコンも、そうした光学ドライブがないのも出ているそうだ。そうなれば、たとえばofficeなどのアプリをインストールするにはどうするの、以前はそうしDVDなどがあって、それをドライブに入れたものだが。すると、担当者が言うには、いまは基本的にそれらもすべてネット経由でインストールするのだという。officeつきのpcの仕様に、「officeイメージ」とあるのは、インターネットで受信・ダウンロード、それからそれらwordやExcelをインストール出来る、という意味だそうだ。
    当方のiPadの文書はそのままでは印刷出来ない。デスクトップのインターネットが復活すれば、ワード文書などをメール転送して、デスクトップpcからプリンターにデータを転送、印刷が出来る。プリンターにブルーツースの受信装置があれば(すなわちiPadの無線が受信出来れば)、iPadのデータも直接送って、印刷は出来るが、それは新しいプリンター購入後の話である。逆に言えば、周辺の便宜が整えば、iPadで印刷も、アプリのダウンロード、インストールも全て出来るということだが、当方としてはそうまで一極集中させることを好まない。すべてがiPad、仕事も余暇も、そして印刷もHP作成もiPadとなると、さすが機能不全になる(小生自身も)と思うからである。

    となると、ではどんなデスクトップパソコンがいいのか、その選択に迷うことになる。
 

新規のデスクトップ

 投稿者:管理人 iPad 6157  投稿日:2018年 4月29日(日)22時02分6秒
返信・引用 編集済
     デスクトップパソコンのインターネットが出来なくなって、原稿の授受はこのiPadが頼りである。今回ダメになったのはdell製のパソコン、Windows10がos で、まだ導入して2年もたたないのに、マシンのネットを司る心臓部がやられた。復旧するには、os を工場出荷時に戻す必要がある、と派遣のパソコン専門家は言う。当然、データは全部、他のHDやUSBメモリに保持しておかねばならない。料金も45,000円かかると聞いて、これは新規購入にしかないと思い、時間があれば、パソコン購入サイトを覗いている。購入するには、ひょっとしてこれが人生で最後のデスクトップと思って(大げさ)、なるべく安くていいのと思って、hp製のslimlineか、dell製のNew Inspiron、か二択に絞っている。ともに同じシリーズでも、価格が下から上まであるが、せっかくだから、プロセッサーは第7世代 インテル® Core™ i3-7100以上、メモリは4GB以上、が欲しい。HDDは画像や動画はそうたくさん保存しないので、500GBでいいのに、いまは大抵1TBもある。クラウドもあるのにねえ。

    http://jp.ext.hp.com/desktops/personal/hp_slimline_270/

   http://www.dell.com/ja-jp

    しかし、最近は、原稿の授受(印刷元への転送も含め)、全てがiPad一つで出来ているので(原稿執筆もiPadだ。pagesという、Windowsのwordに似たものがある)。それでも、デスクトップにこだわるのは、ホームページ作成ゆえか。ま、少しは彼の(パソコンの)領分を残しておかなければ、ね。
   しかし、何度も小職は言っているが、iPadの手軽さは、Windowspcの比ではありません。思った通りに検索、操作性が見た目通りなのです。この点は、マイキロソフトのビル・ゲイツよりも、マックのスティーブ・ジョブスの方がエライです。
 

iPadのword、pagesは便利!

 投稿者:管理人 iPad 6057  投稿日:2018年 4月25日(水)15時33分45秒
返信・引用
     下の芥川論解題については、iPadのアプリに、Windowsのwordに相当するものを発見して(!)、そこで用を足すことが出来たので、下のものはまだ中途ですが、これで終わりにします。関心を持っていただいた方にはすみません、「群系」40号に掲出しますので、ご覧ください。なおワードに相当するiPadのアプリは、pages といい、驚くことはこれをさらに、wordやPDFにー発変換出来ることです。ま、それでwordに変換、印刷元に添付で送って、初校ゲラを得たところです。  

芥川論 備忘のために

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2018年 4月18日(水)21時16分15秒
返信・引用 編集済
  以下は、メモ帳に書いている原稿が、ふいと消える場合があるので、その備忘のために掲出するものです。デスクトップがダメなので、iPad頼みです。

野口存彌「芥川龍之介・芸術の光、人生の闇」(「群系」32号掲載)解題
                   永野悟

    今更に芥川龍之介論かと思われていたが、何度か精読、他の研究とも徴してみると、野口氏のこの芥川論がいまでは定説となっている生誕と生長に新たな論を提出していること、さらにそのことが芥川の人生観、芸術観に影響を及ぼし、死生に関係していることがわかり、数ある野口氏の文芸研究・評論の中でも嶺を作るものであるかと思われた。
   まず出生の事実関係から書き起こしてみる。一般には野口氏が書くように以下のようである。

      芥川龍之介は明治二十五年三月に東京築地(当時、京橋区入船町)で生まれた。誕生したのが辰年辰月辰日辰刻だったので、龍之介と命名された。父新原敏三はいくつかの牧場を所有し、付近にある外人居留地に住む外国人を主な対象に耕牧舎という名称の牛乳販売店を経営していた。しかし、誕生から約七ヶ月後に母ふくが精神異常に陥るという事態になった。

   実母の発狂、これは遺伝という考えが普遍的になったこの頃、その子・芥川を苦しめたものであるが、各種年譜にはその時点ですぐ母の実家の本所(当時、本所小泉町)の芥川家に預けられたとあるが、「はたしてそれはそのとおりなのか問題がないわけではない」と野口氏は問題を投げかける。たった七ヶ月で父親が実の子を自分の手元から手放すほど、敏三は愛着がないはずはなく、それが証拠に何度も芥川家と裁判問題を起こしているし、もし龍之介がすぐに本所へ移っていたにしても、四歳年上の姉ひさ(久)はどこに置かれたかの問題があるとする。また発狂したという実母もそれから十年生き延びている(明治三十五年十一月死去)。
    この出生生育の地については、多くの読者は芥川自身の作品から築地ではなく、本所の地名を想定してきた。それは一高時代に書いた文壇活動第一作「大川の水」(明治四十五年一月「心の花」)に、「自分は、大川端に近い町に生まれた」という冒頭の切り出しからであり、またずっと後年の「大導寺信輔の半生」でも、「大導寺信輔に生まれたのは本所の回向院の近所だった」という冒頭の開陳の文句からであって、そこには築地に生まれたという事実が描かれていない。これは単に一歳未満の赤子の記憶だから、とする一般見解に対し、野口存彌氏は築地の記憶が龍之介にあった、それも一歳未満ではむろんなく、おそらく以下の芥川自身の記述に徴するにもうしばらくの間の記憶だろうとするのである。以下は芥川が中学校の最上級生になった時に書いたと推定される「十八年目の誕生日……」と題された習作である。

     私は築地の何とか云ふさびしい通りで生まれたのでした。家のうしろが小さな教会でこんもりした株の木立の間から、古びた煉瓦の壁が見えて、時々やさしい歌の声が、其の中からもれて来たのと、低い腰掛が二かはに行儀よくならんだ、薄暗い部屋のつきあたりに黒い髪の女の大きな額がかかってゐたのとは未だにはっきり覚えております。ます   私は裏庭の日当たりのいい葡萄棚の下で鵞鳥に餌をやるのが    何より楽しみでした  海は直  ちかくでしたので  よく下女に負ぶさつて見に行きました  あの鳶色の帆がしめつぽい風をうけて静に海の上をすべツてゆくのや  勢のいい船唄や   黄色がかつた水がたぷたぷ石垣をなめてゐるのが  下女に舟幽霊の話しやすい人魚の話をしてもらひながら   湖の底にある国の事を考へていた幼児に  どんな感じをおこさせたかは  たしかに覚えてゐません
     いくつの時でしたか   本所へ住むようになつて    ここから学校へかよひました

  この「十八年目の誕生日……」は、『芥川龍之介未定稿集』(昭和43年)に収載されているもので、編者の葛巻義敏は龍之介の甥、つまり四歳年上のひさの息子である。葛巻によると、〔この原稿は、半紙に墨で下書きされた二種類がある。いずれもが、ほとんど読めないほど、字が乱れている。ーが、彼が知る筈のない生れた家と、其付近のことが出て来るので、出来るだけ判読して見た〕と付記している。
    葛巻のこうした努力によって出来た「十八年目の誕生日……」は重い資料的価値を持っているとみて差し支えない、と野口氏は言う。
    「ひとりの少年が生長して青年期に達しようとしているのを自覚した時、未来に向かうためには過去と決別しなければならなくなる。そこでまだ幼かった時期の日々を思い返してみる。すると、かつて確かに眼に触れたのに、そのまま記憶の奥に隠れてしまっていたひとつひとつの情景が克明に眼の奥に浮かんでくる。さまざまなものの色や形や動きまで鮮やかに思い起こされる。しかし、過ぎ去った日のそれらの記憶を思い出すのは、追想にふけるためではなく、それに決別を告げるためだった。この年齢特有のそうした精神の営みを経験することによって、自身の幼年期や少年期を抜け出て、青年期へ、ーさらには成人の領域へ参入していくことになる。
    芥川にとって、「十八年目の誕生日……」はいま述べたような意味を担った文章にほかならない。他人に示すのが目的ではなく、自分の必要のためにだけ書かれた文章であり、虚構が含まれているとは受け取れない。」

    この野口氏の推断は、芥川にとってのいわゆる作品と自らの手記との違いを想わせる。すなわち、「他人に示すのが目的」の文芸作品と、「自分の必要のためにだけ書かれた文章」との違いである。前者はいわばこうである自分、あるいはこうでありたい自分を披瀝するものであり、後者はそうでなく、自分の生長のために書き付ける自分確認のものだ。芥川の場合、その両者が截然としないところもあるが、今回の「十八年目の誕生日……」は、明らかに性格がはっきりしている。後年の「大川の水」にしても、「大導寺信輔の半生」にしても、タイトルが如実に示すように、芥川のある回顧を主題にしている。人に読まれんがために、出生地と生育地が違う煩瑣は避け、ここはあくまで本所(小泉町)にした方が無難だとという創作者の意識が働いた。後に「本所両国」を書く時も(これは新聞社の社命を受けたと冒頭にあるから私的な手記ではない)、それに続いて「僕は生れてから二十歳頃までずっと本所に住んでいた者である」と断り書きをしている。

   もう少し、この「十八年目の誕生日……」の記載事実と芥川の年譜的事実とを擦り合わせるなら、「私は築地の何とか云ふさびしい通りで生まれたのでした  家のうしろが小さな教会でこンもりした柊の木立の間から  古びた煉瓦の壁が見えて  」とあるのは、芥川が誕生した時に父が四十三歳で後厄、母が三十三歳で厄年にあたっていたので、当時の厄払いの風習に従って、その教会の路傍に一日捨て子という形式を踏ませられたという年譜事実と合致する。すなわち家の向かいの教会の前へ捨てられ、その子を松村浅二郎(父経営の耕牧舎の日暮里支店経営者)が拾い親となった。また、「時々やさしい歌の声が其の中からもれて来た」のと、「薄暗い部屋のつきあたりに黒い髪の女の大きな額がかかってゐた」のを覚えているというのも賛美歌と聖母像ではないかと思われる。さらに、「私は裏庭の日当たりのいい葡萄棚の下で鵞鳥に餌をやるのが    何より楽しみでした 」とあるのも、七ヶ月の乳児には出来ないわざで、これはハイハイを脱した一、二歳児の仕業とみるのが自然であろう。要するに、その頃まで築地にいたということであろう、と野口氏は思料するのである。
  「海は直  ちかくだったので  よく下女に負ぶさつて見に行きました  あの鳶色の帆がしめつぽい風をうけて静に海の上をすべツてゆくのや  勢のいい船唄や   黄色がかつた水がたぷたぷ石垣をなめてゐるのが  下女に舟幽霊の話や人魚の話をしてもらひながら   海の底にある国の事を考へていた幼児に  どンな感じをおこさせたか」とあるのは一定の記憶の元に、後年の作者の想像力が物したものであろう。さすが、いくら早熟で記憶力もよい龍之介にしても、こんなのは幼児ではありえないからであり、この描写表現も後年の想像が入っていようからである。実際龍之介の文章はその後、「どンな感じをおこさせたかは  たしかに覚えてゐません」と結んでいる。自分の生長のために書き留めた日記用のものに、多少の修飾はあっても、大元のところに嘘を交えることはない、とするなら、この文章は描写内容は大目に見ても基本的資料となるのではないか。
    さて、それでは実際に龍之介は芥川家にいつ引き取られたのか。各種年譜などによると、概ね、「明治二十五年十月二十五日、母フクが突然発狂した。そのため、龍之介は母の実家、本所小泉町一五番地の芥川家で養育されることになった」「芥川家はもと徳川家御奥坊主の家柄の旧家。フクの兄芥川道章と妻の儔(トモ)のほかに伯母のフキがおり、龍之介の面倒をみた。道章は、東京府土木課長を勤めていた」などとある。さらに実母の実家である芥川家は「代々奥坊主として徳川幕府に仕えた士族の家柄で、道章の一中節習いや一家揃っての芝居見物などをしていた」など、幼少年期の子供への文化的影響力のある家だったとしているが、それはそれで首肯できることである。問題は、「明治二十五年十月二十五日、母フクが突然発狂した。そのため、龍之介は母の実家、本所小泉町一五番地の芥川家で養育されることになった」とあるところだ。年譜類は皆「母フクが突然発狂」とあり、そのまま「龍之介は母の実家、本所小泉町一五番地の芥川家で養育されることになった」とある。「突然の発狂」とはどういう事態をいうのか、また家族はどんなことを配慮して、その実母の実家に預けることになったのか、その仔細はわからない。龍之介自身も七ヶ月の乳児であるから事情がわかるわけはない。忖度するに、一つは芥川道章と妻の儔(トモ)夫婦には子供がいなかったこと、同居していた母フクの実姉フキ(生涯独身)が龍之介を溺愛したこと(がこれは後の話だ)、などがあろうが、本当のところはわからない。母フクは特に精神病院送りということもなく翌年築地の外人居留地が廃止されたので、その翌年夫の新原敏三とともに、芝区新銭座に移り住み、そこで静かに余生を送り、十年後の明治三十五年十一月二十八日に死亡している。

    さてここで問題になるのは、芥川にとってこの実母はどんな意味をもたらしたのか、ということである。生母の問題は誰にとっても重要だがこの生い立ちが重視されるこの作家にとっては特に大事だ。
    今までの陳述でも、生地についての加工・粉飾があることは書いた。が生母についての記述はほとんど書かれていない。いわば封印なのである。デビュー作品といえる「大川の水」にはあれほど生地近くに流れる大川(隅田川)に郷愁を感じ、それに母性までみているのに実際の母には言及していない。
   母というものに触れるのは、大正十四年発表の「大導寺信輔の半生」からであろうか。第二章「牛乳」には次のようにある。

 信輔は全然母の乳を吸つたことのない少年だつた。元来体の弱かつた母は一粒種の彼を産んだ後さへ、一滴の乳も与へなかつた。のみならず乳母を養ふことも貧しい彼の家の生計には出来ない相談の一つだつた。彼はその為に生まれ落ちた時から牛乳を飲んで育つて来た。それは当時の信輔には憎まずにはゐられぬ運命だつた。彼は毎朝台所へ来る牛乳の壜を軽蔑した。又何を知らぬにもせよ、母の乳だけは知つてゐる彼の友だちを羨望した。

   父の実家が牛乳製造業だったことも反映していようが(龍之介は後年背の低いこの実父の容姿を憎んでいた)、何よりここにあるのは母なるものへの憧憬、ないもの・欠如されたものへの、翹望ではないか。むろん「発狂した実母」は頑なに隠されている(「体の弱かつた母」と韜晦している)。
   それがいよいよ彼自身の危機が迫ってきた時には、ついに内面の真実を吐露するにいたる。大正十五年十月発表の「点鬼簿」には書き出しに次のようにある。


 僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髪を櫛巻くしまきにし、いつも芝の実家にたった一人坐すわりながら、長煙管ながぎせるですぱすぱ煙草たばこを吸っている。顔も小さければ体も小さい。その又顔はどう云う訳か、少しも生気のない灰色をしている。僕はいつか西廂記(せいそうき)を読み、土口気泥臭味の語に出合った時に忽たちまち僕の母の顔を、――痩やせ細った横顔を思い出した。
 こう云う僕は僕の母に全然面倒を見て貰ったことはない。何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶あいさつに行ったら、いきなり頭を長煙管で打たれたことを覚えている。しかし大体僕の母は如何にももの静かな狂人だった。

      この文章は論者の若い頃から読み触れ、芥川の生母と自殺する芥川のイメージを決定づけた文章である。特に「一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶あいさつに行ったら、いきなり頭を長煙管で打たれた」は芥川のみならず、衝撃的なことであろう。だがその後の記述は何か多少救われる。「しかし大体僕の母は如何にももの静かな狂人だった」ー。

さて、それでは実母ふくはなぜ狂ってしまったのだろうか。そのことについては、先の葛巻義敏の母、つまり芥川の四歳年上の姉ひさの手記がある、として野口氏は引用する。それによると、母フクはひさの姉はつを自分の手落ちで死なせてしまった、この自責の念が原因ではないかという。はつは明治十八年の生まれで、ひさは明治二十一年の生まれである。ひさは昭和三十一年に永眠しているが、生前に手記を書きのこしていた。子息の巻義敏がその手記を整理したうえで、『世界』昭和四十一年二月号に「叔父芥川龍之介のことども ー母久子の『思ひ出』から」と題して全文を発表している。その文中で母ふくが精神異常に陥った経緯にも触れられている。

 母が病気になつた事についても、色々の人に聞けばいろいろの原因があつたらしい。
 誰でも一番に挙げる事は、ー私の姉の初子の死であつたらしい。姉が七歳の四月の時であつた。ー父は、親戚を招いて、芝居を観に行つた。が、母はどうしてか、〔其等の親戚の誰かを煩しい事に思つたのか?ー〕一人で、姉をつれて、新宿の牧場へ「椿狩り」に行つた。
 楽しく、日暮れまで遊んで帰つたが、その晩から、ー姉は高い熱を出して、風邪を引いたらしかつた。医者は「急性脳膜炎」らしいと云つた。ー母は、必死の看護をしたが、姉のその小さい瞼は再び開かなかつた。

    父新原敏三が新宿に所有している牧場は広大な規模のものだった。手記では母ふくが観劇に行かずに、はつをその牧場に椿狩りに連れていき病気にさせて、亡くなってしまったことを精神異常に陥った第一の原因に挙げている。手記には母ふくに関して、「小柄で、色白く、神経質で、ー口かずが少なく、小心なひとであつた」という記述も存在する。そのような性格だけに、はつの死から激しい自責の念に苛まれ、それが心身に回復不可能なほどの大きな影響を与えることになったと考えられる。
 もう一点、手記に指摘されているのは芥川龍之介が誕生した時、捨て児の形式を踏ませられたという問題である。このことが「かなりの心の痛手でもあつたらう。ー後から考へれば、もう少し周囲で、母の心の底を察したならばと思ふ」と述べている。どちらも自分の産んだ子供に起きた出来事によって、母ふくは精神を蝕まれる結果になった。

    ふくにその事態が生じたのは、明治二十五年十月のこととされる。その後、新原家と芥川家とのあいだでどのような話合いがおこなわれたのかは一向に判然としないが、芥川龍之介は本所の芥川家に預けられた。当主の芥川道章は東京府土木課に勤める官吏だった。妻は儔(とも)いい、子供には恵まれなかった。ふくの姉や妹が同居していたが、ふくの姉で、結婚経験のないふきが芥川龍之介の養育を担当することになった。ふきは添い寝までして細やかに育ててくれたが、一方で芥川龍之介をきびしくしつけたと言われる。「追憶」(『文藝春秋』大正15年4月号~昭和2年2月号)の「灸」という章には、いたづらをした時の伯母の怖さが書かれている。
 しかし、芥川龍之介は伯母ふきに早くから文字を読むことを教えられた。「追憶」の中の「草双紙」という章で、自宅の本箱には草双紙がいっぱい詰まっていて、もの心ついた頃からそれらの草双紙を愛読したと語っている。そこに登場する恐ろしい大天狗が、自身の記憶に残る最初の作中人物になったということである。本を読むという行為に関して、「大導寺信輔の半生」の「本」の章で具体的に書かれているが、そこには、小学校の上級生になって、弁当やノート・ブックを小脇にかかえて大橋図書館に通うようになった自身の姿も描かれている。また、森本修『新考・芥川龍之介伝 改訂版』によれば、読書だけで満足することができず、明治三十五年から翌三十六年にかけて同級生と回覧雑誌『日の出界』を編集発行している。そこに「昆虫採集論」や「大海賊」といった表題の文章を発表する。

 三好行雄編の年譜(『現代のエスプリ』第24号収載・昭和47年3月)には小学生当時につくった俳句として「落葉焚いて野守の神を見し夜かな」が引用されている。この俳句は「落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな」が正確ではないかと思われるが、葉守りの神とは柏の木に宿る樹木の守り神をさしている。夜、落葉を焚いた時に炎に照らされた闇の奥に樹木の守り神の姿を見たという意味になる。小学校四年生の時につくったとされるが、完成度が高く奥行きが深くて、到底小学生のつくった俳句とは受け取れない。芥川龍之介の文学活動の出発点にこの俳句を位置づけることさえ可能なように思われる。
   さらに外国語に関してであるが、「私の文壇の出るまで」(『文章倶楽部』大正6年8月号)に「私は十位の時から、英語と漢学を習つた」と記されている。「小説を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」(「ー出世作を出すまで」『新潮』大正8年1月号)にもそれとまったく同一の記述がある。これは語学の才能があったとか語学力が発達していたといった度合いを超えて、文字そのものが好きであり、文字に対する愛着心や好奇心というような心理の働きがあったと判断するのが妥当になる。

 そういう小学生時代に始まって、中学校、高等学校、大学に至るまでの学校教育を通じて、芥川龍之介の学業成績はつねに優秀だった。東京府立三中(現、両国高校)に進んだが、のちに同校の校長になった広瀬雄は芥川龍之介が入学した時に一年生の主任を担当していて、「芥川龍之介の思出」を『芥川龍之介読本』(『文藝』臨時増刊・昭和31年4月)に寄稿しているが、それによると、広瀬雄は入学の第一印象を一年生会員に書かせたというが、その中に半紙一枚全面に亘る堂々たる文章があった、それが芥川龍之介のものだったという。単に学業成績が優秀だったというだけでなく、他の誰ももっていない際立った個性的な特徴を感じさせる少年だったことが判明する。
 それでは芥川龍之介にとって学校という環境が快適なものだったのかと言えば、決してそうではなかった。「大導寺信輔の半生」の「学校」と題された章には、学校に関して「薄暗い記憶ばかりを残してゐる」と記し、「殊に校則の多い中学を憎んだ。如何に門衛の喇叭の音は刻薄な響きを伝へたであらう」と述べている。授業を通じての知識の詰めこみ教育をドストエフスキーの『死の家の記録』に描写されているバケツの水を他のバケツに移すだけという無意味な労役をただ単純に繰り返すことを強いられる囚徒になぞらえたうえで、「鼠色の校舎の中に、ー丈の高いポプラアの戦(そよ)ぎの中にかう云ふ囚徒の経験する精神的苦痛を経験した」と書き、「教師と言うものを最も憎んだのも中学だつた」というのである。
    母ふくの精神異常という事態は家族という枠組みのなかでの問題である。しかし、中学校のなかで起きたことはそうした枠組みを超えた、自分と純然たる他者との関係の問題である。一生を通じて最も苦しかったのは少年期だったという人が現実に存在しよう。芥川龍之介もそういう例に当てはめて考えることが可能かもしれない。暗鬱な人生的苦悩が中学時代から本格的に始まっていたと判断できる、と野口氏は言う。

   明治四十三年に第一高等学校に入学する。芥川家は本所から新宿の牧場のなかにある父新原敏三の所有していた家に転居している。芥川龍之介は第一高等学校の一年生の時は自宅から通学し、二年生から寮に入っている。
    前掲の三好行雄編の年譜の明治四十四年の項には「龍之介は秀才肌のまじめな学生で、読書欲・知識欲も依然として旺盛だつた。ボードレール、ストリンドベリイ、アナトール・フランス、ベルグソン、オイケンなどを愛読した」と記載されている。もっぱら西洋文学の作品を濫読していたことが推察できる。
   一方、この年、友人の山本喜誉司に注目したい内容の書簡を差し出している。

     しみじみ何のために生きてゐるのかわからない。神も僕にはだんだんとうすくなる。種の爲の生存、子孫をつくる爲の生存、それが真理かもしれないとさへ思はれる。外面(めん)の生活の欠陥を補つてゆく歓楽は此苦しさをわすれさせるかもしれない。けれども空虚な感じはどうしたつて失せなからう。種の爲の生存、かなしいひゞきがつたはるぢやアないか。
 窮極する所は死乎、けれども僕にはどうもまだどうにかなりさうな気がする、死なずともすみさうな気がする。

 因みに山本喜誉司は府立三中時代の同級生で、のち大正七年に芥川龍之介と結婚することになる塚本文の母の弟で、叔父にあたる人である。芥川龍之介と一年遅れて第一高等学校に入学しているが、今の書簡を書いた時、芥川は第一高等学校の二年生で、二十歳である。
 年齢的にようやく成人の領域の入り口に到達しているが、この時点で生の先に死が存在することを前提にして人生を考察している。死を考えるというのは人生的苦悩の最たるものである。しかし、そういう苦悩のなかで生存欲による生きかた、或いは単に生存するために生きるという方途があるのをつかみ出していた。

 ここで語られていることが「羅生門」(『帝国文学』大正4年11月号)を発想するうえでの原点となり、さらに『侏儒の言葉』のよく知られているアフォリズム「地獄」をも成立させるうえでの原形的な考えかたになったと判断できる。「侏儒の言葉』は『文藝春秋』大正十二年一月創刊号から同十四年十一月まで連載され、その後に書かれたものが同誌昭和二年九月号に遺稿として発表された。次が「地獄」の章の要点の箇所である。

     人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば、飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の与へる苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食ひ得ることもあるのである。のみならず楽楽と食ひ得た後さへ、腸加太児(カタル)の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。

 地獄の法則性とは地獄に堕ちた場合、ただひたすらに生存するためにだけ生きればいいという意味ではないかと解釈することができる。人生的現実はそのような単純なものではないことを無法則性と表現しているように思われる。人生的現実での苦悩は深刻で苦しく、それに比べれば地獄で生存するためにだけ生きるほうがはるかに容易だと芥川龍之介は認識していたことが明らかになる。
    同時に、そのような認識は『侏儒の言葉』によってはじめて成立したのではないという点である。先程も触れたが、明治四十四年の山本喜誉司あての書簡に、その認識の原点となるものが形成されいるのを見出すことができるのだった。
 さらに芥川龍之介の文学の初期を代表する「羅生門」は、地獄で生存欲のためにだけ生きるのであれば、それはむしろ容易なことではないのかという問題意識が形象化された作品のように受け取れる。それとは対蹠的に、晩年を代表する「歯車」(『大調和』昭和2年6月号、『文藝春秋』同年10月号)は、人生的現実を生きることがいかに深刻で苦悩にみちたものであるのかを表現した作品だと判断できる。ただ、山本喜誉司あての書簡から『羅生門』が成立するまでの経過だけでも決して単純に進める道筋ではなかった。
   まず採りあげたいのは、第一高等学校に在学中の明治四十五年一月に文壇活動第一作となる「大川の水」の初稿を書き上げていることである。この作品は翌大正二年に同校を卒業して東京帝国大学英文科に入学してから、『心の花』大正三年四月号に発表された。
 これまでに触れた「十八年目の誕生日……」には「私は築地の何とか云ふさびしい通で生まれたのでした」という記述がみられた。しかし、「大川の水」には冒頭に「自分は、大川端に近い町に生まれた」と記されている。「十八年目の誕生日……」には母についてまったく言及されておらず、母の存在を封印してしまっているのを指摘したが、「大川の水」はその点が同じであるうえに、自身の誕生の場所が築地から大川端へと変更されている。それは母についての考えかたに変化が生じたことと関係があるように思われる。

        自分は、昔からあの水を見る毎に、何となく、涙を落としたいやうな、云ひ難い慰安と寂寥とを感じた。完(まつた)く、自分の住んでゐる世界から遠ざかつて、なつかしい思慕と追憶との爲に、此慰安と寂寥とを味ひ得るが爲に、自分は何よりも大川の水を愛するのである。

 この引用からは、精神異常に陥った母ふくが明治三十五年、芥川龍之介が十歳の時に死亡したという事実を踏まえて、失ってしまった母胎を代償するもののように大川の水が受けとめられているのが感じられる。単なる大川の水を描写する文章ではなく、大川の水を見る時に意識する感情の動きは母というよりむしろ母胎に対するなまなましい感情の動きにほかならないように思われる。

 また夜眺める大川の水については、「夜網の船の舷(ふなばた)に倚つて、音もなく流れる、黒い川を凝(みつめ)視(みつめ)ながら、夜と水との中に漂ふ『死』の呼吸を感じた時、如何に自分は、たよりのない淋しさに迫られたことであらう」と述べている。大川の水に母胎を意識せずにいられないというかたちで母について考えると、そこに死の想念が結びついてしまうという事情をうかがうことができる。
 のちの「大導寺信輔の半生」でも書き出しの一行が「大導寺信輔の生まれたのは本所の回向院の近所だつた」となっていて、芥川龍之介はここでももはや築地で誕生したと語ることはなかった。
 この時点で、たとえ生の先に死が存在することを自覚していても、自己を死の方向へ持っていこうとは考えなかったに違いない。いかにすれば自分は生きられるだろうかと思考をめぐらしたことが想像できる。「大導寺信輔の半生」の「本」の章には、「彼は人生を知る爲に街頭の行人を眺めなかつた。寧ろ行人を眺める爲に本の中の人生を知らうとした。それは或は人生を知るには迂遠(うおん)の策だつたのかも知れなかつた。が、街頭の行人は彼には只(ただ)行人だつた。彼は彼等を知る為には、ー彼等の愛を、彼等の憎悪を、彼等の虚栄心を知る爲には本を読むより外はなかつた」という記述がある。芥川龍之介が読んだ本とは「世紀末の欧羅巴の産んだ小説や戯曲」だったというが、具体的にはストリンドベリイやイプセンの作品とみて差し支えない。社会的現実の場で他人と接触し交流して人間としての生きかたを考えるよりも、同じことを本の中に描かれている人間像を通して把握しようとしたことになる。その結果として、芥川龍之介は芸術を創出することによって死の方向に向かわずに生きられることを悟った。
    自身が生きられるためには宗教の世界に入るか芸術に携わるか、そのふたつの選択肢を想定していたことが判明する。この場合の宗教とはキリスト教信仰であるが、キリスト教信仰とは永遠のいのちを生きることであり、永遠性を思い、希うことでもある。もし芥川龍之介が文学者でなかったら、ただちにキリスト教信仰を受容し、キリスト教信仰者となったはずである。

 しかし、芥川の眼前には文学というジャンルが存在していたので、宗教ではなく、文学、或いは芸術の分野を選択することになった。生きる、或いは生きられるという目的のために、芸術によっても宗教とほぼ同等に近い意義を実現することができると判断したからである。芸術にも永遠のいのちがあり、芸術の創出に携わることによって永遠性を思い、希うことが可能なように思われる。このようにして芥川龍之介は自身を文学へ、芸術へと方向づけることが決定した。
    スーザン・ソンタグは「美についての議論」(『新潮』平成15年2月号)でヘーゲルの見解を簡潔に紹介している。「芸術の美は天然の美よりも優れていて、『より高い』ものだとヘーゲルは言う。その理由は、それは人間が作ったものであり、精神の産物だからだと」(木幡和枝訳)というのである。芥川龍之介の芸術への信頼も、それが人間の精神による活動の所産にほかならないということに基づいていたと思われる。

 そのうち芥川には女性問題をめぐる現実的な問題が起きて、深刻な苦悩に直面する。それは二つあって、ひとりは若い女性との恋愛問題であり、もう一つはずっと後年、龍之介は結婚して家庭を営んでいる際に、しつこく彼にまつわりついた中年の女のことである。(以下は、野口氏論述の他に、関口安義『芥川龍之介』(平成七年・岩波新書)をも参考にした)。

 最初の恋愛の女性の名は吉田彌生というが、当時帝大英文科に在籍していた龍之介は、深川生まれで年も同じ、父の仕事の関係で知り合い親しくなった彼女と結婚まで考える(避暑地の上総一の宮からレターを送ったりする)が、結果的に養親と伯母のふきの猛反対でかなわなかった。反対の理由は彌生が婚外子だったからというが、乳飲み子の時から育てたふきは夜通し泣いて反対したという。そのうち彼女もある陸軍中尉との縁談がまとまってこの話はたち消えになった。が龍之介のショックは大きく、慰安のため吉原通いもして、官能に悲しみを忘れようとしたようだった。このことを終生の親友恒藤(井川)恭に手紙で打ち明けたところ、気晴らしに山陰行きの旅行を勧められた。そこで書かれたのが「松江印象記」である(関口氏は「大川の水」と類縁すると付記している)。
    もう一つ(これは野口氏の論述にはないのであるが)、ある女との関係は、芥川が菊池寛など長崎旅行に行った翌年の大正八年にはじまった。十日会という、岩野泡鳴を中心にした新進文士の会であったが、そこに秀しげ子という歌人を紹介されたのだった。芥川は一つ年上のしげ子に魅せられるものを感じ二人は近づきになったが、それ以降何度も理由を着けてはしげ子は会いたがり、何度か田端の家庭にもやってきたという(芥川も一時、しげ子の面影を忘れられないようだった)。大正十年三月から七月までの中国旅行も、一つにはこのしげ子からのがれるためだった。この出会いを、関口氏は章の項目名に「人生の陥穽」としているが、文字通り、落とし穴だったのだろう。


  
 

文学批評の成り立つ基盤は何か。

 投稿者:管理人 iPad 5791  投稿日:2018年 4月13日(金)18時55分31秒
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     次号(40号)の原稿が早くもいくつか入ってきている。それも力作だ。「群系」は、昭和63年創刊で、今年は三〇周年になる。その祝詞を外部の先生方に依頼しているが、こちらも早くもご寄稿の承諾を得つつある。

    小説はともかく、近代文学研究、批評はいま流行りではないと言われる。娯楽やエンターテインメントをおいて、研究分野にしても、アカデミックでない、という感じがされているのであろう。だが、人文・社会科学において、真にアカデミック・知的とはなにであるのか。いまマスコミでしょっちゅう報じられる政治スキャンダルが知的であるのか。そも政治学や社会学、はどんな知的な評価基準、スタンダードがあるのであるか。ましてやマスコミにどんな報道規準があるのか。
    法学は、とりあえず法律は人為であるにしろ、基準・規範があるとはいえよう。だがその法的体系の基盤自体はほんとに覚束ないものでもある。前代の王権神授説にしろ、近代専制国家のよる基盤にしろ、そのよって立つ政治思想や哲学は、しかるべき知性が論じきたってきたものである。人間の思惟・知恵のしからしむるところといえよう。
    さすれば、統治における思惟がそれなり有効なものがあるとすれば、人間の個々の私的生活、あるいは社会生活を表現した文学にも相応の知的思惟があることであろう。

    この国の文学批評の原理は、江藤淳に言わせれば、戦前はほとんど無きに近いものだったという。こう断言する江藤の『作家は行動する』と、吉本隆明の『言語にとって美とは何か』が、初めて文体論や、<自己表出><指示表出>という言語の属性から、本格的文学論を論じたものであろう。
     江藤は、フローベル由来の時代論・社会論を徹底的に批判する。作家論をそうした外部に由来する決定論からは、作品批評も作家論も生まれないという。江藤の筆は当然この国の自然主義批判に向かう。「人生の真実を描く」などは空念仏、何ら本質的なものはない。「こんな自分でも生きていきたい」という藤村にすら、彼には根本的な文学論がないとする。ましてや花袋、私小説作家にはなにもないという。自ら隘路に入っていったこれら作家には愚かさしかないという筆致だ。
    では江藤は何を文学、その表現に求めるのか、というと、タイトルにある通り、〈行動〉、だという。作家〈主体」の熱意、行動が文脈に現れるものそれが大事で、批評家はそれを掘り起こすべきなのだという。明治大正期の作家でそれがあるのは二葉亭、鴎外、漱石くらいだと言って、江藤の論は戦後作家に及ぶ。戦後作家において、それらの行動・主体性が見られるとして、彼の眼は大江健三郎や石原慎太郎の作品に及ぶ。
    確かに大江の初期作品には、江藤の言う〈文体)があろう。「芽むしり仔撃ち」などの村人や少年、そして黒人兵の汗や、緑の自然や青い空、の新鮮な文体は躍動している。戦後の閉鎖空間から確かに脱け出ようとする、戦後の状況がそこには展開される。人物を描く作家主体の躍動さえも感じられる。文学は表現に過ぎないはずなのに、読む読者に新たな方向も与え得る、と言うものか。論じる江藤の筆致にも元気が感じられる。
    この江藤の主張で驚いたのは、藤村どころか、折口信夫、そして小林秀雄にまで批判が及んでいることだ。折口の「死者の書」には主体がない、という。いわゆる民話・伝説の語りに偏して、主体の行動が見られない、とする。あの小林に対しても、自意識の停滞であって、行動がないとする。だがさすがこれらはともに、筆の滑り、若気の至りとも言うべきで、江藤と雖も誤読(誤受容)と思われるが、じっさい、後者については、徹底した読み直しが直後の『小林秀雄論』で見られる(これも本当に直後で、江藤三〇歳の作品である)。

    私は何を目途にこんなことを書くのか。それは言えば簡単なことで、自分をしるため、自分の関心を知るため、と言い切ろう。江藤淳や小林秀雄になぜ関心があるのか、というと彼らの問題意識に共鳴するからだ。政治や社会もいい、しかし彼らの当面の課題はもてあます自意識だった言えよう。これは単に自我だけではない。親や友人、異性のありようも関わっている。小林は(驚くほどに)普通の感受性を持った社会人・家庭人であった。だから父の死、母の病気、同棲した女の動向に感じ入っているのだ。戦後の述懐として、母が戦後亡くなったが、そのことは自分にとって一大事で、戦争の成り行きなんてどうでもよかっったー。およそ知識人らしからぬ言葉だが、だが真率な謂いであろう  。そうしたふつうの感受性に映った日本近代文学はどのようであったか。

   だが小林は江藤と違って、私小説を認めている。志賀直哉を師と仰いでいる。そもフランス象徴詩を学んでいた小林がどうして私小説か。それは「様々なる意匠」で評論デヴューから数年を経た『私小説論』に待つべきであろう。
 

ヤフオクで落札しました!

 投稿者:管理人 iPad 5471  投稿日:2018年 3月25日(日)19時45分2秒
返信・引用 編集済
     小林秀雄全集第六次版(『小林秀雄全作品』)をヤフーオークションで、2万2千円で落札した。全28巻(+別巻4冊)、ふつうに買えば6万円以上はするものだ。当職は、第四次版全集(13巻)は持っていたが、これは小林生前の刊行のもので、ここには案外掲出されいない著作がある。処女作品の「蛸の自殺」(大正12)などがそれだ(一般には「一ツの脳髄」とされているが、一年も前にもう一つあったのだ)。
    小林は批評家としてその名が確立しているが、初期作品は小説がほとんどである。「女とポンキン」(大正14)、「からくり」(昭和5)、「眠られぬ夜」(昭和6)、「おふえりや遺文」(昭和6)、「Xへの手紙」(昭和6)、など、それらは小説といえるか異論もあるが、小林の自意識を描いたという点では、当節流行りだった私小説とはいえたであろう。
    批評家として小林が自らを批評家として意識したのは、ある作家の自殺について書いた「芥川龍之介の美神と宿命」(昭和2年)だったかもしれない。だが、知性というよりほとんど神経しかなかった、と芥川を批評した小林も案外(知性は無論あっても)神経もかなり敏感だったのには違いなかろう。
    むろん、小林がこの時代的に喧しい文壇に躍り出たのは、「様々なる意匠」(昭和4年)であった。芥川の自殺を論じた「敗北の文学」(宮本顕治)が、「改造」の懸賞論文一席入選で、小林のは二席に甘んじたのは有名な話だが、このことは、先に言った「喧しい文壇」の事情があろう。小林も相当な意気込みで、この文壇に「絡め手」から挑んだのであった。
    当職は小林を論じないでは、大正・昭和の文学はわからないとまでおもう。小林がいかに志賀直哉に首ったけだったか、多分それは芥川の比ではない(奈良の志賀の居宅まで学生時代から転がりんこんでいるのだ)。
    小林も実は人の子、青春の悩みはつきないもので、父の死、母の病気、そして自身の将来、そして何より転がり込んできた女に、心底参っているのだ。小林を、文壇でどでんと構えている偉そうなヤツと見るなら、それは全くのお門違いだ。それらに心底参っている、だからこそ、文芸評論が正しく書けるのだ。ただ、あまりにも皮肉屋で負けず嫌いだから素直な文章が書けないだけだ。
    小林嫌いも結構。だが、作品を、文学を深くただしく読むには、何に感動すべきかは、小林秀雄に教わるところが大きいのだ。ボオドレエルの憂愁に気が塞いでいた彼を、その憂鬱の穹窿を打ち壊してくれた、いわゆるランボー体験は、文学を志す者には、神話的なエピソードではある。
    当職は、先の全作品第1巻を読み終えて、昔からの課題だった「様々なる意匠」について書きたいと思う。そして出来るなら、難題「Xへの手紙」論もものしたい。

http://gunnkei2.sakura.ne.jp/index.html

 

モーツアルトについて

 投稿者:管理人 iPad 5007  投稿日:2018年 3月 1日(木)14時17分11秒
返信・引用 編集済
     旧稿から、モーツアルト論の一節と、その楽曲をご披露しますね。
                                                                                (「群系」第19号  「モーツアルトの協奏曲について」)

                                    ◯

 弦楽五重奏曲第四番ト短調 第一楽章(K516)を聴く。初めて聴く。切なさをすぐに感じた。ああ、これなんだな、とやっと了解した。実は同じト短調の曲といっても、いわゆるト短調のシンフォニィー(K550)と混同していたのである(こちらは小林秀雄が道頓堀でふらついたとき、急に頭の中をこのメロディーが流れた、というエピソードのあるやつである)。弦楽器の方なんだ。小林秀雄が弦楽器が好きだ、というのを高橋英夫もどこかで言っていたなということを思う。
    何をぶつぶつとお思いかもしれないが、このト短調のクィンテット(弦楽五重奏曲)の発見はまったく別のモーツアルトを見つけた感じだったのだ。スタンダールが有名なモーツアルト研究者であるのはよく知られているが、彼がモーツアルトの音楽の根底にはtristesse(かなしさ)があるといって、以下小林秀雄は次のように言っている。

 ゲオンがこれをtristesse allante と呼んでいるのを読んだ時、僕は自分の感じを一言で言われた様に思い驚いた。確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する、涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法を知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの先にも後にもない。まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駈け抜ける。  (『モオツァルト』9より)

     筆者は改めて、音楽の鑑賞法を教わる。このト短調のクィンテットのtristesse allante(疾走するかなしみ)は、たとえば、〝空の青さや海の匂いの様に〟〝万葉の歌人が、その使用法を知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい〟のだ。このような時間空間をまったく隔てた比喩も許されるのだ、と。
 だが、モーツアルトに〝かなしみ〟などあるのか。小林秀雄はいまの文に続いて、微妙な表現を使っている。

  彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な荷物を引き摺っていないだけだ。彼は悲しんでいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当たり前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない。(同)

 「彼は悲しんでいない」とある。いわば、「透明な感じ」(高橋英夫)なのであろうか。
モーツアルトに言及した文章として小林秀雄『モオツァルト』の意味は非常に大きい。右のようなそ
の本質について書かれた若干のエスプリを引用しておこう。

(先の大阪・道頓堀での事件の叙述のあと)思い出しているのではない。モオツァルトの音楽を思い
出すという様な事は出来ない。それは、いつも生れたばかりの姿で現れ、その時々の僕の思想や感情
には全く無頓着に、何というか、絶対的な新鮮性とでもいうべきもので、僕を驚かす。(同2)

 成る程、モオツァルトには、心の底を吐露する様な友は一人もいなかったのは確かだろうが、しかし、心の底などというものが、そもそもモオツァルトにはなかったとしたら、どういう事になるか。…モオツァルトの孤独は、彼の深い無邪気さが、その上に坐るある充実した確かな物であった。彼は両親の留守に遊んでいる子供の様に孤独であった。(同9)

  彼に必要だったのは主題という様な曖昧なものではなく、寧ろ最初の楽音だ。或る女の肉声でもいいし、偶然鳴らされたクラヴサンの音でもいい。これらの声帯や金属の振動を内容とする或る美しい形式が鳴り響くと、モオツァルトの異常な耳は、そのあらゆる共鳴を聞き分ける。凡庸な耳には沈黙しかない空間は、彼にはあらゆる自由な和音で満たされるであろう。(同10)

  独創家たらんとする空虚で陥穽に充ちた企図などに、彼は悩まされたことはなかった。模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引き離してしまったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣できぬものに出会えようか。(同11)

  モオツァルトは目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外な処に連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたということだった。(同11)

     これらを一瞥しただけでも、まさしく臨機応変の天才の面貌が思い浮かべられる。モーツアルトは、孤独・無邪気、その音楽の新鮮さ・透明さ、さらに「目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した」のであった。

https://m.youtube.com/watch?v=hEFu9iV0Zxw

http://gunnkei.sakura.ne.jp/99_blank074.html

 

文学の危機

 投稿者:管理人 iPad 994  投稿日:2018年 2月28日(水)20時40分16秒
返信・引用 編集済
  「季刊文科」の依頼原稿を済ませて、以下は余滴として書くものである。寄稿文には書かなかったことだが、一つのデータとしても開陳の意味はあろうものなので。

         〇

 ここで批評とは何か、を問い直すことは、日本の近代文学にとって、いや現代文学にとっても、大事なことではないかと訴えたい。つまり、作品の評価、作家との関係、などは小説を読んだ後に(あるいは最中でも)気にかかることではないか。それが少なくとも自己や社会などを問う、いわゆる「純文学」的なものである以上は、「批評」は、小説などの創作と裏腹にあるものとして重要なものではないか。
 ところが、巷間、いろいろ書かれている文芸同人誌や、いわゆる商業誌の新人賞の応募状況を見ても、小説の多数に比べれば、批評というジャンルの数の少なさが例証される。例として、「群像」の新人賞の応募状況をあげてみよう。
 この文芸月刊誌はいわゆる、「五大文芸雑誌」の一角を占めるものだが、中でも「群像」は新人賞に、「小説部門」と「評論部門」を双璧として掲げてきた雑誌であった。その雑誌の直近の両部門の応募状況をあげてみたい。

 例えば、平成26年度・第57回は、「小説部門」の応募総数が1746篇であったのに対し、「評論部門」は132篇、平成25年度・第56回は、「小説部門」が1851篇、「評論部門」が153篇、平成24年度・第55回は、「小説部門」が1618篇、「評論部門」が116篇、平成23年度・第54回は、「小説部門」が1721篇、「評論部門」が129篇、平成22年度・第53回は、「小説部門」が1884篇、「評論部門」が152篇であった。要するに、批評・評論は、小説の一割にも満たない応募状況なのだ。
 そして、こうした「評論部門」の応募数の少なさからか、「群像」新人賞は、平成27年度・第58回以降は、小説部門だけになってしまった(この年の応募総数は1762篇、翌年・第59回は1864篇、翌々年・第60回は2016篇、であった。入賞やその候補のタイトルからみて、すべて小説であって、評論はないとみられる)。

 文学の危機、はこのことではないか。

 巷間、創作はそれなりに作られている。SFやミステリー、をはじめ、エンタテインメント、はひきもきらない。また携帯小説などという分野もある。これらは今や大きな芸術ジャンルになったアニメ、同様、21世紀の大きな分野ではあろう。だが、これらに比べ、人間の生の意味を問う、昔ながらの小説、あるいはそうした文学や社会・時代を論ずる文芸批評は少なくなっている。

 評論家、というと、テレビに出ている評論家はいろいろいるではないか、という声が聞こえそうだが、これらの人は文芸評論家ではない。多くは国際政治学者とか、社会学者とか、あるいはタレントだとか、である。夏目漱石だとか、森鴎外、小林秀雄の名前をあげようとは到底思われない。太宰治の名前も出ようか。
 いや、お門違い、だとの意見もきこえようが、小生らが知りたいのは、そうした作家の作品についてなのである。やはりテレビはお門違いなので、せめてiPadに向かうのである。

http://prizesworld.com/prizes/novel/gznw.htm

 

同人誌の運営

 投稿者:管理人 iPad 402  投稿日:2018年 2月17日(土)00時52分4秒
返信・引用 編集済
     同人誌の運営には難しい面もある。気心の知れた二、三人の小さな同人誌の場合は、口角泡を飛ばす激論があっても、それなりに発行・運営はされるだろう(休刊になっても、また機がくれば、新しい同人誌も創刊されるだろう)。
   また逆に、同人数が百人を超える大きな雑誌の場合は、規約もあって、編集委員体制もしっかり機能しているものだろう。
    問題がありそうなのは、同人数が五十人前後の文芸同人誌であるかもしれない。編集方針はなんとかいっていても、経理問題が出来すると、いろいろな意見が出てくる。編集部としてこちらをたてれば、逆の立場の方から異論が出てきたりする。文芸同人誌という小さなものでも、印刷製本費には、しっかり消費税もかかってくる。
    なんとかこういう局面を乗り切って、頑張っていきたいと思うのだが。
 

柿本人麻呂:泣血哀慟の歌(万葉集を読む)

 投稿者:管理人 iPad 374  投稿日:2018年 1月28日(日)11時26分17秒
返信・引用 編集済
     文学のこころとは、人を思う心だと言っても過言ではなかろう。その意味では近代・現代のみならず、むしろ往昔にこそ、その心はいやましであろう。万葉集、柿本人麿の歌こそはそうした心を最大限に詠んだものであった。当職は学生時代から、彼の歌に親しんでその長歌を暗誦・愛唱してきた。以下はその一つ、その頂点のものである。ネットにある資料を抄出させていただきながら、近代文学の掲示板であるが、あえてあげさせていただきます。

                                ◯

    万葉集巻二挽歌の部に、「柿本朝臣人麻呂妻死し後泣血哀慟して作る歌二首」が収められている。その最初の歌は、人麻呂が若い頃に、通い妻として通った女人の死を悼んだものとされている。この歌には、愛する人を失った悲しみが、飾り気なく歌われており、その悲しみの情は、21世紀に生きる我々日本人にも、ひしひしと伝わってくる。
    彼が宮廷歌人として作った儀礼的挽歌とは、まったく異なった感情の世界が、そこにはある。
    まず、歌そのものを読んでいただきたい。一人の男が一人の女に寄せる、切なくも濃密な愛を読み取っていただけると思う。

       柿本朝臣人麿妻の死にし後、泣血哀慟してよめる歌二首、また短歌
  天飛ぶや 輕の路は 我妹子(わぎもこ)が 里にしあれば
  ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み
  数多(まね)く行かば 人知りぬべみ 狭根葛(さねかづら)   後も逢はむと
  大船の 思ひ頼みて かぎろひの 磐垣淵(いはがきふち)の
  隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに
  渡る日の 暮れゆくがごと 照る月の 雲隠るごと
  沖つ藻の 靡きし妹は もみち葉の 過ぎて去(い)にしと
     玉梓(たまづさ)の 使の言へば 梓弓 音のみ聞きて
  言はむすべ 為むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば
  吾が恋ふる 千重の一重も 慰むる 心もありやと
  我妹子が 止まず出で見し 輕の市に 吾が立ち聞けば
  玉たすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず
  玉ほこの 道行く人も 一人だに 似てし行かねば
  すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる
短歌二首
     秋山の黄葉を茂み惑はせる妹を求めむ山道(やまぢ)知らずも
    もちみ葉の散りぬるなべに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ

■大意
 軽の路は吾妹子の里であるから、よくよく見たいと思うけれど、いつも行ったら、人目が多いので人目につくし、しばしば行ったらきっと人が知るだろうからうるさいし、まあまあ後になってでも逢おうと、大船のように頼みにして、心の中でのみ恋しく思いつづけていたのに、空を渡る日が暮れて行くように、照る月が雲隠れてしまうように、靡き寄った妹は、亡くなってしまったと、使いの者が来て言うので、それを聞いて何と言ってよいやら、どうしてよいやら分らず、報せだけを聞いてじっとしてはいられないので、自分の恋しく思う心の千分の一でも、なぐさめられるだろうかと、吾妹子がいつも出て見ていた軽の市に、たたずんで耳をすましてみると、なつかしい人の声も聞こえず、道行く人も、一人も似た人が通らないので、何とも仕方がなく、妹の名を呼んで、袖を振ったことである。

短歌二首
秋の山の黄葉があまりに茂っているので、迷い入ってしまった恋しい妹を探し求める山道が分らないことだ。

黄葉の散って行くとともに使の者の来るのを見ると、ああこのようにして、懐しい便りが来たのだと、妹に逢った日が思い出される。(209)


「輕の路は 我妹子が 里にしあれば」とあるところから、この女人は大和の軽の里に住んでいたのであろう。その女人を、人麻呂は人目を偲んで通っていた。「ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み 数多く行かば 人知りぬべみ」とあるところから、そのように推察されるのである。
     何故、人麻呂が人目を忍ばなければならなかったか、それはわからない。この当時の結婚の形態は、通い婚が一般的であった。男は女と同居することなく、女の家に通うのである。男の中には複数の女のもとに通う者もあっただろう。逆に、複数の男に通われた女もあったことだろう。
    人麻呂がこの女のもとに通うのに人目を偲ばなければならなかったのは、この結婚が祝福されるものではなかったことを物語っているのかもしれない。もしかしたら、女には別に、正式の夫がいたのかもしれない。
   そんな推測は脇へおいて、この歌を虚心に詠むと、一人の男としての人麻呂が、最愛の女を失った悲しみが、ひしひしと伝わってくる。人麻呂は、女の面影を求めて、かつて女が足を運んだ軽の市を訪ねる。「吾が恋ふる 千重の一重も 慰むる 心もありやと 我妹子が 止まず出で見し 輕の市に 吾が立ち聞けば」と、人麻呂は、ただただ亡き人の面影を求めてさすらい歩くのである。
    誰しも思い当たることであろう。失った者の面影を求めて、その人の匂いのする所をさ迷い歩くのは、我々現代人も同じである。
    だが、そこには亡き人の面影を呼び覚ますものはなかった。かくて人麻呂は、「玉ほこの 道行く人も 一人だに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる」と絶叫する。
    女に先立たれた一人の男としての人麻呂の、痛ましいような、情けないような、何とも不思議な魂の叫びが伝わってくる。

http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/56.htm

http://www5e.biglobe.ne.jp/~narara/newpage%202-207.html

http://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.aido.html
 

古典と近代文学、似ているところ

 投稿者:管理人 デスクトップ 689  投稿日:2018年 1月19日(金)13時03分15秒
返信・引用 編集済
   やはり以前に投稿したもので恐縮ですが、再度ご披露させていただきますね。

       〇

『源氏物語』と近代文学、似てるところ 投稿者:管理人  投稿日:2009年 5月 5日(火)14時04分

 『源氏物語』の巻々、あるいは登場人物をみていると、ふっと、近代文学のそれに似ているなあ、と感じることがあります。もちろん、『源氏』の方がはるか先にできているのだから、〝真似〟や影響は、近代作品の方に決まっているのですが。以下は、ほんとに勝手な当方の見立てではあるが、いかがでしょうか。


 最初にふっとそんなことを思ったのは、30巻での「藤袴」の巻で、あんなに美しかった玉鬘が、夕霧など相応の男性の言い寄りものけて、また宮中への入内をも断って、いちばんありえない髭黒の大将と結婚してしまったことだ。玉鬘も当初は好きでなかったというのに。
 玉鬘といえば、源氏の友人・頭の中将の遺児、それもあの不幸な死に方をした夕顔と間の遺児であった。なぜ、北九州の方ですごしていたんだか理由・委細は忘れたが、いずれにしても多少の不幸な境遇は否めない。しかしこの玉鬘の美貌は多くの人を魅了するほどであった。父探しに都に来たのであったが、ある日行列なんかで見た実際の父親は、養い親の光源氏にだいぶ劣ったみえたのでがっかりしたこともあった。またあろうことか、彼女の美貌はその養いの父親になっていた光源氏も彼女に一方ならぬ想いを寄せることにもなった(有名なのは「蛍」の巻きで、たくさんの蛍が舞う中で玉鬘の顔が一入、美しく照らし出されたシーンであろう。
 でこの女主人公、とそれをめぐる人物の顛末が、当方には堀辰雄の『菜穂子』に似ている感じがする。不幸なおいたちゆえか、母との確執から逃れるせいか、一番その結婚相手にふさわしい都築明とではなく、東京のずっと年上の資産家と結婚してしまう(この段、初めて読んだときに、ああこういう道行が近代小説なのだ、なと妙に合点したことがある)。ファザーコンプレックス、と一言では言い切れないが、結婚という一段落をめぐる不思議な結末である。

 次に思うのは、結婚どころか、異性にたいして臆するところあのある男性の話で、これは《宇治十帖》の薫がそれにあたる。友人の匂宮の行動的なのに対して、マジメな勉強家であるとともに、どこか生存の影をしょっている(ま、自らの出生の秘密も抱えていたのであるが、それはともかく仏道で敬慕していた宇治の八の宮の處についに相談しに行く)。宇治の八の宮は、桐壺帝の八番目の宮で、由緒正しいのに皇統から離れ、仏道にいそしんでいたその姿が、求道の薫にぴったりだったのだろう。出生の秘密とは、源氏の実子とされるがそうではなく、光源氏の後妻・女三の宮と柏木との密通によって生れた宿命の子である。光源氏自身もそのことを知って、若い時代の藤壺との過ちを想起し、叱るどころか、苦悩している(ま、そのうぶな薫が、八の宮の娘たちを見初めて、劇を織り成しているところに、また『宇治十帖』のおもしろさはあるのであるが。
 自らの過去を思い、悩んでいる主人公がでてくる近代作品ですぐ思いつくのは漱石『彼岸過ぎ迄』であろう。そこに出てくる須永市蔵がぴったりである。97年のセンター試験にも出題された作品だが、須永にはまず出生をめぐって、子供心に陰をさすところがある。父の死ぬ直前、「市蔵、おれが死んでも、お母さんを困らせるんじゃないぞ」といわれたが、もっと不審な気持ちをそそる言葉は葬式の時の母の言葉だ。「ね、お父さんがいなくなったって、今までどおりお母さんが良くしてあげますからね」。こんな、わざわざ言わないくてよいことをいわれたために、却って、少年時代から、「僕は自分の親にたいする疑念が生れた」という須永市蔵。実際に、暗くなるべく生い育つ市蔵は異性との付き合いにも躊躇があった。親戚(いとこ筋)にあたる格好のフィアンセになりうる千代子を前にしても、愛しているのにそのことをいえない。のみならず、とてもじゃない独白(告白ではない)をするのだ。「僕は、物事に畏れを知っている。そんなんでことにあたって、どんなに二の足を踏んできたか。が、千代子はそういうことを知らない。屈託のないお嬢さんだ。僕の苦労を彼女にかけてあげたくはない」(具体的な会話内容は当方の思い出し・作成なので、関心の或る方は原文(=青空文庫)で確認されたい。
 要するに、薫も市蔵も、人生の裏面に敏感すぎる男であるだがその陰影が漱石先品に、どんなに知的な奥行きを与えたか、『源氏物語』がただの〝栄華物語〟に終わってないか、を証左するものである。

 こういうことを書いていくときりが無いが、この薫の形象、あるいはかれが後の面倒をみる柏木(恋心の不義の罪障で死んでしまう)、このふたりの暗い人物に対して、健康的で好男子で、かつ思慮深い常識家であるのが、夕霧であろう。かれは柏木の死んだ後、その後始末をし、未亡人(落葉の宮)を弔問している。また、一周忌を迎え、いまだに悲嘆にくれる父・光源氏をも慰めても居る(41巻の「幻」の巻)。もちろん、夕霧も普通の人情を持った男、父の後妻・紫の上を人目見ただけで魅了され、玉鬘が好きになり、友人の未亡人の落葉の宮を慕うようになっていく(そのことで、恋人の雲居の雁はたいへん立腹、里へ帰るなどしている)。でも、社会人として、人情のあるまっとうな青年として、夕霧の行動・心理はごくまっとうなのではないか。常に、周囲を冷静な目でみているし。
 この夕霧に相当するのは、漱石『行人』の出てくる、長井一郎の弟・二郎が似ているのではないか。兄さんの大学教授は知的だが物事にすべて懐疑的で、実は妻の愛情をも疑っている、〝幸薄い〟男だ。なんでも自分の思うようにいかないとすまない彼は時に妻をなぐる。しかし、「弱い子羊を打つ」ような自分の卑怯さも知っている。あるジレンマにはさまれた知識人のありのままを描いた傑作といえよう。貞操を疑われた奥さんと〝探偵〟を仰せつかった、弟・二郎は或る暴風雨の和歌山の温泉の寝間で、彼女(兄嫁)に告白されてしまうのある(「私はかまわなくってよ」)-。嵐の晩の一夜のこのせりふほど、兄弟の懸隔をしめした處でもあるだろう(漱石嫌いで、有名な正宗白鳥も、このシーンを「女の描けない漱石が始めて描けた」ところであるそうだ。

 この夕霧が義母である紫の上を始めてみてあこがれるシーンは、場合によっては大岡昇平『武蔵野夫人』の戦争からの帰還兵・勉に擬せられるし、あのおとなしい美貌の夫人・道子は紫の上になぞらえていいのかもしれない(勉に野性味をみるとすれば、匂宮をここにもってきてもいい)。

 また、柏木(36巻)・横笛(37巻)・鈴虫(38巻)・夕霧(39巻)あたりの、柏木の道ならぬ恋、それを見る夕霧の構図は、少し違うが、漱石「それから」の三千代を想うあまりになんども人の家のあたり(これはむろん三千代の夫である平岡の家)をへめぐるあたりに似ている。このシーンはまさしく〝恋〟だなあと最初に読んだ時想ったものだが、気になる人のことは寝てもさめても想い募るもので、明治のあの〝姦通罪〟のあった時代に、代助はついに、彼女を〝奪婚〟するのであろう(自然の情をとおしたばかりに、二人は、世間からの罰として、次の作品で宗助とお米は〝崖下〟の家に住み、奪婚された友人の影におびえて暮らすのである(柏木の場合、は、いわば中宮にあたるような女性を、たまたま横顔を見ただけで、重症の恋の病に陥り、世話になった源氏様にすまない、気持ちで、なんと死んでしまいます。ま、物語の展開上、そうしなくてはならないかったにせよ、ちょっと強引?)

 さらに、以下はほんの印象ですが、源氏が5巻「若紫」の巻きで、わらわやみに病んで北山の大徳に診てもらういわば、入院の後半、かわいらしい少女にあいますね。祖母らしき人と一緒に、雀の子をともだちが逃がしたと行って、泣いているシーン。教科書にもよく載っていた可憐なシーンですが、これは、〝垣間見(かいまみ)という、垣根から家の中、庭などを見る場面ですが、これと似た近代の小説では、室生犀星の『性に目覚める頃』、その〝お賽銭泥棒〟をのぞき見するシーンに、似ていますね。両方とも、今日では軽犯罪法違反ですが(無粋な名前だこと)、美しいものをのぞこうとするのは、『古事記』や、民話「鶴の恩返し」にしろ、普遍的な物語の行いです。
 あと、源氏が須磨で配流されて暴風雨に遭ったときあがありましたね、そのとき父王(亡き桐壺院)の亡霊が出て道案内して、無事、明石の土地だかに漂着しましたね。あの導きも、「ハムレット」にあるシーンにそっくりですね。
 また、前後しますが、柏木が自分の実の妹と知らず、玉鬘を慕うところは、三浦綾子『氷点』に少し設定が似ていますね(こっちは、ほんとの兄妹ではないのだから、恋愛はできるはずなのだけれど)。また、薫の出生の秘密ということだけでいえば、志賀直哉『暗夜行路』にもモチーフが似てないこともない。

 ま、『源氏物語』の直接の影響は、あの頃の、源氏亜流物語群や、中世王朝物語などに、むしろ色濃い影響はあるのですが、断続しているはズの、近代・現代にも通じるところをエッセイしてみました。(^^;)(>_<)(^o^)^^;<(_ _)>(-_-;)
 

〈かなしみ〉と日本人

 投稿者:管理人 デスクトップ 674  投稿日:2018年 1月19日(金)09時43分5秒
返信・引用 編集済
   今年は、「赤い鳥」が大正7年に創刊されてから100年、いわば〈童謡百年〉だそうである。それにちなんで。やはり旧稿からですが、子供の歌が冒頭にある小文を紹介しますね。



〈かなしみ〉と日本人 投稿者:管理人  投稿日:2007年 4月26日(木)02時47分35秒

  あかりをつけましょぼんぼりに  お花をあげましょ桃の花
  五人ばやしの笛太鼓       今日はたのしいひな祭り

 「うれしいひな祭り」の冒頭部分であるが、この童謡をいかにも〈かなしげ〉な歌と批評する人がいる。「うれしいひな祭り」という題であり、「今日はたのしいひな祭り」と歌っているのに、歌ってみればわかるように、実に〈かなしげ〉に響く、という―。 こんな「序文」ではじまるテキストを書店で手にした。タイトルは『〈かなしみ〉と日本人』、NHKのラジオ講座テキストで、著者(講師)は、竹内整一という倫理学専攻の東大教授である。
 この「うれしいひな祭り」の歌自体(サトウハチロー作詞・河村光陽作曲)にはさほど〈かなしみ〉は感じなくても、童謡や唱歌、あるいは日本の詩歌に(あるいは広く日本文化全般に)〈かなしげ〉なトーンがあるという主張には実に共感できるし、現代の日本で〈悲しみ〉の復権を唱える論には我が意を得た。

 人間には〝喜怒哀楽〟を初め、さまざまな感情・情緒があるが、例えばこの熟語に代表されている四種類に限っても、〝哀〟ほど、深くあわれなるものはあるか。例えば〝喜〟〝楽〟は、確かに、前向きな感情であり、文字通り喜ばしく、楽しいものである。しかし、例えば他人が〝喜び〟〝楽しん〟でいるのを見て、われわれは心を打たれるか。「よかったな」程度であり、場合によっては「何であいつが」と、とその〝喜ん〟でいる相手を〝憎む〟場合もある。また、〝怒〟りの感情は(〝憎む〟も同類)、確かにエネルギーがあり、実際の行動力にも結びつくような強い感情であるが、それは何か「分析以前の」原始的な感情であり、その瞬発力の前にもう少し思弁があれば、という後悔があとに立つ感情ではある(〝自爆テロ〟はどうにかならないか)。
 そういう点に鑑みれば、〝哀〟の感情ほど、情緒深く、人間精神の深奥に徹した感情はないように思われる。〝かなしみ〟とか〝あはれ〟という感情は、人間の奥深くに発せられる、自発的な、理性的・内省的な、どうにもやるせのない情緒であって、この感情のたゆたいこそは、その様態・動向からも、〝喜怒哀楽〟の四つの中でも、他に抜きん出ている。
 この四つの感情を人間以外の他の動物に置き換えてみると、このことははっきりする。例えば、猫に〝喜怒哀楽〟はあるか―。〝喜〟〝楽〟があるのは、えさでもやって食べているのをみれば、あるだろうと推測できる(おいしい魚などだと〝喜〟んで食べているように見えるし、猫じゃらしで遊んでやると〝楽しん〟でいるように見える)。〝怒〟になると、これはもう動物の本能と思えるほど、われわれは普段に眼にする。ところが、〝哀〟はどうか。私見であるが、当方には猫にはそれを感じることは出来ない。確かに犬には、なんとなく〝哀しげ〟な顔をするときがあって、やはり猫よりは〝高級〟なんだろう、と思われる。
 そう、〝哀〟はやはり、〝高級〟な情趣なのである。〝怒〟のような旧皮質そのものが露出するのではなくして、新皮質と旧皮質を相互に往来した上での(これは比喩である)、ある情趣なのだ。

 「かなしい」を語源的に分析すると、「~しかねる」からきたそうだ。親しい者との死別など、どうにも処理しかねる感情がわいてくる。「かなしみ」は、それをどうにもできないからかなしいのであって、これは怒りのように対象を見つけて、ぶちかますというわけにもいかない。〝喜〟〝楽〟などのように、互いの肩を叩いて、感情を共有するといわけにもいかない(よく、涙にくれて互いに抱擁するなど子女の場合にみかけるが、それはそれよりしかたがないという消極的な理由によるのであり、〝喜〟〝楽〟の積極的な行為とは違うことは、ぜひ留意したいところである)。
 「かなしく、やるせない」などという。この「やるせない」も、同根の語であって、「遣る」「瀬」がない、すなわち、(悲しい感情などを)「遣る」(どこかに流し出す・排出する)、そうした「瀬」(水の流れ口)がないのである。くぐもった感情は、どこにも排出できず、内部に纏綿するのである。本居宣長は、そうした情趣(「あはれ」)をそのまま纏綿させるのがよい、といったそうだが、たしかに、それこそが心身のために、わが民族の美学に添っている。

 近来、「かなしい」というのは〝クライ〟だとか、〝めめしい〟とかいわれ、否定的な感情とされてきたが、それはそうではない。「かなしみ」があるからこそ、人間は人生の奥深さ、人間精神の深奥、文化の奥深い豊かさを知れるのである。欧米、なかんずくアメリカ文明のその場限りの楽しさ・豊かさ、に酔い痴れていては、この奥深い情趣をしることはできない(〝ディズニー〟もいいが、常に愉しく陽気に、愛嬌ふるまいて、とはいかないのが人間ではないか)。
 この感情こそは、人間のみが保持できる〝人間らしい〟感情である。

 本テキストでは、宮澤賢治のかなしみ(特に妹トシとの死別に際する)や、国木田独歩や西田幾多郎のいわば生存の根本のかなしみ、などを紹介しているが、当方も感じていた古典に取材した〝かなしみ〟の例を最後に紹介しておこう。


 「源氏物語」に〝柏木〟という男が登場する。この男がひょんなきっかけで、ある女を死ぬほど恋してしまう。女は〝女三宮〟といって、じつは光源氏の後妻にあたる人である。その〝人妻〟を恋してしまった。ほんのちょっとしたきっかけであった。親友である〝夕霧〟(源氏と故葵上との息子)たちと蹴鞠に興じていたある夕べ、鞠を追いかけて偶然、女三宮の姿を御簾の隙間から垣間見てしまった。一目惚れ。以来、柏木の懊悩が始まる(「源氏物語」における、こうした〝垣間見〟は、印象深い。初めのほうの光源氏による紫の上の垣間見も有名だが、この女三宮の場合は西日を背にして、実に神々しいほどのまぶしさだったようだ)。
 女三宮というのは、実は源氏の兄、朱雀天皇の愛娘で、どうにも嫁ぎ先が見つからぬ際に、あえて権勢ある弟、後見役ともなる光源氏に降嫁させたのであった(その際、最愛の妻、紫の上の懊悩は人知れず深いものであった)。中年の源氏も、新妻に興味はなくはないものの、そのあまりにも内面の幼さに興がそがれた、ということもあったようだ。
 だが、ドラマは本物語の核心に関わるところへまで展開する。すなわち、柏木はついに女三宮と不義を犯すのである。源氏が病に臥せった紫の上を看病している隙をぬった行動であった(のちに、生まれる子こそが、〝宇治十帖〟の主人公・〝薫〟であった)。あとでそれが露見し、柏木は光源氏からそれとなくそれを指弾される(源氏としても、自身の藤壺とのあやまちがあったのだ)。柏木にとって、それはかなり手痛いことであった。光源氏といえば当時もう栄耀栄華を極めた人であり、そのひとの指呼を受けたということで、懊悩は深まり、ついに死の床に伏す。そして、愛したその人(女三宮)に向けて、最後の一言を頼むのある。「あはれとだにのたまはせよ」。しかし、女三宮はそれには応えない。これほどの〝かなしさ〟〝やるせなさ〟はあるだろうか。柏木は、間際に(せめて、いとしいよだけでもおっしゃってください)と乞うたのだった。

 「かなしみ」は、個体としての感情であるが、民族の、あるいは共同体の情趣、である。日本古典、あるいは近代文学には、それらを感じさせる名場面が多く見受けられる。どのように、かなしいのか、その美学は、などいろいろ考えてみたいところである。
 

「更級日記」のことなど

 投稿者:管理人 デスクトップ 315  投稿日:2018年 1月17日(水)12時39分47秒
返信・引用 編集済
   井口文学についてはまた改めて紹介したいところですが、旧PCのデータを調べていたら、きょうのように雨もよいの寒い日、同じ情緒を綴っていた投稿の元原稿がありましたので、披露しておきますね。
                             2009年 1月 9日(金)16時59分 群系掲示板

 きょうはひさしぶりに雪が降って、寒さがいちだんと厳しい。ちょうど締切の仕事があって家に閉じこもらねばならないから、出かける気持ちが抑えられてよい。仕事がなくて天気がいい日など、気持ちがうきうき(あるいはうずうずして)外へ行かないではすまないときがある。こんな気持ちは人皆に普遍的なようであって、「死の家の記録」の〝囚人〟たちでも、天気の悪い日は却って外界への憧れを持たずにすんだようだと作者ドストエフスキーはその気持ちをいっている(捕囚の人ほど、外への、自由への憧れは強かろう)。囚人たちは、風呂へはいっているとき、〝娑婆〟のことをいろいろ云々していたようだ(こんなシベリアの流刑地に、風呂なんてあったのかな。読後の記憶としてあのシーンは印象的だった)。

 我が古典でも、晴れの日は時にお出掛けがあったようだ。「女車」に乗って、平安の女房たちも郊外へピクニックへ出かけたようである。牛車に木漏れ陽のする木の枝がかかる様をみずみずしく清少納言も書いていたようだった。逆に風雨や雪に降り込められた塞いだ気分の女房たちのようすも「枕草子」にはあったようだ。宮中で、同僚たちも相応にいたなかで、そうした自然界の〝大荒れ〟はいかにもさびしく、またこわいような気持ちであったろう(特に雷がおどろおどろしく鳴り響くときなど、気が気でないようであったろう)。

 近代ならともかく、まだ迷信や未知がたくさんあった頃、人々はどんなに心淋しいときを送ったことだろう。「枕」や「源氏」はむろん、「更級日記」などは、人事もないあわせでそうした気持ちを叙していて、いまの文章など以上に、その心象は印象けざやかである。たった原稿用紙100枚も足らないこの「押し花の匂いのする」(堀辰雄)日記には、かの時代のそんなに身分は高くはない(受領階級)に生い育ったからこその様々な感慨があって、気持ちをそそる。都へ向かう旅日記で目にしたものは少女時代の思い出を追想したからこそもあって(また筆を持った晩年の今の悲愁の気持ちもあわさって)なんともいえない、人生の万華鏡ともいえる。

 十歳前後で、上総(千葉・市原)のこの土地を去ろうとする頃に、手作りの木彫りの丈六の仏を見捨てていく気持ちのいじらしさ、この土地の何もかも目にとどめたいとする気持ちなどは、通信・交通の発達し今日では感じえぬ、心の髄まで染みとおった感慨であったろう(人間の本来の原初的感情とも思える)。途中松里(今の松戸)で長年面倒を看てくれた乳母との別れ、一面の茅の生えた武蔵野を行く茫々の感覚(竹芝の昔語りを挿入しないではいられぬほどの茫漠なさまーそれが今日の東京である)、あるいは丹沢の山の暗がり、そこで野宿するのもなんともそら恐ろしいものだったろう(少女の身では、またとんでもない原初的体験の日々であった)。そんな中、暗がりから現れた遊女たち、その澄んだ声に、少女ら一行はなんともいえぬ癒しを覚えたことだろう(少女だからこその、そうした歌舞を演ずる人への目の覚めるほどの感慨は、最近でも韓国ドラマ「ファン・ジニ」NHK土曜深夜、でキーセンたちの舞いに瞠目した主人公少女の初々しい感動に見られたことだった)。旅の一行も命がけだったろうが、当時の遊女たちも、それこそ命がけで、その生業を生きていたであろう。情報のあまりない中古という地平は、それこそ毎日毎日が「生きる」そのものであったと思われる。
 やっと都の邸宅へ着いたが、都といっても、木々がうっそうと茂り、夜中でもあったでもあったし、少女の落胆は相応なものであったろう(物語のある都はどんなに華やかなものかという幻想もあった)。その都での生活もまた、少女の夢と幻想を少しずつ破っていく現実ばかりであった。でもそうした中でもささやか日々の暮らしを点綴するその筆致にも、もはや懐かしい、とも言表できるような日常があった。

 時に姉との生活は今日にも通じる、ある纏綿とした情緒を読む者の気持ちにひたさないではいられない。ある晩、夜空にながれ星をみる二人。ふっと、姉は「ねえ、いま急に私がいなくなったらどう思う」。妹は(何を言うの)となま恐ろしい気持ちになる。「冗談よ」と紛らわしげに姉はいうが、それを受け止める妹(作者)の気持ちは真にいかばかりであったろうか。姉の「急にいなくなったら」という言葉は現代でもありそうだ。そしてこの言葉は姉妹の、特に姉に特有の属性かもしれない。妹をかばい、保護してきた、特に母親が常時身近にいるわけではない家族関係にあっては、姉は我が身を犠牲にする母性の象徴でもあったかもしれない。
 その姉妹の会話の中に現れたのが一匹の子猫であった。「かわいらしい。ね、この猫を飼いましょう」。どちらの提案かこの猫を飼うという話が、この日記、特に姉妹の生活にあるけざやかな印象を与えることになる(ちなみに平安の当時、猫は今日ほど多くはなく、もの珍しかったそうである)。すなわち、姉が病気になって、猫が姉妹から遠ざけられて、従者たちの居所に置かれていた頃、姉の夢にその猫が現れたというのである。「猫はどこ?」がばっと起きた姉は言う。実は夢に、その猫が現れて言うには「私は侍従の大納言の娘の生まれ変わりです。久しぶりにご姉妹の近辺にいられて嬉しかったのですが、近頃は遠ざけられて、あやしの者たちの近辺にいるのが憂わしいのです」。この「侍従の大納言の娘」というのは、姉妹が(特に妹が)、〝手〟を習っていた方だったのだ。昔は文字はそれこそ手習いであって、身近に手をとって教えてもらった。だが、「侍従の大納言の娘」はあるときはかなくなって、死んでしまった。その辞世の歌に「私がいなくなってしまったら、鳥部山に立つ煙を私だと思ってほしい」というものだった。当時の仏教的な無常観ならでは(いや、今日にも通じる)死生のむなしさがつたわる歌である(煙となる、は「なくなる」という言表になんともぴったりだ)。

 「更級日記」はその後、その大切な姉の死、宮仕えのこと、それから帰って老残の父へのなんとも切ない思い、そして残った姉の遺児を川の字のように添い寝すること、一家の大黒柱になっていかなねばならない、夢から覚めた現実へ回帰せざるを得ないいきさつが主人公の思い(それは歴史上の多くの女たちの思いであったろう)とともにつづられる。そして、やっと三十歳をかなり経て結婚するが(当時としては破格の晩婚)、けっして悪い夫ではなかったのに、幸福は得られず、夫の任地にくだる際にみた流れ星の不吉な予感が的中して、彼女はやもめとなる。老残の孤独な身の上を吐露してなげく一巻の末に、さらにかきくどいた(告白相手の)尼は、あなたはまだましですよ。訪れてくれる甥ごさんがいるではないですか、私はもっと孤独ですよ、という話を最後につづって日記は終わる。
 だがけっして〝ハッピーエンド〟ではないこの日記には、不幸一辺倒とはいえないあるメッセージがわれわれには伝わるのである。すなわち、あなたは幸せばかりではなかったが、そうしたさまざまな人生の断片を思いのたけ吸い込んだではないか、精一杯生きて哀しみ、歓び、切なさを生きた、ではないか。人生のペストリ(織り込み)を十二分に味わった、その意味では、それを味わえないでその日その日をゲームなどで興じて(楽しい)とした現代の子供たちよりも、何倍か、その人生を味わえたのではないかー。


 古典には(特に日本古典には)、人間の持つそうしたさまざまな哀歓がみられる。最後に最近、目にした「うなゐ松」のある一節を紹介しておきたい(むろん仕事で古文テキストを作成する時に〝発見〟したのであるが)。
 これは近世初期、歌人木下長嘯子の歌文集『挙白集』にある章段なのだが、「うなゐ」とは 「髫/髫髪」と書いて「髪をうなじのあたりで切りそろえ、垂らしておく小児の髪形」をさすが、いっぺんの内容は、我が娘子の死期にあった際を書いたものである。十歳くらいの我が子が、春の桜を待たずに死ぬ運命なのを、健気に、父親が手折ってきた梅の小枝をみながら、後世のことを頼むいじらしさの描写は、「源氏物語」〈御法)の紫の上の逝去の場面に比するほどの筆舌の一節であった(文芸作品の味わいは、単にストーリーの有為転変、だけでなく、ある印象的な場面・情景にこそある、とわが恩師大野茂男先生が仰せであった)。
 確かに、「死」こそ「すべてを打ち切る重大事」(鴎外遺言)であるが、逆にそれこそ、その描写こそ、残ったものにどんなに感銘を与えるか、である。近代作品では、漱石「彼岸過ぎ」までに、小さな者の死(まだ一歳になったかいなかの〝雛子〟の突然死)で看ることが出来るし、有島武郎(「小さき者」)の、その母親(有島の妻)の死に、看ることが出来る。いかなる〝不幸〟が君たち残った小さき者たちにふりかかるものか、愛情に満ちたその父(有島)の筆致は、近代日本散文の最も「美しい文」に数えられるだろう(そして、彼自身の心中と、その発見の悲劇的顛末は、あわれを誘わずにいられない)。

 こんな文章を書いているヒマはなかったのですが、興にのって長く書きました。興味のある方はぜひお読みください(「うなゐ松」の一片は、実はセンター試験2006年に出題本文であります)。
 

井口氏の句集より その3

 投稿者:管理人 iPad 899  投稿日:2018年 1月12日(金)13時44分55秒
返信・引用 編集済
     ひきつづき、井口時男氏の句集『天來の獨樂』より  (p60以降)

     能登半島  七句より
1   同宿は馬の尿(ばり)ども能登の夏

2   奥能登やここにはここの蝉鳴きしきる

3   ひるがほや能登金剛をやさしうす

     追悼・秋山駿
4    ごろた石のぬくみなつかし河原菊

5    蛇にも秋ずるりと冷えた身を運ぶ

6    ポケットに胡桃一顆を尖らせて

7    ぬれぬれと雨後の満月きのこ太る

8    落葉踏んで錆びた殺意を埋め戻す

9    焼鳥の香にそぞろ神いまそかり

10   アルビノの鯉は沈めり寒椿

11   革命の書(ふみ)読む夜や大くさめ

12   をんな病むとか椿の家は小暗くて

13    ころがれ子らよ花の堤で目まひせよ

14    花かげに養(か)ふ不機嫌のこの獣

15    「国歌斉唱」蜆は蜆を生み継げよ

16    波斯菊(ハルシャギク)乱れよ団地解体す

17    蕁麻(イラクサ)や微熱あるわが神経叢

18    敗戦忌夭(わか)き死はみな汗臭く

19     雑踏を突つ切る秋のがらんどう

20     我がはらわたもかくは苦きか秋刀魚啖(く)ふ

21     粗塩にまぶせ言の葉富士冠雪

22   「原子の火」こぼれてセイタカアワダチソウ

23     セシウムをめくれば闇の逆(さか)紅葉

24     還暦や親不知に沁む寒の水

         光部美千代さんを悼む  四句   より
25     添ひ臥しのたましひ濡れて花に雨

26     かなしめばこぼれてゐたる花あせび


     9ページから103ページまで、1ページには平均三句掲載だから、300句近くあるうちの26句、先に掲出した17句を入れても、全体の一割近くにすぎない。まず、こうした抄出であることを了解されたい。ただでさえ短い句世界のほんの一部なのである。
    掲出した基準は、まず面白いこと、そして了解可能なこと(コメントが出来ること)、逆に了解に危惧があっても、何か所以がありそうなこと、掲出したいこと、などが理由となろう。

     句作を他人が注するのは危ういことである。どんな捉え違いがあるかわからない。それでも最大公約数の了解を目途に注解する。なぜするか、一言、面白いからである。

     まず、冒頭の1と2。すぐ連想する人もいようが、芭蕉の句を思う。むろん、『奥の細道』の「蚤虱馬の尿する枕元」と、「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」であるが、1は「同宿は馬の尿ども」とあって、場所も時も異なるが、芭蕉と同様な境地になっていよう。2も、「ここにはここの」「蝉鳴きしきる」のことわりがある。3は、「能登金剛」の題詞があるが、そのほとりにひるがほが咲いて、金剛の地も旅人をなじませる。「やさしうす」は俳句ならでは言表である。
     4は、文芸評論家・秋山駿への追悼句。「ごろた石」は、地面に転がっている石ころ。『内部の人間』以来、秋山氏のキーワードは「石ころの人間」であった。内向の世代一流の自己凝視。それを作者は「ぬくみなつかし」と受けている。(作者、暮れに刊行の講談社文芸文庫の秋山駿『小林秀雄と中原中也』の解説を書いているそうな)。
     5、「蛇」を受けて「ずるりと冷えた」と続ける。こうした擬態語の妙。欧米語ではどう表現するものか。6、「ポケット」と「胡桃」の子供言葉に、「一顆」と「尖らせて」の大人の自我。7、「ぬれぬれと」と「きのこ太る」が妙にあう。
    8、「錆びた殺意」は前にも同工の句があったが、こうした内面こそが作句の必然。「錆びた」「埋め戻す」に躊躇いと時の経過を思わせる。
    9、「焼鳥」にも神がいらっしゃるのだ。そわそわと人を誘惑する神さまが。
   10、「アルビノ」は、メラニンが欠乏する遺伝子疾患だが、「鯉」にもそうした疾患があるようだ。白い鯉は見かけることがある。「寒椿」との対照でけざやか。
   11、題詞に、「北一輝『日本改造法案大綱』を読みつつ」とあるが、作者ならではのことである。俳人には医者や政治家、等インテリも多いが、北一輝を読む俳句作者がどれほどいようか。「大くさめ」がきいている。
   12、めずらしく女人のすがた。25、26の人と関連するか。「椿の家」がポイントか。「小暗くて」と言いさしするのが、韻文の妙。
   13、これはまた一種明るい句。「ころがれ子らよ」と呼びかけ、「目まひせよ」と結ぶ。「花の堤で」が中にあるのがいい。14、これも微笑ましい一句。「不機嫌のこの獣」のいいさしがいい。こいつは、作者お気に入りの猫、かどうか。
   15、「国歌斉唱」にカギカッコがある。また、以下の「蜆は蜆を生み継げよ」の受けもわかるようで、今ひとつ分からない。「蜆」は民草、すなわち国民を意味するか。「蜆」の語には、梅崎春生の同名小説を思わせる。
   16、「波斯」は、ペルシャと打つと出てくる。波斯菊は、キク科の一年草。空き地や道端に咲く。解体された団地のそばに何気なくその黄色い花が咲いている。「乱れよ」に作者の感慨があろうか。
   17、作者の句には思いのほか、植物がおおい。「蕁麻(イラクサ)」もその一つだが、これは「蕁麻疹(ジンマシン)」にも使われるように、薬草でもある。「微熱ある」は、近頃の「微熱少年」の先発形か。
   18、終戦日といわれるこの日、「敗戦忌」と捉えるところに、作者の立ち位置はうかがえよう(がこれはこの板などの読者には多かろう)。案外に、先の大戦のこと、その悲惨を吟ずる俳句は多い。多くを語らぬ短詩だから、the rest. Is  Silenceで、余白の沈黙は読み手のそうぞうりょくに委ねるか。
   19、「がらんどう」の語には、思い出がある。皆とやっている文芸同人誌で、川端康成の特集をしたとき、同人の一人が、川端の文学を一言、「がらんどう」と題して、一論文を草した。何もないからっぽうのことだが、欧米ではただの空無だが、この国の言葉ではもう少しの余韻がある。この句もこの一種か。
   20、秋刀魚のはらわたは苦い。わがはらわたも同様か。微笑と苦笑の一句。この国ならではの句。
   21、この句には、やや長い題詞がある。いまここにそれをしめす。
         十月十六日、「群像」が新人文学賞の評論部門を廃止したことを知る。同賞を受賞して仕事を始め、十五年前に『批評の誕生/批評の死』を書いた身として、感慨無きにしも非ず。折しも富士山初冠雪。
       評論部門の廃止ー。なんとも切なく、義憤も感じる。いや、悲憤慷慨ただならずだ。批評があってこそ、この世のひみつ、秘儀を知れる、というもののはずだ。やはりアニメ全盛、目だけで感動せよとか。もはや「言の葉」は、「粗塩(あらじお)でまぶ」すしかないのかー。
    22、23は、3・11の震災、原発事故を受けた句。この悲劇をどう御したらいいか、表現者の念頭に爾来あったことだろう。俳句という短詩形で示すのはとりあえずの対処法。「原子の火」とやはりカギカッコ。原発運転の当初は、この永遠のエネルギー(に見えた)にどんな期待をかけたことだろう(私事であるが、荒正人の評論に「火ー原子エネルギー」というのがあった。雑誌『近代文学』の〈未来人〉といわれた俊秀にも期待があった)。だが、実際には、「火は」「こぼれ」てしまった。「セイタカアワダチソウ」だけが、繁茂しているとは嘱目だが、厳しい現実の受け止めがあろう。23も「セシウム」の語彙が全てを物語っていよう。「闇の」「逆紅葉」が吟じ手の認識。
   24、「還暦や」「親不知」にこの句趣はある。この感懐は人様々だろうが、評者も人も、還暦は今や一里塚に過ぎない。
    25、26の二つには、作者の言い知れぬ思いがこもっていよう。悼む対象の人は、そもそも作者に俳句の面白さを伝えた人だった。高校の句会の主宰者だったそうだが、その方は少し前に鬼籍に入っていたそうな(それを作者はインターネットの検索で知ったとか)。過去の追憶の思いとともに、ばんかんの思いで作句した。25、「添ひ臥し」と「濡れて」「花に雨」の言葉に、言い知れぬ色香の姿がただよう。だが、それは「たましひ」なのだ。26、「かなしめば」にこの作者にはめずらしいほどの気持ちが率直に表れていよう。「花あせび」におもいを象徴させるか。
     この対象の女性については、この句集にある七つの随想の最後に、「光部美千代さんを悼む」という文章に委細が書かれている。この15ページに及ぶ文章こそは、この間然するところがない句集の白眉というべきだろう。評者は、何か言いたいが、粛然とした気持ちでこの小文を終わるしかなかろう。ここまでお読みいただいて感謝します。
 

井口氏句集の随想から

 投稿者:管理人 iPad 372  投稿日:2018年 1月 8日(月)15時51分1秒
返信・引用 編集済
      井口時男氏の句集を時折開いては、鉛筆片手に各句をチェックしている。案外に奥深いもので、これは単なる嘱目吟か、それとも深い寓意があるのかといろいろ考え、あぐねている。傍にiPadを置いてわからない語句は直ちに検索して。
    自分も国語教師を務めた身、それなりの語彙の知識、地理も歴史も好きで風物の知識もあると思ったが、もう氏の蘊蓄と、語彙に対する的確に首を下げ下げである。時折詞書があって、吟じられた場所・空気を知ることも出来るが、多くはわからないでそのままやり過ごす句も多い。それでも、いくつか吟行を共にして行くうち、氏の吟じる姿勢、手振りも多少感じられてきた時、ふと目にしたのが句集の後半に折りたたまれた随想であった。これを読んであっと思った。なんだ、ここに作句の機縁が書かれているではないか。それも俳人にはないほどの詳しさ、丁寧さ、さて的確さで(さすが散文の猛者)。そこには、氏の俳句への認識、作句態度も書かれてあって、なるほどと思った(実に明快で共感出来た)。以下に、そのブリフィーングを試みる。もとより、12ページにもなる随想の、ほんの勘所を抄出するのだから、わかりにくい箇所もあるかもしれぬ。それは乞容赦。ぜひ、本句集を手にされたい。
                                        七篇ある随想の巻頭にある「突つ立ち並ぶ葱坊主」(2012年12月記)より

                                           ◯

107p
    近ごろ、時々俳句を作っている。散歩を始めたのがきっかけだった。

【注】
    この散歩のきっかけは、腹部大動脈瘤の切除手術がきっかけだったとある。このことは仄聞はしていたが、この後二十年務めた大学も辞められたとか。惜しまれたことだろうが、正しい選択だったと思う(当方も大病を経験したが、氏のような要職にはなかったので気楽ではあった)。

108p
    以後、努めて毎日歩いている。まったく、自分の生涯に散歩する日々などが来ようとは思ってもみなかった。

【注】
    学生時代の散歩は、「ただのうろつき、不審な徘徊だった」とあるが、内面に何かを抱えた人間はそういうものではなかったか。スポーツマンでもないかぎり、ランニングも散歩もなかった。中年以後、病気などの機縁で、次の人生が始まる。


     散歩を続けられたのは、近くに多摩川が流れていたおかげだ。水は無聊を慰める。
【注】
     「同じ経路を何度でも歩けば、おのずと風景の細部が目に留まる」として、見た光景、出来た「最初の句」が先に引いた、以下の句だ。

         わらわらと抱かれ曳かれて春の犬

111p
    しかし、句作が多少継続したのは一九八四年の二月から翌年にかけてのほぼ一年間だけだ。
【注】
  「古い句帖」とあるように、最近の句作の前の往時のことが書かれる。「当時、勤務していた高校に俳句好きの若い女教師がいて、彼女を中心に同僚が集まって素人句会を開いていた」ー。

          気 疎(けうと)しや木々芽吹く朝咳く男

     三句あるうちの一句をあげる。「すべて嘱目の実景、実際に発した句だが、自意識が棘立ってもいる」として、「木々芽吹く朝に咳いたのはこの私ではなかったか」とあるのは、嘱目吟を是としながら、内の自意識も隠さない作者らしい。

続いて書かれるのは、氏の作句論、いわば俳句(吟)の本質論だ。

111p
    五七五、十七音の俳句は、短歌の七七を捨てた結果、自分の思いを述懐する余地がない。だから俳句は、抒情を削ぎ、内面を切断する。

    さて、その俳句の本質について、井口氏は次のように言う。

112p
    俳句はただ、世界を小さく、鋭角的に切り取るだけだ。その切り取り方の角度が世界と向き合う角度であり、逆にたどれば自己と向き合う角度である。
    俳句に「思想」の表現などというものが可能だとすれば、そしてその「思想」がただの標語でないとすれば、この世界意識=自己意識の構造がかろうじて支えるしかないのだと思う。

【注】
    よくぞ、言ってくれた。俳句にも「思想」があり得る。それも、自己意識が辛くも支えるものとして。これは、後で述べるように、短詩形の世界史的文脈においても、稀有な可能性なのだ。

112p
    三十年前の自意識の棘立ちに比べれば、三十年ぶりの私の自意識はかなり穏やかだ。…日課としての散歩が長年無視し続けてきた自分の肉体という自然との「和解」という試みであるのと同じく、句作もまた、無視しつづけてきた風景という自然との「和解」の試みだからである。

【注】
    ここで氏が頻用する、「和解」ははしなくも、志賀直哉の〈和解〉をおもわせる。対立してきた父との和解、すべてを受け容れる境地になる。氏は、定義して次のように言表する。

112p
     「和解」は、自然にせよ人間にせよ、意のままにならない他者の存在を認知し
対象化することから始まる。この際、ユーモア(俳味)もまた「和解」の一形式である。

【注】
   ここから、氏の嘱目吟が始まる。対象を見たとおり、そのまま吟じる。「十七音の短詩が世界の多様性との接触を保持するにはそれしかない」ー。

113p
    …だが、人よりも犬や猫、ことに猫の方に私の目は行く。出会う犬はみんな紐で繋がれているが、猫どもはみんな野良だ。たぶん、猫の句がいちばん多い。

           春昼や己が尻尾をねぶる猫

微笑ましくもあるが、場所柄、以下数句あるが割愛。

116p
    認識と表現のエコノミーを本質とする俳句が、一種の寓意性、警句性を内蔵しているのは確かである。…俳句をヨーロッパに紹介したチェンバレンは、類似の詩形がないのでしかたなく、俳句を「エピグラム」、つまり詩的警句と訳していた。そこには、詩の小片という古い語義があったのだそうだ。
     なるほど詩の小片かもしれない。しかし、ものもろくに云えないような不自由な小片である。この小片は、言葉というものへの断念をさえ要求する。こんな詩形は他にない。

【注】
    それでも、井口氏がいま、この寡黙な小片に魅かれるのは、「いまの私が、小説だの批評だのといった饒舌なジャンルに飽き足りなくなったせいかもしれない」とー。
    批評というジャンルで、おそらく戦後世代でもっとも大きな達成をなした氏の現在の境地として、関心を持って聞き耳を立てる。しかし、俳句もやる批評家として、これからも活躍してもらいたい、というのが、読者の大方の希望であろう。


    
 

俳句いくつか

 投稿者:管理人 iPad 272  投稿日:2018年 1月 7日(日)20時03分6秒
返信・引用 編集済
     文芸評論家である井口時男氏はこの数年、俳句に嗜んでいるそうだ。
まったく門外漢ではあるが、当方なりに気になった句をいくつかあげさせていただく。

     1  我こそは柑子盗人山の月

      2  火のごとき暴動あれよ雨季近し

      3  秋風や魚につめたきあぎとあり

      4  まなこ病むまなこの底に冬を飼ひ

             祖母の通夜に
      5   短夜を腰の伸びたる仏かな


      6  わらわらと抱かれ曳かれて春の犬

      7  春昼や己が尻尾をねぶる猫

      8   炎天やびつこの犬が土を嗅ぐ

             網走    永山則夫の故郷
      9   晩夏光網走川はとろとろと

     10  網膜を灼く 帽子岩陰画(ネガ)の夏

              恐山
      11  秋地獄ぺらぺらまはる風車

      12  口寄せを了へてイタコは腰を伸(の)し


      13  そは猫攫ひこは柿盗ツ人いづれ白浪

      14  小春日のダチュラしなびてぶら下がり

      15   犬ふぐりまづ花々に先駆けて

      16  連翹や蝶生(あ)るる日の陽のながれ

      17  寝小便ほたるぶくろの朝まぶし

                                                         『天來の獨樂』ー井口時男句集 ー(二〇一五年十月十日  初版)より

    全く任意の抜粋であるが、句集の前半から掲出させていただいた。166ページほどの句集のうち、7pからは「古い句帖」からとあり、25pからは「 新しい句帖」からとある。また、107p以降は「随想」が七つ折り込まれている。ここに上げたのは、冒頭から、59pまでの句であって、全体の三分の一でしかない。
    さて、掲出したからには、コメントの一つでも加えねばなるまい。1は、1979年の作とあって、句集の巻頭にこれが掲出されている。「我こそは柑子盗人」とあるのは、ガキ大将の自恃だろうか、おもしろいことに、13の「新しい句帖」の一句にも通うところがある。3の句の「あぎと」は、アゴのことでここに詠みの焦点がいく。同じく4も「冬を飼ひ」が焦点だろう。
    6、7、8は犬と猫が詠まれるが、6の「わらわらと」とがきいている。多くのもの(ここでは犬)がバラバラに集まること。どういう光景か、犬にとって不幸なことか、あるいはエベントなどのことか。7はまさしく春眠のひととき。8は一転して、なにか宿命のようなものを感じる。梶井の「冬の日」に出てくる、糞まいる犬をおもいうかべた。
   9、10は作者ならではの句。永山の生まれ故郷・網走を詠んだ。ネットで検索すると、網走川があり、海岸には見事な帽子状の岩がある(必見)。むろんこれだけでなく、永山の育った青森・板柳の風景も逸することはできまい(作者は、「板柳訪問」他の散文でその地を綴っている)。
    11と12も連作の部分だが、「ぺらぺらまはる風車」と、「口寄せ」(検索)のイタコがきいている。
    14のダチュラは、チョウセンアサガオのことで、句にある通り「ぶら下がっ」っている。15の犬ふぐりは、イヌのふぐり(陰嚢)に似ているというが、ツユクサに似た青い清純な花である。句作においては星に見立てたのもあった。15の連翹(れんぎょう)はモクセイ科の黄色い花。17のほたるぶくろも、キキョウ科の花で、釣鐘状に咲く。
   かようにiPadで検索しないと、素人には詳らかにしない(おかげでだいぶ勉強になった)。

    俳句は、虚子のいうように、花鳥風月を詠むのが主流だろう。その意味では、短い言表で対象を観照的に読み込むのがポイントだろうが、作者ならではの内面の表出がないとはいえない。2の「火のごとき暴動あれよ」はそうした疼き、あるいは現状への不満が現れているものか。そうした思いは、8~10にもうかがえようが、ここに掲出した以外の句に多く見られたが、またの機会にしたい。

追加
   6の句は、多摩川の散歩で出くわした光景とのこと(後にある随想から)。ま、それで「抱かれ曵かれて」がわかった。微笑ましい情景である。





 

文学とは何かについて

 投稿者:管理人 iPad 282  投稿日:2017年12月24日(日)23時51分10秒
返信・引用 編集済
     このテーマについては、観念的に理屈でああだこうだいうより、具体的な作家を上げるのが最も説得的だろう。文学(者)とは、例えば梶井基次郎、をここではあげよう。かつての論稿から一部を掲出してみる。


  ・・・改めて梶井基次郎の諸作品を読み、感じさせられたのは、文字による表現がいかに人間やその周囲の自然、あるいは宇宙といったことまで巨細に描き分けることができるのか、といった驚きであり、またいかに、たとえばわれわれの幼年期の記憶にまで遡り、あるなつかしさを感じさせたか、であり、総じて文学表現というものが、人間の営みの中でいかに信頼のできる、われわれの生きる内実に即応しているかの、発見であった。

    まずある詩人の梶井讃の言葉を掲出したい。

      本質的な文学者                  萩原朔太郎
   日本の文学に対して、僕は常に或る満たされない不満を持って居た。それは僕の観念する「文学」が、日本の現存してゐる文学とどこか本質に於いて食ひちがつて居り、別種に属して居たからである。然るに梶井君の作品集「檸檬」を読み、始めて僕は、日本に於ける「文学」の実在観念を発見した。(中略)
   僕は考へる。文学の條件すべき要素は、単なる理智でもなく、観照でもなく、またもとより、単なる感覚や趣味でもない。文学の真の本質は、生への動物的な烈しい衝動(意志)に発足して居り、且つその意志が、対象に向って切り込むところの、本質の、比較解剖学的摘出でなければならない。(中略)
    梶井基次郎君は、日本の現文壇に於いては、稀に見る本質的文学者であった。

   この朔太郎の文章は、梶井没後に刊行されることになった全集(六蜂書房版・昭和9年、没後二年)の内容見本に載ったものであるが(新全集では別巻に所収)、こうした梶井文学の〈本質〉におりたった讃仰は、他にも見受けられる(管見では、小林秀雄、井上良雄など、戦後派では、『近代文学』同人であった佐々木基一など)。
                 「梶井基次郎  表現としてのメタファー  ー「ある心の風景」「冬の日」に即してー」
                                               (「群系」第15号 〈特集 梶井基次郎  珠玉の文学世界〉2002年より)

    いかにも朔太郎らしい言喩であるが、この朔太郎と基次郎との共鳴し合う時空間に、一つ文学なるものの表出が見られるのではあるまいか。
 

北朝鮮には、小林秀雄は生まれない。

 投稿者:管理人 iPad 961  投稿日:2017年12月22日(金)18時34分48秒
返信・引用 編集済
    北朝鮮のニュースが今世紀に入って引きも切らない。特にこの数年、金正恩という若造がトップになって以来、この国のマンガのような動向に、メディアも大国も振り回されている。やれ、核だミサイルだ、の核時代ゲームは前世紀で一応収拾がついたのではなかったか。この国のことを、嘲笑いながら、真摯な対応をする政治家やメディアは現れないものかー。
   不思議なのは、こんな小さな国に、アメリカを始め、日本も皆、振り回されていることである。GDPでいうと、日本の東北地方の一つの県の総生産しかない国に、振り回されている。いまの時代に、今さら核、大陸間弾道弾などといわれて、各国が右往左往している。これはどういう事態なのだ。アメリカが本気を出せば、赤子の手をひねるようなものではないか。
   確かに狡猾な北朝鮮は、ICBMだと言って、米国のどこかを核着弾の恐怖でもって、情勢を支配している。しかし、こんな話、危惧は前世紀のことではないか。今さら核の恐怖に怯え、子供じみたわがままをどうして許すのか。ことは、人道上の問題である。   北は、自国の安全を守ること、その手段が核であろうと、固有の権利だ、などとほざいているが、彼らがいう、「自国」とは、金正恩一派だけのことではないか。人道上の問題とは、核を向けられている国民、人びとのことをいうだけでない、北朝鮮内部の、彼の国の人民の人道上、今の金正恩政権は至って害悪だと言いたい。
    この数ヶ月、彼の国の漁船、イカ釣り船の、我が国への漂着がニュースとして流されていた。なんとも見すぼらしい木船で、多くの漁民がそこには乗っていた。皆、栄養状態もよくなく、さらにイカ釣りのノルマがあるという。漂着したからまだいいほうで、下手をすれば遭難・沈没も普通に考えられる。こういう厳しい労働条件のもとの労働、どうしてこれが労働者の国のものいえようか。中には実際遭難して遺体で発見された漁民も一、二の例ではない。彼らの労働条件、栄養状態の劣悪なこと、他国のことながら、義憤、同情の涙を禁じ得ない。
   驚くのはこうした末端の労働者のみならず、精鋭とされる兵士、特権階級とされる北朝鮮へいしにもこうした栄養状態の劣悪が見られたことだ。二、三ヶ月前の、38度線を超えてきた北の兵士、傷ついて南の介護を受けたが、ついに亡くなった彼の体から、なんと寄生虫がわんさと出てきたというではないか。我が国なら終戦直後の話だが、現代の21世紀の今日、精鋭と言われる兵士がこのざまである。
   怒りが湧いてくる。こんなバカな幼児的政権はいますぐにでも、転覆させるしかないではないか。脱北に失敗した人民、思想的に問題のあるもの、これらは皆、収容所送りだという。まるでナチスではないか。

   当方は、この国に自由はあるのか、特に学問や思想の自由は、と考えた。確かに技術的なこと、科学に関する探求・研究の自由はあろう。しかし、人文社会科学の自由はあるか。まったくもって、それは不毛の問いでさえあろうかと思ったのは、北朝鮮の国の内情をWikipediaで調べたときであった。なんと大学の名前に、金日成の名前を冠したものが数多くあるではないか。これでは、思想の自由、文学の営為は計れないと心底思ったことである。
     Wikipediaでの大学例
   金日成放送大学
   金日成軍事総合大学
   金日成政治大学
   金正日政治軍事大学
   金正淑海軍大学
   金日成総合大学
    地獄。知らないものは、そういう感覚もないであろうが、我が国のような国で文学に馴染んできたものにとっては、この国は地獄、でしかない。
 

芥川龍之介の死について

 投稿者:管理人 iPad 397  投稿日:2017年12月11日(月)20時48分26秒
返信・引用 編集済
     転換期の作家として、作品とその身ともに時代を表した作家として芥川龍之介はその第一に挙げられるであろう。明治以来、この国の近代という時代は繊細な個人に大きな犠牲をしいた。近代に抗って、二十代で夭折した、三人のT、として、北村透谷、石川啄木、小林多喜二をあげたのは、小田切秀雄であったが、確かにこれらの作家は、時代に先んじたその資質、世界観ゆえに自滅せざるを得なかった。だが、こうした明らかな犠牲に対して、芥川の場合は一見なんだかわからない自殺であった。本人も、「ぼんやりした不安」と。いっている。
   以来この芥川の死を巡って、多くの人が論じていったのは、周知のことであろう。当時代表的な見解としては、宮本顕治と小林秀雄のそれであろう。
   宮本は芥川の死を見て、その文学を「敗北の文学」とした。勃興する新しい勢力を目の前にみながら、結局それに与することなく自滅したことの謂いであったが、この勃興する勢力とは、大正期になって勢いを伸ばしてきたプロレタリア勢力であり、その文学活動であった。当時、この運動の勢いがどんなものであったか、というと、東大に新人会という左翼のサークルが出来、セツルメント活動に奉仕する学生も現れた。労働者はむろん、学生も無産政党に参画することが多くなってきた。この熱病のような左翼熱は、当時学生だった津島修治(太宰治)でさえ、「唯物弁証法は否定することの出来ない真理だ」としていたような具合だった。当の芥川も、その遺作となった「玄鶴山房」の最後に、リイプクネヒトを読む学生を配して、滅びゆく暗い山房の古い世代と対比したのであった。だが、結局、その勢力に自ら参画することなく、晩年を苦悩のうちに過ごした。宮本顕治はその芥川にむしろ同情的に、「芥川氏は自らのプチブルインテリゲンチャの苦悩を噛み締め誠実に羽搏いた」(要旨)とした。
   芥川の実像をむしろ冷静に裁断したのは小林秀雄であった。昭和四年の、「改造」懸賞論文に「様々な意匠」が二席で当選してデビューした小林は(一席は、宮本顕治「敗北の文学」)は、この喧しい喧騒のなか、舞台の正面切ってというより、自身言うように「搦め手から」登場した。この喧騒も様々ある考え方の一つに、すなわち「意匠」に過ぎないとしたのであった。小林は、「芥川龍之介の美神と宿命」でまず、彼の文学とその生を次のように裁断する。すなわち、芥川氏は人がみるような、理知の人ではなかった。その文学も神経でしかなかった。大正初期の作品から、昭和2年に死ぬ晩年まで、十年ばかりの彼の作品は、決して現実を理知の目で見据えたものではなかった。あくまでも、斜めから冷笑と皮肉を交えたものであった。よく言われるように、彼は逆説の人、でもなかった。逆説を弄するほど知的でもなかったー。
    実に辛辣であるが、いわゆる学校秀才・芥川をこのように言い切れたのは、小林ならではあろう。

   しかし、芥川の死は、時代の激動の中、後代のさまざまな人の気持ちを捉えた。何よりも同じ下町の中学の後輩・堀辰雄には大きな影響があった。「聖家族」は、芥川の死を聖なるものと捉えたものであろう。また、先の太宰治も、遠い津軽の地で芥川の死を知った。当時、「不在地主」など左翼文学を書いていた太宰はここから太宰らしい作品を書いてゆく。皆、自らに引き換えた捉え方をしていたが、同世代の問題として捉えたものに、昭和8年頃の、井上良雄の論考がある。さらに、同じ下町出身の吉本隆明にも、注目すべき論考があるが、またの機会にしたい。
 

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